炎
朝日が昇る。遥か彼方の巨大な炎のかたまり。それはやがて海辺の街をあまねく照らし、人々を眠りから覚ます。海が赤く燃え、空は美しいグラデーションを描く。人々は澄みわたった空気を胸いっぱいに吸い込み、元気よくまた営みを始める。おはよう。おはよう。
「そろそろ起きろ、ねぼすけ」
ロートヴァルは布団にくるまったR4-Bをつつく。太陽は大地から離れ、爽やかな光を放っている。
「ん〜…」
何やらむにゃむにゃ言いながら、R4-Bはようやく体を起こす。強風に吹かれたかのようなぼさぼさの髪。目をこすると、眠そうな顔で挨拶する。
「おはよぉ〜…」
「おはよう。顔を洗ってくるといい、目が覚めるぞ」
「ん〜…」
のそりとベッドからおりると、ふらふらと洗面所へ向かう。冷水を出し、ばしゃばしゃと顔を洗う。頭のもやが晴れ、目はぱっちりし、肌はつるつるになる。すべてがすっきりとする。
出発の朝。海の地方のメビウス神殿を訪れたふたりは、次は平原の地方のメビウス神殿を目指すことに決めた。そのために今日は少しだけ早起きして、海辺の街とお別れする。支度を終わらせたR4-Bは、宿屋のおばあさんに宿泊代をきちんと払うと、ロートヴァルとともに海辺の街をあとにする。…名残り惜しい。あのお祭り騒ぎの声たちが今朝も聞こえる。明るく、にぎやかな街。お魚や貝の美味しい街。また来たいな。その思いを胸に、ふたりは街の門を出ていく。
ふたりは一本道を一歩、また一歩と進んでいく。草原。緑の海。それはさわさわと風に揺られて、心地よい音楽を奏でる。季節ではないのか、ここには花は咲いていない。ふたりは道すがら会話する。
「次の神殿でも、何か思い出せるかな?」
「わからない。幸先は良いが、これがいつまでも続くとは思えない」
「それもそうだね…」
「しかし俺は、あのじいさんの話を信じることにした。だからこの旅も、しっかり最後まで果たす。他にするべきことも思いつかないしな」
「おじいちゃんのお話、どのくらい信じているの?」
「…六割」
「半信半疑じゃない?」
「だが今、こうしてお前と旅をしているだろう」
「うふふ、まぁいいや」
晴れ渡る空。限りなく広い緑の海。その中を、ふたりは深海魚のように進む。
「ここ、すごくきれいだね。癒される」
「そうだな。終わりが見えない。一面緑だ」
ふたりは進む。ひたすらに歩く。どこからか鳥の歌声が聞こえてくる。R4-Bは空を見上げて考える。鳥の歌は、音符であらわすことはできないのかしら?エメラルドの海を泳ぎきると、高い壁に囲われた街が姿を見せる。
銀行、劇場、高級な衣服を売る店、高級なチョコレートを売る店、高級な…
「う、わぁ…ゼロの数がひとつ、いやふたつくらい多いよ」
R4-Bは度肝を抜かれる。やたらとゼロの多い値段のその指輪は、ショーウィンドウにこれみよがしに飾られている。
「誰が買うんだ、これ」
ロートヴァルが呆れる。
「僕なんかより、ずっとずっとお金持ちの人が買うんだよ」
「…世の中は広いな」
ロートヴァルが遠い目をする。
そのダイヤモンドがはめ込まれた華やかな指輪は、太陽の光を受けて、この私を見ろと言わんばかりにギラつく。
「行こう、アル。こいつを見ていると目が眩む」
「あはは…そうだね。遊びに来たわけじゃないし。ほらあっち、神殿、神殿」
ふたりは石畳の通りをぬけ、街の中心にたどりつく。そこに、神殿はある。街の入口の門からも見えていたそれは、高く高く、天を突くようにそびえ立っている。
「とんがっているね」
「とんがっているな」
長方形で、立派なとんがり屋根を五つかぶったその神殿は、やはり敬虔な信徒を吸い込まんと両開きのドアを開いている。ふたりが神殿に吸い込まれようとしたその時、背後からけたたましい叫び声が響きわたる。
「火事だ!逃げろ、火事だ!」
「えっ!火事!?」
R4-Bはふりむく。ふたりが通ってきた道とは別のところから、あたふたと何人かの人間が叫び声を上げながら走ってくる。
「あっ!」
R4-Bが恐怖を含んだ、驚きの声をあげる。人々が逃げてくるその方向の奥から、煙が上がっている。すすが飛んでくる。焦げ臭い。
「だれか!火消しを!」
男が周囲に向かって怒鳴る。
そうしている間にも、まるで急成長する野獣のように煙の量はどんどん増え、神殿のそばからでも火が見えるようになる。
「まずい風向きだ」
ロートヴァルが低く言う。火事の起こっている現場から、ふたりはそう遠くない場所にいる。おまけに向かい風。人々が何もなせないのをいいことに、火は家々を舐めるようにして広がっていく。パチパチという音。木々が燃える音。
「アル、逃げるぞ」
ロートヴァルは横のR4-Bを見下ろして、端的に言う。R4-Bは、初めて火事を見るのだろう、震えている。ロートヴァルはR4-Bの小さな白い手をぎゅっと握ると、風向きの様子からして火が広がりにくいであろう方向へと走りだそうとする。…その瞬間。ほんの一秒も無いであろう、その瞬間。何かが爆発したのだろうか、大きな破裂音がする。炎の柱が立つ。見える、見える。赤、赤、赤、赤、赤…。ロートヴァルは思い出す。これをかつて見たことがある、ということを。炎。炎の柱。炎の海。プロミネンス。太陽。確かに彼は見た。見ていた。炎を。命が焼け焦げていくさまを。
