第10話
木々のあいだを抜け、拓けた場所に出る。眼前には民家と畑が広がっており、ぐっと速度をあげた。
かなり臭いがきつい。鼻が壊れてしまう程の臭いだ。一本の線を辿るように足を進める。刹那、眼前に黒い腕が現れた。
然し臨戦状態の彼はすぐに反応する。そのまま横に迫ってくるのを速度を落とさず飛び越えた。宙にいるあいだに腕の先に視線をやる、空間に黒い円が出来ており、そこから腕が伸びていた。
つま先で着地すると軽快に向きを変えて再度臭いを辿る。今度は後ろからやって来る。一切視線をやらずに地面に両手をついて身体を伏せた。頭上を過ぎたと共に足で地面を蹴り上げて一回転し、また走りだした。
やっと追い付いた坊主がその様を見て顔を引きつらせる。
「ばけもんだ」
そう言う彼も人間のなかでは大概だ。横から迫って来る黒く大きな掌に対し、ざっと脚を広く踏み出すと錫杖の下の方を向けて槍のように突き出した。
「滅」
落ち着いた声で呟く。すると粉々に砕け散った。だがそれを一切見る事もなく閻魔の後ろ姿を追った。
ざっと足を踏み出して立ち止まった。閑散とした村の中心でぐるりと見渡す。ややあって坊主が辿り着いた。同じように周囲を見た。
「気配はどうでしょう。わたしはもう方角が分かりませぬ」
全く息が切れていない。閻魔は内心、随分とタフな人間だと思いながらも息を吐いた。
「我も分からなくなった。臭いも充満していて向きが分からない」
自然と背中合わせになる。風が吹いた。
「困りましたね。これじゃあ、罠を仕掛けるしかありません」
懐から札を数枚抜き出した。
「お前に任せていいか」
「ええ。それと多分この札、あなた様にも効きますよ」
にっと悪童のような笑みをみせる。とても僧侶とは思えない表情と崩れてきた口調に軽く口角を引いた。
「頼んだ」
その場から離れ様子を見る。坊主は五枚程の札を両手のあいだに挟み、少し何かを呟いたあと水を蒔くようにして飛ばした。彼を中心に円が出来上がる。
錫杖を軽く浮かしたまま右手に数珠を絡めて眼を伏せた。ぼそぼそと口唇が動く、すると臭いが変わった。明らかに動いているのが分かる。閻魔は臭いの先を眼で追った。
坊主の頭上で止まった。脚に力を入れる。彼が何をするか、そしてどういう力を持っているか何も分かっていない。いざという時に飛び込んで助けられるよう僅かに身体を前にした。
然し彼の不安はかき消される。とんっと錫杖が地面についた瞬間、頭上にクトゥルフが現れた。坊主は冷徹な、だが怒りの含んだ双眸で睨みつけた。瞬間片手で錫杖を持ち変えるとクトゥルフの頭に向かって投げた。
ぶさりと刺さって音が鳴った。その鈴のような独特な音に共鳴するようにして札が発動し、地面から一斉に白い鎖が伸びた。そしてクトゥルフの身体をぐるぐると取り囲み締め付けた。
「娘をどこにやったんだ」
見上げる彼の横顔に皺が寄る。ぎちぎちと鎖が蠢き身体を締め上げ続ける。閻魔は警戒しながらも多少緊張をほぐした。
「答えねえつもりなら……」
ぎっと歯を鳴らすと懐から別の札を取り出した。そしてクトゥルフの顔に向かって投げつける。吸い込まれるようにして貼りつくとがたがたと身体全体が震えはじめた。
「さあ早く言え! でなければ地獄のような苦しみを永遠と味わう事になるぞ!」
空気を切り裂く程の怒号。娘とはおりの事だろう、閻魔は指の関節を鳴らして一歩前に出た。
「意地でも答えねえ気かい」
怒りに震えた声に円の外側付近まで来ると、一際大きく指を鳴らした。
