遠く、彼方を見る目

「ただいま、チェシャ!」

家に入るなり、R4-Bは明るく声を出す。すると、部屋の奥のすみっこの暗闇から、とことこと何かがやってくる。カチカチと、硬い爪が床を叩く音が聞こえる。チェシャだ。しかし、大好きなR4-Bの後ろに立つ大きな大きな見慣れぬ人物に警戒したのだろう、1、2メートルほど離れたところで立ち止まり、様子をうかがっている。それ以上は近づいてこない。

「…怖がられているな」

まるで、こんなことは慣れっこだといった様子でロートヴァルが言う。しかし少し、ほんの少しだけ、表情は寂しそうだ。R4-Bは慌ててチェシャに語りかける。

「チェシャ、ごめんね、独りぼっちにして。僕、雷にうたれて怪我しちゃったんだ。でもこのおじさん、ロートヴァルが助けてくれて、家まで連れて帰ってきてくれたんだよ!」

チェシャはR4-Bの話を聞いてもなお、警戒を解かない様子でロートヴァルをじっと見る。ロートヴァルも、何だかわからないがとりあえず、じっと見つめ返す。何かが通じ合ったのか、通じ合わなかったのか、チェシャはまたとことこと部屋のすみっこの暗がりへと消えていった。

「本当に大丈夫なのか?俺がいても」

チェシャを怖がらせないように、静かな声でロートヴァルがたずねる。

「大丈夫、大丈夫!チェシャはとっても賢いから、ロートヴァルが優しい人だってすぐに理解するよ」

「…そうか」

ロートヴァルは、チェシャが消えていった部屋のすみっこを見る。しばらく、じっと石像のようになってそのすみっこを見たのち、抱えていたR4-Bをリビングであろう部屋のソファにそっとおろす。冷たいけれどふかふかの、なじみのある場所におろされて、R4-Bは体が溶けてしまいそうなほどの安堵を感じた。ロートヴァルの腕の中も悪くないが、やはり家のふかふかソファにはかなわなかった。そして疲れが出たのだろう、R4-Bはとても眠くなってきてしまった。でもその前に、まずはロートヴァルにお礼を言って、お家の中を案内して、チェシャにご飯をあげて、ええと、それから、ロートヴァルと僕も何か食べなくちゃ…それから、それから。考えがぐるぐると頭の中をまわる。しかし、眠気も時間とともに強くなる。ほんの十秒後には、R4-Bはもう目を開けていられないくらい眠くなってしまった。R4-Bの様子に気がついたロートヴァルが、心地の良い低音の声で言う。

「怪我をしているうえに、ひどく疲れているだろう。もうすっかり夜だしな。今は寝てしまえ。ちぇしゃとやらも元気そうだ。棚に並べてある木の実が軒並みかじられていたぞ。それに…俺も大丈夫だ」

その声に包まれたR4-Bは、やがて温かい底なし沼に引きずり込まれるようにして、すっかり眠ってしまった。温かな漆黒。


朝日がまぶしい。昨夜は、カーテンを閉める体力すら無かった。澄みわたった、爽やかな光が窓から流れ込む。

R4-Bはぱちりと目を覚ますと、首だけ動かして、部屋のすみの棚の上にちょこんと立っているチェシャに元気よく挨拶する。

「おはよう!」

チェシャがこちらを見て、琥珀色の目をぱちくりする。R4-Bはふと考える。ふくろうは僕らの言葉をどこまで理解するのかしら?チェシャは簡単なパズルを解いてしまうほど賢い。僕の挨拶が通じているといいな。R4-Bの声に気づいたロートヴァルも起きたようだ。ロートヴァルは、なぜか横にならずにソファの裏に腰かけて寝ていたらしい。もぞもぞと体を動かして、R4-Bをソファの上からのぞき込む。

「起きたのか。具合はどうだ?」

起きて、何よりもまず自分の心配をしてくれるロートヴァルに、R4-Bはますます、この人はやっぱり優しい人だ、と確信する。全身はまだ真っ赤で痛むし、起き上がることもできないけれど、それでもあの激痛はもう無い。すらすらとしゃべることもできる。何もかも、ロートヴァルのおかげだ。昨夜は疲れきっていて言えなかった感謝の言葉を、R4-Bは今度こそ明るい笑顔で述べた。

「ねぇ、ロートヴァル、本当にありがとう!おかげで僕、命を救われたよ。今はもうあの激しい痛みもないし、会話も問題なくできるし。起き上がれはしないけど、でも、元気いっぱいだよ。必ずこのことは恩返しさせてね、約束!」

ロートヴァルはきょとんとしている。そして次の瞬間、何故かひどく悲しそうな顔をした。それは、まるで親を突然亡くして途方に暮れる小さな子供のようだった。暗い、穴のような目。こちらを見ているけれど、見ていない。R4-Bは心底驚く。

