小さな悪魔

ねぇ、見てごらん、僕には翼がはえているでしょう?黒い翼が。僕は天使なんだ!天使なら翼が白いんじゃないかって?ううん、そんなことない。もちろん、白い翼を持つ天使もたくさんいる。でも、中には黒い翼を持つ天使だってたくさんいるんだよ。それだけじゃない。ちょうちょの羽を持つ天使だっている!驚いた?


真っ赤な嘘だ。彼は天使ではない。いや、かつては天使の一族だった。しかし、もう違う。彼は堕天使の一族、つまり悪魔だ。

「実に悪魔らしいではないか。嘘をつくなんて」

何も知らぬ者はきっとそう言うだろう。しかし、彼の心は果たして悪魔そのものか。

「では、なんだって嘘なんかついているんだ」

何も知らぬ者はきっとそう思うだろう。これには理由がある。その日、彼には新しく友だちができたのだ。


その日はひどい悪天候で、空は薄汚れたねずみのような色をしていた。雨が降り、雷が轟き、風がごうごうと吹いていた。そのさなかを、黒い翼をはばたかせて彼は飛行していた。冷たい雨粒が全身に降りかかる。空がときおりぴかっと光って、雷が落ちる。不気味な音を立てて風が吹きすさぶ。はやく帰らなきゃ。彼は急いでいた。雷雲を避けて飛ぶこともできたが、彼はあえて近道の空を飛ぶことにした。しかし、それは良くない判断だった。いや、後々のことを考えれば良い判断だったのかもしれない。とにかく、その一時だけを切り抜いて考えるならば、それは良くない判断だったのだ。闇の中を飛んでいるはずなのに、次の瞬間、目の前が光に包まれた。轟音がなる。その後のことを、彼はよく覚えていない。

気がついたのは、飛んでいたはずの空の下、深い洞窟の入り口であった。そこに彼は丁寧に寝かされ、ぼろ布が毛布のようにかけられていた。意識が鮮明になっていくにつれ、気がついた時から感じていた翼の痛みが鋭くなる。全身が焼けるように痛み、身動きができない。かろうじて首だけは動かせたので、周りを見てみる。暗い洞穴の入り口、その端っこに、奇妙な大男が座っていた。洞穴の壁に背をもたれさせ、目を閉じている。なんだか、ぐったりとした様子だった。真っ黒な髪に、日に焼けた肌。どこもぐっしょりと濡れている。雨に濡れたのかな。そこで彼はようやく、自分が雷の鳴る豪雨の中を飛行していたことを思い出した。そうだ。僕はきっと雷にうたれたんだ。体中が火傷のようになっているし、なによりあの時、すごくまぶしい光が一瞬見えたような気がしたもの…。彼は痛みを我慢して起き上がろうとする。目の前の大男が自分を助けてくれたのかもしれない。そう思った。ぐったりしていて様子が変なのも気になる。彼は起き上がって声をかけようとした。しかし体が思うように動かせない。それもそうだ。彼は体中に大火傷を負っていた。痛みで思わずうめき声が漏れる。すると、その声に気がついたのか、大男がすっと目を開けた。

「動くな」

低い声で告げられ、彼は少し怖くなる。しかし大男の言うように、体の傷からして動いても良さそうには見えない。彼はおとなしくその声にしたがった。あなたはだれ…?そう問おうとした。しかし彼の口から出たのは、かすれたうめき声だけだった。

「喋るな。説明してやる。お前は雷にうたれて墜落したんだ」

ああ、やっぱり…。彼は嵐の中を飛んだことをひどく後悔した。急いでいたとはいえ、雷の鳴り響く中を飛ぶなんて。それにしてもなぜ僕は火傷はしていても、骨折はしていなさそうなのだろう。あんなに高いところを飛んでいたのに。彼が不思議そうな顔をしていたのだろう。大男が言った。

「地面に落ちる前に、俺が拾った」

そうだったんだ。彼は驚いた。何メートルもある上空から落ちてきた僕を受けとめて助けてくれるなんて!感心している間にも、体中に痛みが走る。あまりの痛みに、涙が出そうだった。

