第2話 虐められ王女です
自室に退いたリュシエンヌは、軽く一つため息をつくと、ケロッとした明るい声でつぶやいた。
「そうか、お嫁入りするのね。ここのお部屋ともお別れかあ」
その部屋は、とても一国の王女が住まうものとは思えないそれであった。何の飾りもないシングルベッドと、小さな書き物机が一つづつ。使用人のお仕着せと変わらぬ粗末な服が数点ハンガーに掛けられている他は、余分なものは一切置いていない。それでいて、すでに足の踏み場にも迷うほどの狭さである。
六歳の時行われた鑑定で、リュシエンヌが魔法を使えないことが分かったとたん、父と妃は彼女から全てのものを取り上げ、この狭い部屋に押し込んだ。それ以来十一年もの間、彼女は陽の当たらない、殺風景なこの部屋でひっそり暮らしてきたのである。
日々の食事も、衣服も、身の回りのものに至るまで、兄姉が当然の権利として享受している王族としての待遇は、何も与えられなかった。食事や衣服は下級の使用人と一緒、姉たちが侍女にかしずかれて湯浴みをしている間、彼女は冷たい水で濡らしたボロ布で自らの身体を拭うだけ。
いや、一つだけ王族並みに与えられたものがあった。それは礼式やダンス、食事のマナー、知的な会話を為すための経済や歴史についての知識、そして外国語……そういった教育だけは、きちんと、というより必要以上に厳しくたたき込まれたのだ。
「いない者」とされた彼女も、血統的にはれっきとした王女だ。国内には魔法が使えないことが知れ渡っているから降嫁を望む貴族などいないであろうが、事情に疎い他国の高位貴族の中には、かつての魔法王国ローゼルトの王女なら優れた魔力を持っていると早合点して配偶者に望むものもいよう。その時高く売りつける為の教育である。
うまく出来なければ教師の鞭が飛んでくるので、必死で学んだ。お陰で所作や教養に関しては、どこに出ても恥ずかしくない程度のものは身についている。
だが教師は時に、過度にハードルを上げてリュシエンヌに鞭を浴びせた。教師も彼女の微妙過ぎる立ち位置をもちろん知っており、年上の王子たちのわがままに付き合ってささくれた気持ちを多少ぶつけても、クビになることはないということが十分わかっていたのだ。
そして教師だけでなく兄や姉からも、見えない部分を狙って鞭を浴びせられた。兄姉たちにとっても、むしゃくしゃした時の感情のはけ口として、リュシエンヌは格好の相手だったのだ。虐めてもやり返すことも親に言いつけることもしない、そして虐めがばれても叱られることもないであろう、サンドバッグ代わりとして。
嫁ぐ先が多少貧しかろうが気候が悪かろうが、この生活に比べれば、きっとましなはずだ。ましてやお相手は大国アルスフェルトの王子様であるらしい。会ったこともないからどんな御方かもわからないけれど、追い出されてこの国に戻されることのないよう、頑張って尽くそう。基本的に前向きで楽天的なリュシエンヌはそう決心して、少し下がり気味の目尻をきゅっと上げた。
「あらあら、我が可愛い妹は、何を物思いにふけっているのかしらね?」
はっと気がつくと、背後のドアの向こうから、語尾のトーンが妙に上がった、居丈高な声が響く。
ああ、またなのね。心の中だけでそうつぶやいて、リュシエンヌが振り向くと、そこには予想通り、二つ年上の三女デボラが侍女を従え、胸を張って立っていた。背格好はリュシエンヌと同じなのに、どこから見ても上から目線に見えるのはある意味才能といえるであろうか。
「アルスフェルトへ人質に出されるそうね」
「第三王子殿下の配偶者として参るのですわ」
あまりに露骨な見下しように、さすがにリュシエンヌが訂正する。途端にデボラの細い眼が吊り上がった。
「お前のような役立たずが、まともな妃扱いされるわけがないわ! 向こうはローゼルトの王女に多彩な魔法を期待しているはずよね、そこに魔法が全く使えないお前がのこのこ現れたら、どういう反応をされるか、見ものだわ! せいぜい追い出されぬよう、侍女の仕事でも学んでおくことね」
酷薄さを剥き出しにしてがなり立てる姉に、リュシエンヌは反論出来なかった。
なにしろ、誠意の欠片も持ち合わせない父王だ、先方に対して彼女が魔法を使えぬことを伝えているはずもない。王室に連綿と受け継がれる魔法使いの血に期待していたアルスフェルト王室の面々は、落胆するに違いない。まさか追放されるとまでは思わないが、間違いなく冷遇はされるだろう。そういう意味で、この意地悪い姉の言葉は、正しい。
だけど、どんなに塩対応されたって、今より酷くはならないのじゃないかしらと、根が楽天的な彼女は思うのだ。いくらなんでも、隣国の姫をこんな狭い部屋に押し込めて、使用人同様の扱いをすることはあるまい。
「そうですね、追い出されないように、しっかり修行をしておきます」
にっこりと微笑み返したリュシエンヌに毒気を抜かれたように、姉王女はなおも悪態をつきながら帰っていった。
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