「クトゥルフ。人間の娘を返せば楽に死なせてやる」
赤い瞳に白い眼が向いた。瞬間、閻魔は円のなかに踏み入れた。
クトゥルフはにやりと笑って鎖を引きちぎり、坊主に向かって手を伸ばし始めたのだ。勿論その速度に追いつけるのは彼のみ。いや彼であってもかなり余裕がない。
坊主が言った通り、札の矛先が閻魔にも向く。足裏からせり上がってくる神経を突くような激しい痛み。思わず口が開いて汗が噴き出てくる。
然しこのままでは人間がやられる。速度を落とすどころか寧ろ速めた。そして背中から六本の黒い腕を出し、坊主とクトゥルフのあいだに滑り込んだ。
左の腕達で坊主を抱え上げ、右の腕達で防いだ。軽く肩が上下している。クトゥルフは一つ舌打ちをすると霧のように消えた。瞬間痛みが限界を超え、その場に崩れ落ちた。
「閻魔様!」
一度円の外まで引きずろうかと思ったが、自分より背丈のある大男を運べる程力は強くない。慌てた様子で落ちた錫杖を拾い上げ、必死に口を動かした。そして札を鎮め回収する。
「閻魔様」
一つの束になった札を懐に戻して駆け寄った。眼を固く瞑って身を小さくする様子に少し焦る。札から発せられる攻撃は坊主の力ではどうしようもない、酷い汗を拭ってやる事しか彼には出来ないのだ。
然し閻魔は歯を食いしばって起き上がった。まだ全身をびりびりと駆け巡っているが、これぐらいで倒れている暇はない。心配する人間に一瞥をやり呼吸を整えた。
「お前は地獄に行ってこい」
少々掠れた声に坊主は苦渋の決断をするかのように肯いた。後ろで唱え始める人間の声を聞きながら気配を探る。
この痛みは明らかに奴からの攻撃だ。自分が人間を意地でも守る事は前回で知られている、それを利用した攻撃なのだ。他六本の腕の感覚を確かめながら空気を鼻から吸った。
瞬間、自身の背後に臭いが移動した。目視するより先に身体が反応する。振り返りざまに強烈な蹴りを放った。すると坊主を狙って現れたクトゥルフの顔に直撃する。にっと口角が“元に戻った。”
また霧のように消える。構え直すと痛みが走った。ぐっと歯を食いしばって表に出さない、出した途端に奴は畳みかけてくる。一戦を交えた事があるから、彼も相手の癖は分かっている。
「坊主、まだか」
臭いがどう動くか集中して追う。
「もう少し」
人間を一瞥した時、左右から黒い手が伸びてきた。然し腕が多いお蔭で防ぎやすい。がしっと何本か掴まれるが、掴まれた分は反発するように力を入れ、残った手で手首などの急所を狙った。ぱっと離れて一気に消える。
「開いた」
坊主の足元が割れ、地獄の業火が顔を出す。閻魔は周囲を警戒しながらも傷だらけの左腕を出した。軽く握った拳に坊主は一瞬呆けた面を見せる。ああ時代が違うのかと察すると手を広げ、軽く肩を叩いた。
「人死には出さない」
頼もしい背中に坊主は笑顔で肯き、地獄へと落ちた。地面が元に戻ったと同時、今度は左右だけでなく前後から腕が飛び出してきた。然も今度は拳だ、多腕なのを活かして防御するが背中側が不利になる、力に押されて龍を砕くようにしてぶつかった。
下手に力を入れると痛みが強くなる、閻魔は一瞬で身体を柔らかくし、自然の流れに従って横に倒れ込むようにして動いた。それを相手は好機と捉える。
上から両手を握った巨大な拳が振り下ろされる。土埃があがって視界が悪くなった。然し感触はない。
それもそのはずだ。彼は敢えて力を抜いて攻撃を柔らかく受け止めただけに過ぎない。煙のなかに消えた閻魔を探す為、クトゥルフは顔を出してしまった。