「動くな。全身を火傷している。悪いが今はまともな道具を持っていない。雷がやんだらお前をもっと安全なところに連れて行ってやる。幸い、死にそうではないしな」

彼はかすむ目で大男を改めて見た。そしてその目を少しだけ見開く。大男の目は左右で色が違った。瞳の色だけではない。普通ならば白目であろう部分も色が違った。右目は白目に真っ黒な瞳、そして左目は真っ黒な白目に真っ赤な瞳をしていた。見たことのない化粧もしている。手も異様に大きく、黒い。人間のようだが、明らかに人間ではなさそうだった。翼がないから天使でもない。では何者なのだろう。自分と同じ悪魔か、それとも。わからない。しかしその美しさは、まるで悪魔のようだった。その美しさに見とれながら、彼はまた深い闇の中に少しずつ意識を溶かしていった。複雑な視界。

一時間ほど眠っていたのだろうか。いつの間にか雨はやみ、雲は晴れ、夕日の光がさしていた。彼はぼろ布にくるまれ、大男の太くたくましい腕に抱かれながら、目を覚ました。見上げると、大男の顔がある。なんだか、ひどく疲れているように見えた。濃いクマがあり、瞳に光はない。今気づいたことだが、この大男はあごひげを生やしていた。ながめていると、彼はむしょうにそのあごひげにさわってみたくなった。しかし痛みで体が動かない。そして、それよりも気になることがある。

「…ぃじょうぶ?」

なんとか声を絞り出し、大男にたずねる。大男が少し驚いたような表情をし、そしてすぐ顔をしかめた。

「喋るな」

相変わらず端的に命令する。しかし彼の心配が理解できたのであろう、大男はこうつけ加えた。

「俺なら大丈夫だ」

大男の声は低く、ぶっきらぼうだったが、どこか優しげだった。まるで偉大な父親に抱かれ、守られているようにさえ感じた。そのぬくもりは痛みに震える彼を包み込んだ。

大男は黙って彼をどこかへ連れて行く。彼も黙っておとなしく連れて行かれる。そして半時ほどたったころ、深い深い森にたどり着く。彼は少し驚く。てっきり医者のもとへ連れて行ってくれるとばかり思っていたからだ。しかし大男は彼の驚きになど目もくれず、ずんずんと森の中へ入っていく。彼はだんだん不安になってきた。どこへ連れて行かれるのだろう。しばらく森の中を進むと大男は、木漏れ日のさす草むらに彼を寝かせた。そしてその近くに生えている草をむしりだした。何をしているのだろう?彼は不思議でならなかったが、しだいにその意味を理解した。大男は薬草を採っているのだ。彼はようやく少し安心する。大男の真っ黒で巨大な掌いっぱいの薬草が採れると、大男は平らな石と丸い石を見つけ、薬草をその石を使ってすりつぶす。ずいぶん原始的だ。そして少しの水と混ぜ合わせ、また石で混ぜる。それを数回繰り返すと、大男はできあがったどろどろの薬を掌にうつす。横たわる少年に近づき、体にそっと手を触れる。

「すまないが、少し服をめくるぞ」

そう断ると、少年の焼け焦げて破れた、かつては純白であっただろう服を少しだけめくり、薬を体と腕に、そして背中に塗り始めた。薬が傷口にひどくしみ、彼はまたもやうめき声をもらす。彼の苦しそうな声を聞き、大男もまた辛そうな顔をする。

