第31話 義姉様たちはすごいです!

「水が来るですって? そんな!」


 見張り櫓の上にいた兵士を引きずり下ろし、二人の妃がよじ登っていく。やや動きやすい造りのドレスとはいえ、二人とも深窓の淑女とは言い難い身のこなしで素早くてっぺんに立ち、上流の方角を見て思わず、息をのむ。


 茶色い何かが、押し寄せてくる。言うまでもなくそれは、上流で堰を切って一気に流れ出した水が、土砂や木材を巻き込んで暴流になっているものだ。巻き込まれればもちろん、万に一つも助からない。警告を聞いた民たちは堤防に向かって我先にと走り逃げてくるが、どう見ても流れ下る濁流が至る方が早いだろう。


「行きますっ!」


 ビアンカがこれまでのおっとりした口調を鋭いものに変え、何やら長い呪文の詠唱を始める。


「水よっ、止まりなさい!」


 そして気合を一つ込めれば、もはや誰の眼にも見える近さに迫った濁流が、動くのをやめた。先程ブリュンヒルトが宙に浮かせた土砂とは比較にならないほど巨大な質量を持つ濁った水の侵略が、その時確かに止まったのだ。堤防の上にいち早く避難できた民から、歓喜の声が上がる。


 だが、水は上流から、後から後から押し寄せてくる。


「流量が多いです、これは厳しいです!」

「あと一分くらい支えてください!」

「できそうもありません! あと十を数えたら、放流を始めないと!」


 ビアンカの悲鳴のような叫びが上から聞こえたその時、リュシエンヌは反射的に梯子に飛び付き、櫓に駆け登っていた。運動の苦手な彼女は最後二段のところで足を踏み外してしまったけれど、ブリュンヒルトが全力で引き上げてくれる。


「リュシー、早くビアンカを!」

「はいっ!」


 必死の形相で濁流に向かって両掌を伸ばしているビアンカの背中から、その身体をぎゅっと抱き締める。押し当てた胸から魔力が一気に流れていくと、こわばっていたビアンカの上半身の筋肉が、ふっと緩む。


「ありがとうございます、楽になりました。これなら作業員の方が逃げるまでの時間が稼げそうです」


 濁流は時々刻々とその高さを増し、堤防の高さすら上回った。しかしその水は溢れることなく、その場にとどまっている。水魔法に長けるアルスフェルトで一番の遣い手といわれるビアンカの力を自身の眼で確認し、驚くしかないリュシエンヌである。


「リュシー、まだ余裕ある??」

「はいっ、魔力ならいくらでもっ!」


 唐突な問いに是と答えた次の瞬間、彼女の背中にブリュンヒルトの背中が無言で合わせられた。そこからまたもの凄い勢いで、魔力が流れ出す。


「土よ、濁流を防げ! ふぅん!」


 上流階級の淑女にあるまじき原始的な気合いを耳にしたリュシエンヌは、もう一度工事現場の方を見て仰天した。そこに積み上げられていた三十箇所ばかりの土砂の山が、一気に浮き上がったのだ、先程まで魔法で動かしていたものとは、量がヒトケタ違う。そして土砂が河岸に向かって移動し降り積もることで、造りかけの堤防が下流に向かって延びていく。


「ほら、早く固めるのよ!」


 ブリュンヒルトの叱咤に他の土魔法使いが慌てて固化の魔法を展開していく。


「作業員の避難は終わったようです、水を流してもいいですか、ブリュンヒルト様っ!」

「もうちょっと待ちなさい! せめてあの新しい開拓地を守らないと!」


 そう叫ぶ間にも、ブリュンヒルトはさらに三十箇所の土山から土砂をかき集めている。それが河岸に積み上げられることで、堤防は都合二マイルほども延ばされていた。


「いいわ、流して!」

「はいっ、さすがに限界……」


 いつもよりワントーン上がったビアンカの悲鳴を合図にしたように、濁流が一気に流れ出す。水は工事現場を間もなく飲み込み、機材も仮設の建物も、すべて流れ去った。ほうほうの体で逃げ切った作業員の民たちは、それを呆然と眺めている。


「俺たち、あそこにいたんだよな……」

「普通なら、とても逃げられなかった……」

「ビアンカ様が、濁流を防いでくださった。ビアンカ様は、女神様だ!」

「そうだ! 女神様だ!」


 いつの間にやら民たちが、見張り櫓の上に立つビアンカを、拝み始めている。最初は鷹揚に構えて歓声にこたえ、にこやかに手を振っていたビアンカも、女神扱いされるに至ってはややその頬が引きつり気味だ。


 一方反対側には、堤防のすぐ外に畑を持つ開拓民が集まりだしていた。


「あんなひどい洪水なのに、ウチの畑が無事に済んだなんて……」

「畑が流されたら、この冬が越せないところだったのに」

「ブリュンヒルト様が、瞬く間に堤防を築いてくださった!」

「もの凄い魔法だったぞ、神々しいくらいに! ブリュンヒルト様は、女神様だ!」


 持ち上げられ慣れたブリュンヒルトはややドヤ顔だが、少々居心地悪げだ。しばらく逡巡した後、ビアンカとリュシエンヌの手をそっと取って両側に従えると、良く通る高音で民衆に呼びかけた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る