その頭上に彼は現れる。さんさんと照りつける太陽光を背にして拳を握り締めている。それに気が付いたのは振り下ろされる直前だ。脳天に叩きつけられた拳にクトゥルフの眼玉が一瞬飛び出した。
然し前回戦い、ほぼ無傷で生き延びただけある。ふわりと宙を舞って地面に着地しようとする閻魔を、横から黒い手で掴み上げた。これには流石に対処しきれず、全ての腕を封印された。
ちっと舌打ちをかます。赤い瞳でタコの頭を見下した。
『……このままここにいる人間共をじっくり殺してやろう。貴様にはそれが効くのだろう?』
にやりと意地汚く笑った眼元が向く。腕に力を入れてみるがぎゅっと握られ息が漏れた。同時に札から受けた痛みがまた全身を駆け始める。歯を食いしばって血管が浮き出る程力を入れた。
『貴様は貴様らの仲間を持ってしても儂には勝てなかった。あまりイキがるなよ小僧』
ふっとクトゥルフの視線が民家に向いた。ぐぐっと手を押し始める。八本もある腕を全て使って身体が抜けられるぐらいの隙間を作ろうとする。
もう一本のクトゥルフの腕が民家の近くに現れた。人死には出さないと誓ったのだ、鉄のように硬い巨大な手指を押し広げてゆく。
然し間に合うはずもない。拳を作った手が民家に向かって振り下ろされたのだ。閻魔は自分が何を叫んだのか、正直分からないでいた。
土埃と共に木材の砕け散る音が鳴り響いた。絶望の兆しだ。クトゥルフは嗤ってみせた。然し。
「全く、あくどいな」
地を揺らすような声。はっとクトゥルフの顔が変わった。霧が晴れるようにして埃が風に乗ってゆく。
「貴様は阿鼻地獄にゆくのが一番だな」
黒い腕に地獄の針山が突き刺さっていた。そして半壊した民家には右眼に眼帯をつけた大男がいた。
「閻魔殿! 今お救いします!」
大王以外にイザナキ、ツクヨミ、牛頭馬頭が来ていた。そのなかでツクヨミが出ると彼を掴む手に対して力を使った。月を操る力、それは即ち引力を操るのと同じだ。ぐっと外側から引きはがされ閻魔が通れるだけの隙間が出来た。
着地した彼の傍に大王が来る。イザナキは進化の力を使って破損した部分を修復された状態まで持っていった。そして既に村人達は牛頭馬頭によって避難されている。閻魔がクトゥルフの注意を引き付けているあいだ、先に現世へ来た彼らが動いたのだ。
人に化けた姿ではなく、地獄や天界にいるのと全く同じ姿で並んだ。赤い瞳、赤黒い瞳、青い瞳、黒い瞳、黄色い獣の瞳。睨まれたクトゥルフは大絶叫をし一気に攻撃をしかけた。
大量の手が現れ六人を押しつぶすように動き出した。それには大王の力が対抗する。地獄でない為弱まっているが、それでも黄泉から今の姿に変えただけの力はある、前後左右を鉄より硬い岩で覆った。
どんっと掌がぶつかる。振動が内側にいる彼らにも届いた。
「儂、イザナキ様、ツクヨミ様は後援じゃ。牛頭馬頭は足手纏いにならぬ程度に突っ込め」
ぱらぱらと破片が落ちてくるが大王の顔は平然としている。確実に勝てる自信があるからだろう、牛頭馬頭は肯き閻魔の両端に立った。
「わたしたちは憶えておりませんが、前回貴方様と一緒に戦った様子。我々の扱いは慣れているでしょう」
「まあ、これでも悪霊やら妖怪やらを大王の指示で始末してるんで、邪魔ならどこかに投げ捨ててくれても構いませんぜ」
本来の姿に戻っている二人は腰を落として構えた。閻魔はなんとなく久しい気持ちになりながら笑った。
「お前らの事は信用している」
ぽきりと指を鳴らした。後ろから大王の声がかかる。