「やめろ…」
意思とは関係なく、勝手に言葉が出てくる。R4-Bがロートヴァルの異変に気づく。
「ロートヴァル…?」
なおも、言葉は出てくる。
「やめろ、やめろ、やめろ…」
壊れたかのように彼はくり返す。その声はしだいに大きくなり、やがて、怒鳴り声、あるいは悲痛な叫び声に変わる。
「やめてくれ!」
そう叫んだきり、ロートヴァルは気を失う。
暗闇の中にいる。誰もいない。突然、光のつぶがあちこちに現れる。それらはしだいにふわふわと中心へ集まり、ひとつの形をなす。光り輝く、髪の長い女性のシルエット。あれは、ツノだろうか。手を伸ばす。しかし、次には引っ込める。触れてはいけない。それは禁忌だ。光に近づきすぎれば、己の身が焼けて、溶けてしまう。しかし、懐かしい光だ。話しかけようとするが、声が出ない。思い出す。声も言葉も、まだ無いのだ。これから生まれてくるのだから。それに、そんなものは必要ない。ここにいるだけでいい、ここに存在するだけでいい。触れ合うことも、会話することも必要ない。ただ、ともにいたい。いつまでも、ずっと。そう願った次の瞬間、一瞬にして彼女は消える。果てしない闇だけがある。思い出す。そうだ、これが私だ。私はここにいた、私はここに在った…
すすり泣く声が聞こえる。胸を締めつけるような、悲しい声。聞きなじんだ、大切な声。
「アル…」
かすれた声が出る。のどがいがらっぽい。頭がズキズキと痛む。まぶたが鉛のように重いが、かろうじて目を開くことができた。そこには、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたR4-Bがいる。心配と不安に蹂躙された彼が叫ぶ。
「ロートヴァル!」
R4-Bは手を伸ばし、ベッドに寝かされたロートヴァルの両の頬を手のひらで包む。
「ロートヴァル、大丈夫?痛くない?どこか怪我してる?どうして急に倒れちゃったの?煙を吸ったの?」
そこでロートヴァルはようやく、状況を理解する。火事を目撃したのだ。何かが爆発し、大きな炎の柱が立ち上がるのを見たときに、自分はおかしくなった。そして何かを叫んだのちに、気を失った。ロートヴァルは痛むのどをふるわせて、必死にR4-Bを安心させようとする。
「すまない…すまない。俺は大丈夫だ。少し頭とのどが痛むくらいだ。大したことはない」
手を伸ばし、R4-Bの青がかったふわふわの黒髪をなでる。
「心配かけて、悪かったな」
R4-Bは泣きじゃくる。言葉が出てこない。ロートヴァルはどうにかベッドから起き上がると、何度も謝り、彼をなだめる。
半時ほどたって、ようやくふたりは落ち着く。
「ロートヴァル、何があったの?」
R4-Bが赤く腫らした目で、ロートヴァルを見る。ロートヴァルは彼を不安にさせないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「わからない。あのとき、大きな炎が立ち上がるのを見て、俺は何かを思い出しかけた。前にもあんな炎を、いや、もっと巨大な炎を見たことがある、とな。でもそれがいつ、どこで見たものなのかは思い出せないんだ」
「そう…」
「それから、気を失っているあいだ、何か夢を見ていたような気がする。真っ暗闇の中で、誰かが目の前にいた。光り輝く誰かが。俺の大切な人だって、すぐにわかった。しかし…」
「しかし?」
ロートヴァルは一瞬、言葉をつまらせる。一度目を閉じ、またすぐに開けると、続ける。
「消えてしまったんだ。目の前で、一瞬にして。あとは暗闇だけが残った」
R4-Bは首をひねり、恐る恐る言う。
「もしかして、ロートヴァルは戦争を体験したんじゃない?占いのおじいちゃんが言っていたように。そのときに、誰か大事な人を亡くしてしまった…とか?」
ロートヴァルは眉間にしわをよせて黙る。R4-Bも黙る。しばらくの間、沈黙がその場を支配する。突然、R4-Bが明るい顔でその沈黙を破る。
「でも、また一歩前進だね!」
さっきまで泣きじゃくっていたはずのR4-Bが笑顔で言うのを見て、ロートヴァルは少し面食らう。
「あ、ああ…なにはともあれ、そうだな」
ロートヴァルも顔をほころばせる。R4-Bはロートヴァルの正面に来ると、きちんと目を見て静かに言う。
「次はもう、お願いだから倒れたりなんかしないでね」
ロートヴァルもまた、誠実な目で見つめ返す。
「ああ、もちろん」
ロートヴァルはあえて、黙っていた。R4-Bに少しだけ、隠しごとをした。もう彼は、自分が誰なのか、自分と炎に何の関係があるのか、おおかた見当がついている。
そしてR4-Bは、この小さな悪魔の子は、もう大人にはなれない。
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