「すまないな」

申し訳無さそうにただひとことだけ、そう言った。

「だぃ…じょぅぶ…」

彼はなんとか声を出した。うめき声も、たまに漏れたができる限り我慢した。大男にこれ以上、辛そうな顔をしてほしくなかった。

「お前は、我慢強いな」

足にも薬を塗り終えると、大男は静かに言った。

しばらくすると、薬のおかげか、さきほどよりも体中の痛みがひき、声ももう少し出せるようになった。彼はずっと前から不思議に思っていたことをたずねた。

「あなたは…だぁれ…?」

大男はそばの木に背をもたれさせて座ると、少年の問いに短く答える。

「さあな」

彼は大男の答えに不満そうな顔をする。

「答え…て…くれない…の…?」

「痛むだろう。あんまり喋るな」

大男が顔をしかめて言う。しかしすぐに視線を落として静かに続ける。

「俺は、自分が何者か知らないんだ」

大男は目を閉じる。

「自分が誰なのかも、どこから来たのかも」

横たわる彼は目を見開く。

「そぅ…なの…?」

「ああ。不思議なことにな」

そしてもう一つ、気になっていたことをたずねる。

「つかれてるの…?つらい…の…?」

彼の問いに、大男は苦笑した。初めて大男が表情をあらわにした。少しだけ、悲しげに笑ったのだ。

「…そう見えるのか」

大男は続けた。

「なぜだかひどく体が重い。まるでこの体が、自分のものじゃないみたいだ」

そして、横たわりながら力をふりしぼってこちらを向く少年の方を見やる。

「もう寝ろ。俺が番をしていてやる。火を焚いてやりたいところだが、ここは森の中だからな」

その心地よい低音の声の言葉に甘えて、彼はそっとを閉じる。


鳥のさえずりが聞こえる。何の鳥だろう。とても綺麗な鳴き声をしている。朝日がまぶしい。火傷の傷は相変わらずひどいが、体中の痛みはだいぶ治まっている。声を出すときの喉の痛みも。

「おはよう」

彼は、もうすでに起きていて森の中をうろうろしていた大男に声をかけた。大男はこちらが目を覚ましたことに気がつくと、ひどく安心したような顔をした。

「昨日よりは元気そうだな。良かった」

彼は大男の声に嬉しくなる。そしてとても大事なことを思い出す。

「僕ったら、まだお礼を言ってなかった」

彼は起き上がろうとしたが、それはまだ無理のようだった。

「助けてくれて、ありがとう。横になったままでごめんね」

「気にするな」

大男は微笑んだ。その微笑みが、彼にはとてもまぶしかった。優しさにあふれていて、しかしどこか寂しそうな微笑みだった。その表情に、彼は目が釘付けになった。そして彼は考える。父親も、このように笑ったことがあったのだろうか。母親も、このように微笑むことがあったのだろうか。しかしそれは今考えることではない。彼は突然思い出したのだ。そうだ!僕はあの子に、チェシャにご飯をあげなきゃいけなかったんだ!せっかくりんごまで見つけたのに!彼はきょとんとしている大男にたずねる。

「ねぇ、今は何時ごろかな?今日は何日?」

大男は困ったようにうろたえる。

「す、すまん…わからない…」

彼は、大男が記憶を失っているらしいということを思い出した。

「そうだった…ごめんなさい…」

「いや、気にしないでくれ」

大男はそう言ってくれたが、彼は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そしてチェシャのことを考える。あの子は賢い子だ。きっと僕が帰ってこないことを不思議に思い、心配しているだろう。ご飯の一食くらい、自分でどうにかしているかもしれない。いや、もしかしたらお腹をすかせているかもしれないけれど、今はそう願っておこう。体が動かないのだから、どうしようもない。

