第37話 リーゼ様は精霊様です?

「皆さん! 一列になって、一気に種をまいてしまいましょう!」


 リュシエンヌが良く通る声で農民たちに呼びかけるが、みんな半信半疑の面持ちだ。


「種をまくっていったって、これからじゃあ冬小麦になっちまう。無駄だよ」

「そうだよなあ。だけどこのまま何もしなかったら俺たちは飢え死に確定だ」

「あのお嬢さんがあれだけ自信満々に言ってるんだ、何かいい手があるんじゃないか?」

「そうだよ、あんなに荒れてた畑だって、こんなに綺麗にしてもらったじゃないか。王族様の魔法ってのに、期待しようよ。あたしゃ、藁にでもすがりたい気分だね」


 そう、彼らには他に選択肢はないのだ。持たされた種籾も王室がくれたものだというし、ダメになってしまっても彼らの懐は痛まない。種まきするだけならこの大人数だ、すぐに終わる楽な仕事だろう。そして、万万が一でも、あの王族様たちの力で麦が実ってくれたら。そんなことを思いつつ、百数十人の農民たちが一斉に麦の種籾をまき、予想以上に早くそれは終了した。


「ありがとうございます皆さん! では、リーゼ様、お願いしますね」

「は、はい……」


 リュシエンヌに背中を押されつつ、おどおど自信なさげに前に出る地味系王太子妃の姿に、周りをとりまく農民たちから、若干の失望感を伴ったざわめきが上がる。


「アンネリーゼ様っ、背筋を伸ばして、視線を上げてっ!」


 いつもとは違う抑えた声で、しかし厳しい調子で王太子妃を叱るのは、ブリュンヒルトだ。


「民の士気は貴女の態度次第です。貴女が自信を無くせば、民は動きません! 王太子妃だとおっしゃるなら、堂々となさいませ。さすれば民は付いて参ります!」


 ブリュンヒルトの言いようは格上の妃に対して礼を失するものであろうが、その主張は正しいと、リュシエンヌも思う。自分を率いるリーダーには堂々と自信を持っていて欲しいと望むのは、すべからく民の望むことであろう。夫を癒し家庭を安らぎの場とするだけであればアンネリーゼの控えめな性格は好ましいものであろうが、次期王妃として国民を動かすならば、もっと自分に誇りを持ってくれなくてはと。


「は、はいっ!」


 義妹の叱咤を素直に受け止めたアンネリーゼは、大きく息を吸って、その視線を種まきの終わった畑に向ける。もう一度深呼吸をして、その豊かな胸を、ぐっと張る。


「ブリュンヒルト様、ありがとうございます、目が覚めました。自信があるわけではありませんが、これから私の全力を注ぎます。リュシー様、私に力をお貸しくださいね」


 まだ少し声は震えているが、勇気を奮い起こしたらしい九歳年上の王太子妃がなぜか可愛らしく思えて、リュシエンヌはぎゅっと後ろから彼女を抱き締める。胸に回した手の上に、彼女の手も重なる。


「では、行きます」


 そう言うなり、彼女は眼を閉じ、何かを念じている。長い静かな瞑想が終わると、彼女は光を帯びた両手をゆっくりと、耕地に向かって広げた。


「おおっ、光が畑に!」


 そう、彼女の手から発せられる光が靄のように虚空を漂い、静かに畑に向けて広がっていく。そして本当にゆっくり、ゆっくりとその領域は畑全体を包み込んで、その濃さを増す。


 リュシエンヌも、彼女に向かって流れる魔力の量に驚いていた。ビアンカとブリュンヒルト同時に魔力を流した時よりもさらに大きな魔力なのだが、それは何の抵抗もなくこの王太子妃へ吸い込まれていくのだ。やはり生命を司る魔法の魔力消耗は大きいものであるらしい。


「見ろ、芽が出たぞ、さっきまいたばかりだというのに!」

「本当だ! てか、見る間に丈が伸びていくぞ!」

「あっちの方はもう、幼穂が出ているじゃねえか?」


 農民たちの驚きの声が、あちこちで上がる。数ケ月掛けて生長する過程を、ほんの数分で見せつけられているのであるから、当然の反応であろう。すでに王宮の庭園でアンネリーゼの力を確認しているリュシエンヌだが、花壇レベルから一気に広大な畑にステップアップしたのだ、彼女はその大規模な魔法に消耗させられていないだろうかと心配してしまう。思わず彼女のお腹に回した手にぎゅっと力を込めれば、優しく落ち着いた声が返ってくる。


「大丈夫ですよリュシー様。まったく問題ありません、いつまでも続けていられそう。というよりも……今までになかったくらい、調子がいいのです」


 それは彼女の体内をめぐる魔力が、自分の分を使い切ってすべてリュシエンヌの紅い魔力に置き換えられたゆえの好調だ。受けた方にはすぐわかるこのブースト効果に、与える側のリュシエンヌ本人だけが気付いていないのだが。


 そして……農民たちの上げる歓喜の声が一層高まったのを感じて畑に眼を向ければ、そこには黄金色に実り、重そうに穂を垂れた小麦が、一面に広がっていた。


「すげえ! 雨を降らせて土を造ってくれた女神様たちもすげえと思ったが、見る間に麦を実らせちまうなんて!」

「あの控えめなお妃様のお陰だね!」

「美しくて清楚で、あのお力……畑に宿るという、麦の精霊様なんじゃないかね?」

「そうだ、麦の精霊様だ!」

「精霊アンネリーゼ様ぁ!」


 民が視線を注ぐその精霊様は、暗緑色の瞳から澄んだ雫をあふれさせているのだった。


「私にも、こんなことが……」

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