「一部岩を壊す。そこから外に出てくれ。なるべく我々三人で他の注意を惹きつける」
そう言うや否や、眼前にある岩が土壁のようにぼろぼろと崩れはじめた。姿勢を低くしてぐっと足裏を捻る。
外が見えた。瞬間飛び出した。クトゥルフは隠れる気がないようで、跳び上がった閻魔を見上げた。多方から触手の先が迫って来る。然し閻魔は一切視線をやらず、クトゥルフに向かっていく。
「牛頭!」
「おうよ馬頭!」
どんっと大きく足を地面に打ち付けると両者とも跳び上がった。妖怪だからこその身体能力、荒々しいそれに身を預け、空中で触手を掴んだ。かなり速度があり触れれば切り裂く程のものなのに、易々と掴まれてしまった。クトゥルフは驚いて一瞬彼から眼を離した。
「おい、こっちだ」
にいっと口角を引いて左手で触手のような髭を掴み、右手で拳を引いた。何度目かの打撃が脳を揺らす。追撃はせずに地面に着地した。牛頭馬頭も彼の両端に戻り警戒する。
「さて、そろそろ我々もここから出ましょう」
黒い手は相変わらず岩を潰そうと奮闘している。然し大王は涼しい顔で軽く手を捻った。
「ツクヨミい、こういう戦いは初めてだろう」
天井からぱらぱらと崩れてゆく。
「父上、お言葉ですがあの愚弟を育てたのはわたしでございます」
大した構えも見せない。ただ父と息子の会話を一瞥し、大王は右側の襟元を掴んだ。そしてばっと腕を出す。
太く丸太のような腕。その身長に見合った筋肉が半分顔を出した。
「イザナキ様、準備はよろしいですね」
風が吹く、波が立ち始めた頃のように雰囲気が変わってゆく。
「ああ勿論。ツクヨミ、お前は少し下がっていろ」
「はい」
全ての岩がぼろぼろに崩れ落ちた瞬間、どんっと爆発するような突風が二人を中心に巻き起こった。閻魔は思わず振り向いて視線をやる。背筋を震わせる程の威圧的な気配だ。
「クトゥルフよ。これでも来れるなら来れば良い」
曝け出した右手を向け、軽く指を動かした。びりびりと鳥肌を立たせる程の圧は二人の力だ。正確には最高神やそれと同等の神、また冥界や地獄などの裁判官などが必ず持っている覇気の力だ。配下の者を全員跪かせ、相手を威圧して行動を制限する。そして長時間圧を受けた者は例外なく弱まる。
最強とも言える力だ。然しこれには欠点がある。覇気を使っているあいだ、彼らは各自が持つ神力を使えず肉体の耐久力も落ちる。ようは攻撃をされたら一巻の終わり、二人分の圧に黒い手は飛び散り、クトゥルフは怖気づいた。
ツクヨミがさがったのは圧の範囲内から逃げる為だ。牛頭馬頭も既に逃げており、閻魔だけがクトゥルフと対峙している。
同等である彼には効力がない。それでもびりびりと焼けるような気持ちだ。怯えた野良犬のようなタコ面ににやにやと笑った。
然し相手も神話の名を冠する程の者。雄叫びをあげると閻魔の周りに黒い手が出現した。牛頭馬頭、ツクヨミが反応する。が大王が右腕を出して言った。
「彼を信じろ」
覇気を使っているあいだ、言葉は声量がなくとも届く。三人はぐっと耐えて身を退いた。
『ふざけるのも、大概にしろ』
四方八方から手が襲いかかる。然し大王とイザナキがクトゥルフを睨みつけ、攻撃の速度が遅くなった。閻魔は華麗に避けて邪魔なものを排除するように軽く叩いた。
そうして一瞬隙が出来た時、一気に詰め寄って今度は回転を加えた蹴りで首を狙った。二人分の覇気、既に蓄積されている痛み、クトゥルフは眼を見開いて口を開けた。
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