第29話 ファーストキスです
「私は六年間も思い焦がれたというのに、君が何にも覚えてくれていなかったことが、ショックだなあ」
「いえ、あ、すっかり忘れていたことは、事実ですけれども……マックス様が、本当に私を気に入って下さっていたことがわかって、とっても……嬉しいです。私の魔力が必要で、アルスフェルトに呼んで頂いたのですよね、いくらでも差し上げますわ! ちょっとあの、一気に引っこ抜かれるのは、アレですけど……」
「はぁ……まだきちんとわかってもらえていないみたいだけど、まあ許してあげよう」
その口元に、リュシエンヌにしかわからない程度の笑みを浮かべ、空になったグラスに貴腐ワインのお代わりを注ぐマクシミリアンである。
「では、そのダグラス様は……」
「うん、君がアルスフェルトに到着するのを待って、ローゼルトから逃げ出している……奴らが君の価値に気づいて怒り始める前にね。当面は私の補佐官として勤めてもらうつもりだ」
「そうなのですか……それなら、これから何度もお会いできるのですよね。ダグラス様は、私をあの地獄から救って下さったお方、心からお礼を申し上げないと」
そんなことを言いながら、ワインのグラスにもう一度そのぷっくりと膨らんだ唇をつける彼女に、マクシミリアンは思わず見惚れる。血色が悪かった唇も、十七歳の娘らしい色を、徐々に取り戻している。おそらく婚約期間が明け二人が結婚式を行う頃には、絶世の美女とは言えないだろうが明るく健康的で可愛らしい妃になってくれるだろう。
「浮気はダメだぞ……いや、これは」
思わずそんなことを口走ってしまい、うろたえる王子である。彼から見てもダグラスは男の色気に溢れていて……ローゼルトでも夜の武勇伝が数知れなかったのだ。若いマクシミリアンがつい心配になってしまうのは無理のないことであろうが、クールが売りの彼としては、不覚の一言である。
「えっ……あ、そんなことは、決して」
リュシエンヌも、思わず頬を染める。いつも冷静なマクシミリアンが嫉妬の感情をあらわにすることに驚きつつ、それは自身への想いゆえと気付いてみれば、身体の奥から沸々と嬉しさが染み出してこようと言うものである。
いつしか二人はグラスを置いて、静かに唇を重ねた。初めてのキスは、極甘ワインの味がした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「ごめんなさいねリュシー様、私たちの公務にまで付き合わせてしまって……」
「あらビアンカ、リュシーは私たちの『お友達』になったのだから、助け合うのは、当たり前ではなくて?」
第二王子妃の二人に連れられて来たのは、王都から馬車で三時間ほどで着く河畔である。ブリュンヒルトが中心となって、魔法で治水護岸工事を行うというので、強引に誘われたのだ。
目の前の河は、それほどの大河には見えないが、年に二回ほど一気に増水し、周辺の領に深刻な氾濫被害をもたらすのだという。上流の谷に土砂や流木が堆積して堰き止められた水が、雪解けや長雨の季節になると天然の堰を壊して一気に下流を水浸しにしてしまう。これさえなければ河の流域は肥沃な耕地となりうるはずであり、アルスフェルトは水害を防ぐため、国富を傾け王族の魔法を惜しみなく使い、河の流れを真っ直ぐにしたり堤防を建設したりと言った治水事業に、目下注力していると言うわけなのだ。
「大丈夫です。私自身にはまだ公務がございませんし、マックス様も『お手伝いしておいで』と、おっしゃって下さっていますので」
そうなのだ。彼女の立場はまだ「王子の婚約者」、いわば居候のような者であり、王族としての義務はないのである。本来であればお妃教育などを詰め込まれている頃であるが、ローゼルトにいた時分に鞭で叩き込まれた知識やスキルは十分。ようは、暇なので何か仕事がしたいのだ。
聖女ディアナに魔力チャージを行う仕事は、まさに天職であった。役に立たないと思い込んでいた溢れ返る魔力が、ディアナを通して民の為に使えるのだ。もちろんその功は聖女ディアナに帰するものであるが、リュシエンヌにとって民に尽くしているという満足感は大きい。
そう言う眼で見れば、ブリュンヒルトたちの治水も、国民に尽くせる行為のように思えるのだ。流域が肥沃な耕地となれば、アルスフェルトの食糧事情はより安定するはずだから。
「そうですわね、私たちの事業を支援することを許可して下さったマクシミリアン殿下は、やはり器の大きなお方ですわね」
「うっ……そうね、リュシーを気持ちよく送り出してくれたことだけは、褒めて差し上げてもよろしくてよ」
二人の妃が言う通り、マクシミリアンの反応は予想外に寛大なものだった。今年行われる王太子再選定の際には、王族として如何に偉大な魔法を操って業績を挙げたかが重視される。そしてそれは本人のみでなく、配偶者たる妃の功績も加算されるのだ。リュシエンヌが二人の支援をすることは、ゲルハルトの評価を高めてしまうことになるのだが、マクシミリアンは気にもしていないようだ。
「はい、そういうマックス様は、素敵だと思います」
「あらあら」
「もげてしまえばよろしいのに」
妃たちから、明るい笑い声が上がった。
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