End
「帰らせてもらうぞ、クトゥルフ!」
黒い脚がぶつかる。直前、ぽんっと口から何かが吐き出された。それは透明な球体で丁度閻魔の蹴りが当たる位置に飛び出してきた。
ふっと眼が丸くなる。その球体のなかには膝を抱える少女がいた。眉が太く頬の赤い顔の少女、とても見覚えのある少女。
「おり、というのか」
日は暮れたが嵐は収まりを見せていた。その為名も無き坊主は地獄へ行くための準備を始め、閻魔は彼の一人娘と対峙していた。娘は緊張しながらも肯いた。
「ただ、本当の名前は、違うのでごぜえます」
出身地もどうやって育ったかもわからない。方言はあやふやで独特で、どこの子ともわからない。わかるとしたら、両親は娘を連れて旅でもしていたのだろうという事だけだ。
「そうか。然し父に呼ばれている名の方が良いだろう」
ふっと微笑んだ。娘は思ったよりも優しいお方なのではと考え、はいと答えた。
「普段は、何をしているのだ」
「寺の掃除や、とっさまの書いた妖怪の資料を、色々と分けたりだとか……なんや、細々とやっております」
「然し父は殆ど外にいるのだろう、寂しくはないのか」
「それは……とっさまがおらんとなると、さぶしく思いますが……でも、忍びの姉さまがよく来てくれるし、たまにとても高貴そうなお方が来てくれるんです」
「高貴? 父と同じ、力のある僧侶か?」
「ううん、僧侶の姿はしとりますけど……なんだか、仏さまのようなお方なんでごぜえます」
二人が話していると襖がすっと開いた。坊主が顔を出して声をかけようとしたが、その光景にふっと笑った。
「おり、そのお方と地獄の方へ行ってくるから」
娘はあっと振り向いて、どこか恥ずかしそうに肯いた。
「お気を付けて……」
小さな子が手を揃えて頭をさげた。
「ヤッ、」
制御しきれない。回転を加えたせいで自由が利かない。このままでは、名も無き坊主の娘を蹴ってしまう。このままでは、自分の手で人間を蹴り殺す。然も自分と話した事のある小さな七、八歳の子を……。
「ツクヨミ!」
大王とイザナキが反動の危険性を無視して覇気を断ち切った。呼ばれたツクヨミはしゃがんだまま両手を閻魔に向け、背中側から無理矢理引っ張った。
「牛頭馬頭!」
大王の裏返った声に馬頭が先に走りだす。続いて牛頭が軌道に乗り、足裏を滑らせて身体の向きを変えた馬頭の両手に片足をかけ、一気に跳び上がった。両手を娘の入った球体に伸ばす。もうすぐそこまで、彼の脚が迫っていた。
ツクヨミが鼻血を出しながら安定していない、最大出力に近い引力でぐっと閻魔の身体を引っ張った。と同時に牛頭の大きな手が球体を掴む。
懐に抱え背中から落ちたのと、吹き飛ばされて一軒の小屋に衝突したのはほぼ同時だった。馬頭は駆け寄り、ツクヨミは鼻を押さえて蹲り、大王とイザナキは断ち切った反動で胸に痛みを感じた。
クトゥルフはその光景を見て大きく高く嗤った。嗤って、嗤い転げた。
牛頭馬頭は球体を抱えたまま離れ、大王は顔を顰めながら視線をやった。ツクヨミとイザナキ親子はもう無理だろう。天界はあまり妖怪が来ないから地獄の者より戦力が低い。
「お前らはお二方を守れ。それと、その娘も」
軽く振り向いて補佐官に言った。肯いたのを確認して崩れた小屋の方に視線をやる。気配が地面を伝ってやって来る。怒りと、途轍もない殺意の塊が地面を伝ってやって来る。
ぱらぱらと瓦礫が鳴る。煙のなかから阿修羅のような男が出てくる。クトゥルフは憎々しげに顔を歪めつつも愉悦と言った風に笑った。
『だがもう戦力は削られた。貴様も神の力をもろに受けて無傷な訳がない』
顔色一つ変えていないが、ツクヨミの最大出力に近い引力は大きな岩でさえ一瞬で移動し、ぶつかった先で木端微塵に吹き飛ぶ。首を中心に身体中が悲鳴をあげていた。
