第9話
イザナミに続いて頼みの綱であった地蔵菩薩が意識を失った。天界と地獄は少なからず繋がっており、イザナキとスサノオだけが地獄に近づく事が出来る。然し五分未満でなければならず、また対応出来るのも大王のみだ。
例え情報伝達だけは辛うじて出来ても大王が地獄から離れるのは危険極まりない。名も無き坊主も同様だ、現世で彼ら神々と同等の力を持つ人間は彼ぐらいしかいないし、居ても遠くの地方や京の都で陰陽師をやっている事だろう。クトゥルフはかなり本気で、然も今度は自身の特性を活かして潰しにかかっている。
一先ずイザナキから地蔵菩薩の件を聞いた大王は思わず顔を覆った。一日三度の呵責によって身体が熱を帯びており、嫌な汗なのか純粋な汗なのかもはや分からないでいた。
「閻魔様は世界は違えど地獄の者でしょう。天界から直接こちらに来れるのでは」
馬頭が疑問を呈する。否定も肯定も出来ない、然し地獄に来たところで奴が現世にいれば同じ事だろう。
「地蔵菩薩がやられてしまった今、あの人間に事を伝える者がいなくなった。あれが自分の意思でこちらへ来ない限り彼を現世へは送れない」
大王の言葉に口を紡ぐ。ただ、と少し空気を変えた。
「クトゥルフが彼を天界に閉じ込めたというのに、わざわざ彼のいる場所へ現れようとは思わないはずだ。そして地蔵菩薩が地獄と天界での行き来に支障はなく、現世からこちら側への行き来に支障を来したとなれば……」
そこまで言えばみな分かる。大王はその場にいるヤミー、サタン、牛頭馬頭をざっと見渡した。
「ならイザナキ様に一報を入れましょう」
馬頭が頭をさげて部屋を出た。名も無き坊主が何かを感じ取って地獄に来てくれれば幸いだが、そんな博打のような事はしていられない。大王はサタンに対して向き直った。
「もし彼がこちらに来られて尚且つ例の坊主がこちらに来ないようであれば、あなた様が現世へ昇って坊主を連れ出してください。例え地蔵菩薩がおらずとも、身体はもつはずでございます」
軽く頭をさげる様子にサタンは背筋を伸ばした。
「分かった。僕で良ければ喜んでやるよ」
潔い言葉にお礼を言い、坊主が一時間程経っても来ない様子であれば出向く事となった。これはサタンでなくとも構わないのだが、戦力を加味すれば当然の事。それに悪魔は神と違って人間界と馴染みが深いから、例え異国の地でも耐えられる確率が高い。一先ず閻魔がこちらに来られるかどうか、そこが肝心だ。
地獄にある山の中腹に隠された道があり、それが天界や他の場所へと繋がっている。一本上に伸びているのが天界への道だ。天国をそのまま越えて行く。
大王一人でここを登り、途中で立ち止まった。眼前には薄い結界のようなものが張られており、迂闊に触ると皮膚が焼かれる。慎重に触れば害はないが、向こうに出た時点で五分の砂時計は始まる。それを閻魔が無事に乗り越えられるか、大王は腕を組んで少し待った。
ややあってイザナキと共にやって来る。
「本当は息子のスサノオに行かせたかったんだが、あいつなぜかこの方を嫌ってて……」
相変わらずどこかへらりとした調子で苦笑いを浮かべた。大王は「事が終わったら、早めにお戻りください」と眼を伏せた。そして肝心の閻魔に向き直る。
簡潔に伝え、また境についても教えた。彼は少し薄く張られているそれを見回したあと肯いた。
まずは慎重に手を伸ばし結界に触れた。反応はない。そのままゆっくりと身体を出来るだけ動かさずに前へと出る。
まるでからくり人形のようにすうっと移動する。もう既に地獄へと踏み入れており、砂時計は動き始めている。そうして何事もなく着物の裾まで入り込んだ。
一先ずほっと胸を撫でおろす。
「もう普通に動いてよい。だが長時間もつかどうか……」
大王もイザナキも不安げな表情だ。閻魔は自身の手や腕を軽く見て顔をあげた。
「大丈夫だろう。現世に居ても平気だったのだから、きっと大丈夫だ」
その言葉にそれもそうかと肯いた。意外とあっさりと移動する事が出来た為、とりあえず裁判所へと案内した。
「一時間して坊主に動きが見られなければサタン様が現世に行き、坊主をこちらに連れて来させる。そして貴殿はその者と一緒に現世へ」
時間が来るまでは待機だ。閻魔は彼から貰った煙管で煙を吐いた。
「眼は肥えているはずなのに、クトゥルフと他との差異に気付けなんだ。儂がもう少し気を付けていれば、貴殿はとっくの昔に帰れただろうに」
地獄の業火がよく見える。大王はぬるい茶の入った湯吞みを片手に胡坐をかいた。
「いや、奴らは一筋縄ではいかない。気にしたところで無駄だ」
すっぱりと言い切った彼を一瞥し茶を啜った。
「もし現世で苦戦した時は坊主を使って我々を呼ぶが良い。少しの時間なら現世でも行動出来る。但し儂の力は、弱くなるがな」
軽く笑って全て飲み干す。すると丁度良くサタンの声がかかった。
「もう一時間経つ。そろそろ坊主くんを呼んで来るよ」
同時に振り返った。サタンは少し驚いて取り繕うように「じゃ、じゃあ」と手を挙げて背中を向けた。全く動かない異形の左眼以外を動かして、どこか拗ねたような表情で呟いた。
