ガラス製の夢

「ロートヴァル、上手すぎるよ!教えた僕よりも、ずっときれいに書けてる。この調子なら、そのうち文字を書くお仕事にもつけちゃうかも!」

いささかサイズの大きい、大人用の椅子に座ったR4-Bが、黄色い声をあげる。そのテーブルをはさんだ向かいには、大人用の椅子に座っているはずなのに、いささかそのサイズが小さく見えるほどに巨体のロートヴァルが座っている。右手には羽根ペン、左手にはまだインクの乾ききっていない、アルファベットがびっしり書かれた紙。

「よくわからんが、文字の形が単純で助かった」

まだ甲高い声でロートヴァルをほめ続けるR4-Bに少し照れながらも、ぶっきらぼうに言う。R4-Bはぱちぱちと拍手する。

「たまに変な書き順をしている気もするけれど、そんなの指摘する気が失せるくらいきれい!」

「そ、そうか。…感謝する」

そう言いながらロートヴァルは、自分の書いた文字で埋めつくされた紙をじっと見つめる。槍の穂先のように、きりりと尖った「A」の文字。なぞりたくなるような、美しいカーブを持つ「R」の文字。それらを眺めながら、ロートヴァルはふとあることを思いつく。

「あーるふぉー、びぃ…だったな。お前の名前はどんなつづりなんだ?」

その途端、R4-Bはいきなり背後から冷水をかけられたかのようにびくっとし、凍りついた。さっきまで浮かべていた笑顔が、悲しく引きつる。R4-Bはどうにかして、もごもごと聞き取りづらい声を絞り出す。かたまった舌を動かして、何とかこたえようとする。

「そ、その…長いでしょ?僕の名前。アルでいいよ、アルって呼んで!僕の名前を書くときは、Rの一文字で大丈夫だよ」

その返答に、ロートヴァルは少し不服そうな顔をする。ちょうど彼と出会ったばかりのR4-Bが、彼の名前を教えてもらえなかった際にした顔のように。

「お前の呼び方は了解した。しかし俺は、お前のフルネームのつづりが知りたいんだ。長くても構わん」

「い、いや…それは…」

「さっきからどうしたんだ?体調が悪いのか?」

「い、いや、えっと、そういうわけじゃ…」

「名前のつづり、教えたくないのなら、俺も無理にはきかない。嫌なら嫌と言って断ってくれ」

「…ごめんなさい」

とっさに出たのは、謝罪の言葉だった。しかし、それをロートヴァルはお断りの意思表示だととらえたらしい。紙の余白で羽根ペンの先をぬぐうと、カチャリと置く。

「何かを一途に学ぶのも、なかなか悪くない」

低く、優しく、静かに言う。それは、ロートヴァルなりの感謝の言葉だったのだろう。しかしR4-Bに、その言葉は届いていない。受け取る余裕がない。氷の彫刻のようにかたくなりながら、R4-Bは視線をきょろきょろとしきりに動かす。冷や汗が、顔や背中をつたう。顔から、唇から血の気が引く。もう少しで…。R4-Bは思う。もう少しで、自分の正体がばれてしまうところだった。「R4-B」なんて無機質な名前、へんてこですぐ怪しまれる。いや、もう怪しまれているのかも。ロートヴァルは何も疑っていないような様子で僕の名前を受け入れてくれたけれど、発音だってなんだか奇妙だし。口の中が、からからに渇いていくのがよくわかった。ばれるのは時間の問題だ。R4-Bはそう確信した。どうして素直に自分の名前を教えてしまったのだろう。どうしてそんな油断をしてしまったのだろう。今まであまり人づき合いをしてこなかったから、自分の名前が特殊なものだということをすっかり忘れていた。自分の正体は何としてでも隠し続けるつもりだったのに。初めから、これっぽっちも隠せてなんていなかった。

このことを知っている者は多くはない。しかし、それは知っている者はゼロではないことを意味する。「R4-B」といった記号のような名前は、悪魔の一族に特有の名前だった。


その日は早く寝ることにした。あのとき、あまりにも肝が冷えて、それからR4-Bは頭がこんがらがってしまった。あのあと、ロートヴァルといつも通り会話をしたはずなのに、自分が何を話したのか、ほとんど思い出せない。頭、あるいは心の中で、どす黒い焦燥と恐怖がふくらんでいく。心臓がバクバクする。早く布団にもぐってしまおう。体を温めて落ち着こう。頭ではそう考えていても、体が思うように動かない。部屋の鍵を落としてしまう。机の上の本をたおしてしまう。何も無いところでつまづいてしまう。