口を固く閉ざし、大王の隣まで来る。何も言わず構えた。クトゥルフは相変わらず笑った。
『満身創痍の奴と、それより弱い奴で何が出来る』
愉快愉快と言いたげな表情に大王は肩を回した。そして拳を握り、どっしりとした構えを見せる。
「これでも何百何千と地獄を纏めてきた男だ。なめてもらっては困る」
ヤマの頃より神力は削れている。然しその身に宿った純粋な“力”は生前と何も変わらない。然も今は肉弾戦に長けた閻魔がいる、ふっと短く息を吐いたのを合図に動き出した。
閻魔は上から攻め、大王は下から攻めた。素早く攻撃手段の多い怪力と鈍足だが確実に一撃を食らわせる怪力……黒い手を着々と破壊するとクトゥルフだけが残った。
「まさか武闘派だったとはな」
調子が戻ってきた閻魔は口角をあげて一瞥した。対して大王はむっすりと口角をさげ、一瞥もやらずに答えた。
「神力では敵わぬ悪霊や妖怪も来るのでな。ある程度は心得ている」
構えを変える。どう動くべきか少し考えた。然し閻魔が先に出る。
「要所要所に殴ってくれ。我がそれに合わせる」
肉弾戦においては彼の方が経験豊富だ。「承知した」と返し跳び上がった後に動き出した。
大王の拳も脅威だとクトゥルフは感じたようで、別々にやって来る二人に一瞬たじろいだ。先程と同じで上が閻魔、下が大王に別れ、足元が疎かになった隙に一撃叩き込んだ。
彼の持つ怪力は途轍もない。巨大な鬼と互角か場合によっては凌駕する程の力だ。何本かある脚の一本を攻撃されただけでがくんと傾いた。
そしてその隙をもう一人は逃さない。より攻撃力の高い足技に切り替え、多腕を移動方法として活用する。縦横無尽に動く閻魔を捕らえる事など出来ず、傾いたタコの側頭部にかかとが振り下ろされた。
かほっと息が抜ける。だがすぐには倒れない、大王を先に始末しようと触手が蠢いた。俊敏な動きは出来ないが気配の察知能力は長けている、迫ってくる前に避けた。
勿論一本ではなく何本も攻撃が来る。避けているうちにクトゥルフの足元から離れてしまった。そして隙が生まれづらくなり、閻魔の攻撃も避けられたり塞がれたりと立場が逆転しはじめた。
一旦その場から退いて距離を置く。もうかなりぼろぼろだと言うのに、まだ倒れる気配がない。それに相手の攻撃も一撃一撃は重たいだろう、二人は読み合いの空気に持っていった。
しんっと静まりかえる。小鳥の声さえ聞こえない。刹那、クトゥルフの腕が一瞬動いたと同時に大王が思い切り地面を殴った。力の波が土を壊す、それの先頭に閻魔がいた。
崩壊が襲って来る前に跳び上がり、手の多さを活かしてしがみつく。直後、クトゥルフの重みも作用して大きく地面が崩れた。体勢を崩した相手にしがみついていた閻魔が舞うように肩の付近に移動した。
そして一気に畳みかける。首の後ろ辺りを一気に何発も殴り始める。そのあいだ大王はもう一発地面を殴り、更に足場を崩して土の瓦礫に埋もれさせた。
瞬きの回数が減る。殺す勢いで攻撃を続ける。殴るのも蹴るのも、とにかく一秒も隙を見せずに集中的に攻撃する。
崩れた地面を草履一つで歩きクトゥルフの頭まで来ると拳を引いた。それを一瞥した閻魔は立ち上がり右脚を高くあげた。
ふっとクトゥルフの眼が戻って地面が揺れ始める。それでも一切表情を崩さず、両者は同時に力を振るった。
渾身の一撃に風圧がぶつかり合い、爆発かのように広がった。後ろで控えている牛頭馬頭が腕を出して耐える程に強い風圧だ。
土埃からぱらぱらと小石が落ちる。静かな時が流れた。
右の拳に黒い血を浴びた大王と、頭を踏みつける閻魔の姿が見えた。ややあって牛頭が呟く。
「とうとう、やったのか?」