「ね、ねぇ!どうしちゃったの?僕、なにか悪いことをした?」

ロートヴァルは、はっと我に返ると、慌ててR4-Bに謝った。

「す、すまない、せっかくの感謝の言葉を無下にしてしまった。すまない…。いや、いやお前は何も悪いことなどしていない。俺が勝手に、その、何か変なことを感じてしまっただけだ。おそらく俺の過去にまつわる、何かを。なんなんだ、これは…」

ロートヴァルは困惑していた。あるいは動揺していた。視線をあちこちにやり、そわそわとして、困り顔になっている。人から感謝されたことがあまり無くて、照れているのかしら?R4-Bはそう考えることにした。しかし次には首をひねる。記憶をすっかり失くしてしまった人が、過去にまつわる何かを今、現在から感じ取ることなんてあるのかな?それとも、何かを思い出しかけたのかもしれない。R4-Bは、なるべくロートヴァルを刺激しないように、冷静な口調で尋ねた。

「何を感じたの?何か、思い出せそう?」

R4-Bに問われたロートヴァルは、眉間にしわを寄せ、むつかしい顔をして考えている。しばらくして、ようやく口を開く。

「すまないが、その、うまく言葉にできないみたいだ。なんというか、こう、ひどく胸が締めつけられたんだ。ぎゅう…と。この感覚、前にもどこかで…いや、気のせいだな」

一言一言を、ようやっとの気力で絞り出すようにして、ロートヴァルは語った。R4-Bは不思議そうに彼の言葉を繰り返す。

「胸が…締めつけられる?」

「…ああ。他に、この感覚を表現できるような言葉が見つからない」

「そう…」

相づちはうったものの、R4-Bにはちんぷんかんぷんだった。どうして、人に感謝されて胸が締めつけられるのだろう?そんなに嬉しかったのかしら?それとも…。

ふいに、R4-Bは両手をぱんと叩いた。ロートヴァルがかすかに驚く。

「難しく考えるのはやめよう。それよりもご飯を食べなきゃ!僕もうお腹ぺこぺこ。ロートヴァルも、お腹すいたでしょ?」

先ほどとは打って変わった雰囲気に困惑しながらも、ロートヴァルはうなずいた。

「それじゃご飯にしよう!僕はまだ動けないみたいだから、ご飯を作ることはできない。せっかくお家に招いたのにごめんね」

「いや、謝らなくていい。俺も、お前の家の食料を横取りする気はない。自分でなんとかする」

くるりと玄関のドアの方へ体を向けるロートヴァルに、R4-Bは大きめの声で返す。

「ちょっと!だめだよ、恩返しするって約束したでしょ?せめてご飯くらい、ごちそうさせてよ」

「え、あ、いや…」

「いいから座って。ほら!」

おどおどしているロートヴァルを、指で指し示した椅子に半ば強引に座らせると、R4-Bはソファに横になったまま、口頭で説明した。

「机の上にバスケットがあるでしょ?果物がたくさん入ったやつだよ。そこから好きなものを選んで食べて!桃でもりんごでも、梨でもイチジクでも、なんでもね。遠慮しないで。本当はシチューか何か、温かい料理を作ってあげたかったんだけど、まだ痛くて動けないから、もう数日だけ待っててほしいな」

「無理して料理しなくていい。それじゃ、お言葉に甘えて、いただくとしよう」

ロートヴァルの口調はもう、もとのぶっきらぼうなものに戻っていた。ロートヴァルはこうでなくちゃ。R4-Bは一安心すると、一つ思いついてこう付け足した。

「あっ。僕も食べたいから、何か適当に果物を持ってきてくれないかな。丸かじりできそうなやつ」

口をもごもご動かしながら、ロートヴァルが低く言う。

「横になった体勢では食えないだろう。俺が起こしてやるから少し待ってろ」

「あ、いや、そんなに急いで食べなくても…」

「安心しろ、もう食い終わった」

「えっ!?」

ロートヴァルが椅子から立ち上がる。そしてすぐ、何かに気づいたように続ける。

「そういえばお前、そんな怪我なのに果物を丸かじりする気か?ずいぶんと痛みそうに見えるが」

「こうしてしゃべれているでしょ?少し果物をかじるくらい、平気だよ」

えへん、とR4-Bがなぜか自慢気な顔をする。ロートヴァルは、やれやれといった様子で息を一つつくと、バスケットから小さめの真っ赤なりんごを一つ、鷲づかみにして取り出した。そしてソファのもとへ行き、R4-Bをそっと抱きかかえ、ゆっくりと起こすと、真っ赤なりんごを口もとへ運ぶ。

「へへ、ありがと」

その丁寧なしぐさになんだか照れてしまったR4-Bは、小さくお礼を言う。りんごにかぶりつく。しゃり、と心地よい音が部屋に響く。たくさんの甘い蜜が、じゅわりと口の中に溢れてくる。よく熟れていて、とても美味しい。しゃくしゃく、とりんごを幸せそうにほおばるR4-Bを、ロートヴァルはぼんやりと見つめていた。いつまでも、ぼんやりと。その目は、R4-Bを見ているけれど、見ていない。

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