第36話 義姉様たちの農業魔法です
栗色の髪が風にそよぎ、茶色の瞳が見開かれる。まだ幼さを残すその貌を虚空に向け、何やら長めの呪文を詠唱していたビアンカが、その両掌を畑に向けた。
「この地に、潤いをもたらせ!」
見守る住民たちが胸の中で二十ばかり数えた頃、それは起こった。
「おおっ、畑の色が変わっていく!」
そう、完全に乾き切って白くなっていた畑の土が、徐々に元の色を取り戻していくのだ。それはつまり、土に水分がもたらされたということ。
よく見れば畑の上だけに、かすかな雨が降っている。いや、雨と言うのは適切ではないだろう。その上空には雨雲もなく、背丈くらいの高さに突如として細かい水滴が現れ、それがしとしと降って土に潤いを与えているのである。
「おおっ、これがビアンカ妃の水魔法か、すげえ!」
だが、ビアンカの表情は苦しげだ。さもあろう、もともと自然現象に反することを行っている上に、眼の前にある畑は広大なのである。保有魔力を使い切るには、さほどの時間がかからないのだ。
「くっ……」
「失礼します、ビアンカ様!」
一言掛けるなり、リュシエンヌはビアンカを背中からふわりと抱き締める。いつぞやと同じように、リュシエンヌの薄い胸から魔力が染みていく。その流れは大きく速いけれど、二人にとって心地よいものだ。寄せられていたビアンカの眉がふっと緩み、地面が湿る速度が、ぐっと上がる。そしてさらに四十か五十ほど数えた頃、術者の両手がゆっくりと下ろされる。
「ふぅ……どうでしょう?」
「ビアンカ様、素晴らしいです。十分だと思います!」
やりとげた感あふれる表情のビアンカをねぎらうリュシエンヌ。見物していた農民たちにも、期待が広がる。
「これでもう一度耕せるってもんだね」
「だが、これだけ固まっちまった土を柔らかくするのは、骨だぜ……」
喜びと諦めが半ばする声に微笑みを浮かべ、リュシエンヌは次の指示を出す。
「次は種まきできるくらい、土を柔らかくしましょう。これはブリュンヒルト様にしか、できませんから!」
「リュシーのくせに私に命令するなんておこがましいわ……と言いたいところですけれど、今日は友情に免じて、言うことを聞いて差し上げますわ。ですから、ほら、早く!」
「はい、ブリュンヒルト様」
せっかちなブリュンヒルトの要求に応えて、リュシエンヌは彼女の背中にぽふっと自分の身体を押し当てる。スタートは魔力供給なしで行ってもらおうかと思っていた彼女だが、この誇り高い妃が自分の魔力を欲するなら、最初から差しあげようかという気分になる。こういうところは柔軟……というより適当なリュシエンヌである。
「う~ん、やっぱりリュシーの魔力は美味しいわ! よしっ、何でもできる気がする……行くわよっ! 土よ、我が意に従えっ!」
短い気合とともに、ブリュンヒルトがその秀麗な眉をきゅっと上げる。
「おおっ! ブリュンヒルト妃が魔法を使っているぞ!」
「……あれ? どこが変わってるのかわからないけど?」
「……何も起こっていないように見えるが」
妃の様子を見れば、魔法を使っているらしいことはわかるのだが、見物している農民の多くには、彼女の魔法が何に作用しているのか、すぐには見えないのだ。しかしやがて、農民の一人が気付いて声を上げる。
「見ろっ! 畑の土が、盛り上がってきた!」
「何だって? うん? あ、確かに!」
そう、じっくり畑の境目を見つめていると、ゆっくり、ゆっくりではあるが、その土が膨らんでいくのが、ようやくわかってくる。農民たちから上がるざわめきが、大きくなる。
ブリュンヒルトに依頼した魔法は、土をほぐして細かい粒に戻し、こちこちに固まった畑を、もとのふわふわの耕地に戻すことである。お願いした当初は「こんな地味な魔法、私には合いませんわ!」とうそぶいていた彼女だが、是非にと試してみれば実に繊細な魔法制御を見せて、驚くほど完璧な土壌形成ができた。彼女のお好みは堤防建設で見せたような豪快な魔法だが、適性はどうやら精密な魔法の方にあるようなのだ。
そして、十分ほどの施術を終えたブリュンヒルトが、ふうっと大きく息を吐く。畑の土は、施術前と比べればこぶし一つほど盛り上がっている。同行してきた農業研究所の職員が、その土を手にとる。
「これは……素晴らしい土です、妃殿下の魔法、敬服奉ります」
「ほほほ、未来の王妃たる者、このくらいは当然ですわ! それで、これから種をまけば、麦は獲れるのかしら?」
「いえ、この地域の気候は冷涼ですので、冬小麦の栽培は難しいでしょう。ですから、残念ながら来年に期待するしか……」
「ぐっ……それでは、農民たちは今年の冬をどうしのげば……」
吊り上がっていたブリュンヒルトの眉が下がり、その眼は泣きそうな形に歪む。かぶり続けた誇り高く高慢な外殻がはがれ、民をいとおしむ優しい女性の姿が、そこにあった。
「大丈夫です。そのために、アンネリーゼ様においでいただいたのですから!」
湿っぽくなった雰囲気を払うように、明るい声でリュシエンヌが宣言した。
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