その時、ぱあんっと球体が弾けて少女の咳き込む声が聞こえた。大王が振り向く。ごほんごほんと口元を押さえて身体を揺らす様子にほっと息を吐いた。
「大王」
然し落ち着いた声が聞こえて視線を戻した。微笑む閻魔の顔と共に、足先から消えて行くのが見えた。それを見てなぜか右手を伸ばした。
やっと帰れる、そう思いながらも閻魔は内心締め付けられるような気持ちでいた。伸ばされた手を一瞥し、クトゥルフのうえでしゃがみ込む。黒い腕は既に消しており、傷だらけの手でばしんっと掴んだ。確かな感触だ。
「煙管、大事にする」
飄々とした笑みに大王は笑った。
「壊れたらまた、儂のところに持ってこい」
とても地獄の最高裁判官とは思えない笑顔に消えるスピードがあがってゆく。意識がふわりとして夢のような心地になる。だがぐっと右手に力を入れ、最後の最後までもう一人の閻魔大王を見つめた。
上半身をあげるとそこは見知った部屋だった。下半身には布団の重みがある。夢、だったのだろうか。
「ヤマ、ようやく起きたのか」
聞きなれた声に顔をあげた。ああと気のない返事をして布団から出る。欠伸を一つして洗面所に行った。
冷たい水で顔を濡らし、タオルで拭いた。その時、懐から何かが零れ落ちてからんっと軽い音が鳴った。足を退いて拾い上げる。
それは赤と黒に一筋の金が入った煙管だった。なぜか無意識に匂いを嗅いだ。すると忘れていた記憶がばっと花咲くように、眼帯をした大男を思いだした。
「ヤマあ、朝食出来たぞお」
遠くから聞こえてくる声にふっと笑い、煙管を持ったままいつもの日常へと戻った。
「閻魔様、煙管なんて珍しいですね」
一人の獄卒にそう言われる。仕事着に着替えて一服がしたくなった彼は、早速大王から貰った煙管を使った。普段は紙巻きたばこだから珍しく見えるのだろう。
「とある友人に貰ったものだ」
ふっと煙を吐き、隠れていない右眼で煙管に入った金の一筋を見つめた。
「イザナミ様も地蔵菩薩も無事で何より」
地獄では目覚めた二人と大王が胸を撫でおろしていた。
「流石に今回は、命の危機を感じてしまいました」
苦笑いを浮かべる地蔵菩薩にイザナミが芝居がかった調子で言った。
「あたしも今回ばかりは死んでしまうかと思ったねえ」
やれやれと首を振る彼女に大王は肩から力を抜いた。
「もしクトゥルフを討ち取れなければ、貴方様は本当にこのまま、どこか別のところで永遠と彷徨っていたかも知れません」
やけにしおらしい大王にイザナミはそれ以上ふざけず、「そうだね」と俯いた。静寂が流れ、地蔵菩薩が呟くように言った。
「あのお方は、無事に帰れたのでしょうか……」
少し上の方を見る菩薩を一瞥し肯いた。
「ああ。きっと帰れただろう。向こうで煙草でも吹かしておるだろうな」
それに菩薩がどこか不貞腐れたような面を見せた。
「もう、あれはわたくしが見繕った品物でございますよ? 易々と他の者に渡すなんて……」
大王ははははと笑った。
「良いではないか。別世界とは言え同じ閻魔大王。きっと向こうでも疲れを癒してくれる事だろう」
優しい声音に地蔵菩薩もふっと笑い肯いた。
「それもそうでございますね。さて、わたくしはそろそろ現世へ行って参ります。例の僧侶の事も気になりますので」
立ち上がると「それでは」と頭をさげて去っていった。イザナミもぐっと手足を伸ばすと「あたしも地獄を回ろうかね」と言って軽い足どりで消えていった。
一人残された大王は一つ息を吐き、少し左眼の下を触った。
「……儂も仕事に戻らねば」
よいしょと声を漏らしながら腰をあげ、彼もまた裁判官の座に戻って行った。
隻眼の王 白銀隼斗 @nekomaru16
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