もうたくさん眠ったばかりなので、横になっていてもすることがない。彼は大男と会話してみることにした。

「ねぇ、何してるの?」

大男は森の中の、彼からそう遠くないところをしきりにうろうろしていた。何かを探しているようだった。

「木の実がないか、何か食えるものがないか探しているんだ。俺もお前も、もう何時間も何も食べていないだろう?」

「そうだったね。僕は怪我をしているし、おじさんはなんだか具合が悪そうだから、何か食べて元気を出さなきゃ」

「そうしたいところだが、ここにはあまり実がなる木はなさそうだ」

大男はきょろきょろしている。木の実。植物。限りない緑。差し込む日光。

「ねぇ、おじさん。おじさんのこと、なんて呼べばいい?」

それをきいたところで彼は、自分がまだ名乗っていないことに気がついた。

「まだ名乗っていなかったね。僕はR4-B。R4-Bだよ」

「あーるふぉー、びぃ…か。わかった」

大男はR4-Bに向き直る。

「俺は…俺のことは好きに呼べ。なんて呼ばれていたかすら覚えていないから」

「そうだなぁ…おじさんのこと、僕はまだ何も知らないから、なんて呼べばいいのか思いつかないや。しばらく考えてみるよ」

「それはありがたい。呼び名をわざわざ考えてくれるとはな」

その大男の言葉を聞いて、彼は大男の名前を考えるよりも先に、記憶を失くすということはどういうことなのだろうと考えた。それは、とても心細いのではないか。それは、とても寂しいのではないか。思い出をすべて失ってしまうということなのだから。そして彼は、大男の呼び名について考えた。呼び名を考えるにはまず、その見た目からつけるのが簡単だよね。そう考えた彼は、大男をまじまじと観察した。日に焼けた肌、漆黒の髪、漆黒の右目、右頬に漆黒と真紅の化粧。タトゥーだろうか。そして左目には真紅の目。そこから彼は呼び名を提案する。

「ねぇ、ロートウントシュヴァルツをちぢめて、ロートヴァルって名前はどうかな」

大男は不思議そうな顔をする。

「何語だ、それは」

「西方の国の言葉だよ。“赤と黒”っていう意味でね。僕、外国の言葉を勉強するのが好きで、いろいろな本を読んでいるんだ。この国の言葉はうんと顔の筋肉を動かして発音しなきゃいけないんだけど、その発音がとても格好良くて好きなんだ」

「物知りだな、お前」

大男は感心したように言う。

「少し長い気もするが、お前がそう呼びたいならそう呼ぶといい。俺はかまわん」

彼は嬉しくなる。にっこり笑って言う。

「よろしくね、ロートヴァルさん」

「敬称はいらん」

「えっ?あっ…じゃあ、ロートヴァル」

かくして、悪魔の彼には新たに友だちができた。友だち、少なくとも彼はそう思っている。大男さんは、雷にうたれて全身に大火傷を負った僕を助けてくれて、治療もしてくれた。そして僕は大男さんの呼び名を考えた。彼は嬉しくて、ついにやけてしまう。これはもう、相手を友だちと呼ぶに実にふさわしいではないか!

しかし、友だちには自己紹介が必要である。そのことを思い出して、彼はさっと血の気が引いた。自己紹介するのであれば、彼は自分が堕天使の一族、悪魔であることを告白せねばならない。視界が暗くなる。嫌われるのではないか…?黒くにごった不安が彼の心の中に現れる。それは風船のようにどんどんふくらんでいき、彼の心のほとんどを占める。こんなに優しいおじさんに、いきなり嫌われたくない…。彼が見たところ、ロートヴァルは悪魔か、ありえないかもしれないけれど、神さまのどちらかではないかと考えられた。神さまにはまだ会ったことがないが、もしロートヴァルが悪魔でないのなら、残るは神さましかない。悪魔は悪魔自身を、同族を嫌っている。神さまも悪魔をひどく嫌っている。悪魔は嫌われ者なのだ。かつて悪の天使たちは、神さまに成り代わろうとし、神さまを傷つけた。伝えられた話によると、その神さまはひどい傷を負い、地上に降りて姿を隠したという。悪の天使は罰として堕天使・悪魔となり、それからというもの、先祖の為したことを悔いた悪魔の子孫たちは同族を、自分自身を汚らわしいものと見なすようになった。R4-Bも例外ではない。神が隠れた世界はそれでもなお光を失わず、今もまだ命をはぐくみ続けている。しかし、近いうちに終末がくるのではないか、そのうちひどい大災害が起こり、命は死に絶えるのではないかといううわさが、世界ではしきりに流れている。初めて出会った人物に、自分は悪魔だと名乗るのは自殺行為に等しかった。

彼は、心に刃物で傷を刻みつけるような痛みを覚えながら、嘘をつく勇気をふりしぼった。

ねぇ、見てごらん、僕には翼がはえているでしょう?黒い翼が。僕は天使なんだ!天使なら翼が白いんじゃないかって?ううん、そんなことない。もちろん、白い翼を持つ天使もたくさんいる。でも、中には黒い翼を持つ天使だってたくさんいるんだよ。それだけじゃない。ちょうちょの羽を持つ天使だっている!驚いた?

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