「アル、やっぱり体調が悪いんだろう。火傷がまだ痛むのか?」

あまりにもわかりやすいR4-Bの変化に、ロートヴァルは眉をひそめる。幸いなことに、名前のつづりの話は出てこない。どうやらロートヴァルは、R4-Bの正体には何一つ、気づいていないようだった。めったに名乗ることなんてしてこなかった彼の、無機質な名前の違和感にも。記憶喪失に助けられたのか、それとも、もとから悪魔なんかについて知らなかったのか。どちらにせよ、この状況は好都合だった。R4-Bは、かたくなった顔の筋肉を無理やり動かして、ロートヴァルを安心させるための笑顔をつくる。上手くできているかどうかはわからない。知るすべもないし、知る気もない。ただもう、一人になりたかった。

「ぼ、僕は大丈夫!火傷の痕があちこち痛むんだけれど、ほんの少しの痛みだから、これくらいどうってことないよ」

とっさに嘘をつく。また嘘をついてしまった。いつものR4-Bなら、ここで胸がとても痛むはずなのだが、今の彼はもうそれどころではなかった。R4-Bの言葉を聞いて、ロートヴァルはより心配そうな顔をする。傷痕が痛むのに、無理に文字を教えてもらってしまったと考えているのかもしれない。

「痛み止めをつくるか?」

ロートヴァルなりの贖罪か。しかし、もう考える余裕もなくなっているR4-Bは、ロートヴァルの気持ちに気がつかない。一人にして、お願いだから!そう叫びたい気持ちを必死におさえて、R4-Bは笑顔をつくり続ける。

「大丈夫、大丈夫!もう夜だし、ロートヴァルも寝よう。僕は大丈夫だからさ。こんなの、一晩寝れば治るよ」

「いや、だが…」

しかしそう言ったきり、R4-Bはドアをぱたんと閉めてしまう。眉間のしわと渋い表情を残したまま、ロートヴァルはしばらくの間、ドアの前に取り残される。


大人になりたかった。大人になって、世界中を飛行して旅をするのが夢だった。しかし悪魔には、大人になるために、絶対に守らなければならないことが一つある。それは、「誰かのために涙を流さないこと」だ。子どもの間に、一度でも誰かのために泣いてしまったら、もうその子どもは大人になれない。肉体と精神、どちらの成長も、そこで止まってしまうのだ。これは呪いだ。神さまを傷つけ、世界の秩序を壊すという、許されないことをした悪の天使たちへの呪い。悪魔は自分勝手に生きる卑しい存在であれ。そういうことであろう。それゆえに、R4-Bは決して誰かのためには涙を流さない。痛みにたえられずに涙が出てきてしまうことはあっても、誰か他人のために泣いたことは一度もない。両親はもういないし、チェシャ以外に、特にこれと言って親しい友達もいない。少なくとも今までは。だから、誰かのために涙を流さない、という条件は今のところは守れていたのだ。少なくとも今のところは。大きくなりたい、強くなりたい。大人になりたい。そのためには泣かないこと。でもそれって、本当に正しいこと?


ロートヴァルの気持ちに気がついたのは、翌朝になってからだった。今日の天気は晴れではないらしい。窓から、薄いねずみ色の雲がかかった空が見える。ようやく冷静になった頭で、昨日のことを思い出す。ロートヴァルは自分のことを心配してくれていたのに、自分はまともにロートヴァルと向き合うこともせず、さっさとベッドで寝てしまった。…最低。R4-Bは自分の行動を恥じた。ロートヴァルへの申し訳なさで、涙がこみ上げてきた。だめだめ、泣いちゃだめ。必死で涙をおさえこむと、R4-Bはベッドから出る。洗面所の冷たい水で顔を洗うと、頭も心も冷えきってしまったように感じた。

「泣きたくない。でも…」

鏡にうつる自分自身の顔を見つめて、R4-Bは言葉を紡ぐ。

「でも、そういう生き方って、幸せなの?正しいことなの?」

さらに。

「…ねぇ、教えて。涙って、いったいどれほど大切なの?」

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