「大王二人に見られると怖くて仕方がないよ」
悪魔からすれば、最高裁判官が二人いるのは肝をつぶすような思いだ。本来は彼らに断罪される立場にある、特にサタンと大王の関係がそれで上手く吊りあっているから、余計に本能的な恐怖心や威圧感があった。
適当なところで右手を翳す。すると空間に黒い隙間が出来て、人一人くぐれるぐらいの穴になった。サタンはそこをくぐって名も無き坊主のいる寺の近くに現れた。
一応地蔵菩薩から貰った人間の姿に化ける。耳があり左眼は普通で背丈も平均身長に合わせてある。慣れない草履と着物になるべく早足で寺の山門を通った。
閑散とした境内に眉根を寄せる。
「嫌な雰囲気だ」
英語で愚痴を呟く。例え異国の寺院だとしても悪魔には居心地が悪い、さっさと用事を済ませてしまおうとなかに入った。
坊主、と大きく呼びながら歩いてゆく。足裏に木の冷たい質感が伝わって、余計に身体が震えた。サタンは両腕をさすってまた愚痴をこぼした。
「大王の羽織でも借りて来ればよかったな……」
軽く鼻を啜った時、背後から途轍もない気配を感じた。はっと両眼を見開いて固まる。そして煙のように消えた時振り返った。無意識に止めていた息を吐きだす。睨みつけるように辺りを見て、また坊主を探した。
彼は寺から少し離れた墓地にいた。そりゃ室内を探し回ったところで見つからない、はあと溜息を吐いて声をかけようとした。刹那、どんっと後ろから攻撃を喰らった。
地面にごろごろと転げる。その時の音で坊主が振り向いた。地面に伏せるサタンと攻撃を加えた者、クトゥルフを同時に見て瞬時にサタンへと駆け寄った。
そして片腕だけで抱え上げ、力任せに飛び退いた。左肩を中心に痛みが走る、その場に項垂れた彼をおろして懐から数珠を引っ張りだした。
「娘をどこにやった」
僅かに震えた声。空は急激に変わり、荒れた風が吹きすさぶ。クトゥルフの眼は瞳がなく真っ白だった。異様な雰囲気だ、まるで言葉の通じない鬼のような雰囲気……。
名も無き坊主はサタンがわざわざこちらに来た事に何かを感じ取り、一先ず離脱する事を選んだ。米俵のように担ぎ上げ、クトゥルフを睨みつけたまま後退る。そしてある程度距離が出来たら一気に走り、同時に片手に数珠を巻き付けて唱えた。
切れる息の合間合間に地獄への門が開かれる。然しざっと自身の上に影が降りた。圧倒的恐怖が頭上に、すぐそこまで迫っている。心臓が口から飛び出そうな程で、あっと小石に足をとられた。
終わった、そう一瞬で悟った瞬間、サタンが彼の頭に手をおいてクトゥルフに対してもう片方を翳した。人の姿は剝がれ落ちてゆく、薄い皮膚の破片から異形の左眼が見えた。
「こっちに来るな!」
英語で紡がれた言葉と共に彼の手から黒い槍が数本飛び出した。神によって制限された力、それの上限を超える勢いで強力な槍を作りクトゥルフに浴びせた。
悪魔の力は触れた者にしつこくまとわりつく、クトゥルフが怒った声を出しながら立ち止まった隙に名も無き坊主は最後の言葉を吐き出した。瞬間地面が割れて地獄の炎が顔を出す、そのまま落ちるようにして二人は現世から逃げた。
どんっと硬い地面に打ち付けられ、苦悶の表情を浮かべながら背中を擦った。然しサタンが腕を引いて地獄の門に向かう。慌てて足を踏み出した。
「地蔵菩薩様はどうなされたのです」
「詳しい話は後だよ。今はとにかくもう一人の閻魔を現世に送らなきゃ」
元の姿、元の恰好に戻った彼の背中を一瞥し、坊主は小さく肯いた。地獄の大門までやって来る。息を切らす二人を阿吽の鬼首は見下し、ややあって門を開いた。
「入れ」
普段なら二、三質問をするが今回は話が伝わっているのだろう。二人が通れるだけを開くと視線を外した。
サタンに腕を引かれたまま裁判所へと向かう。クトゥルフが現世にいる事はもう分かり切っている、そして既に犠牲が出始めている。名も無き坊主は渇いた喉を誤魔化すように唾を飲み込んだ。
みながいる一室の襖を開いた。息を切らす二人を大王達は見る。何も言わず閻魔だけが立ち上がった。ただ彼が坊主の傍に寄った時、大王が背中に向かって言った。
「絶対に無理はするな。貴殿が倒れれば、この国は終わる」
現世が消えれば地獄も天国も天界も一緒に消えてしまう、それを危惧している大王は少し語気を強めた。閻魔は少し振り向いて左眼で大王を見た。
「ああ」
それ以上言う事はない、人間に視線をやって追い返すように立ち上がった。
「さあ早くゆけ。地獄に長居するな」
名も無き坊主は確かに肯きその場で唱え始めた。閻魔の手をとって口を動かす。ややあって頭上の空間が裂け、人の手が出てくると二人を引き上げた。向こうに戻ったのを確認すると大王と牛頭馬頭は仕事に戻った。
寺の墓地に着地する。ほっと胸を撫でおろしたが、同時にここにはクトゥルフがいる。ぞわぞわと臓腑が動いた。
「本当にこっちにいるんだな」
「ええ、なんなら先程襲われました。サタン様のお蔭で間一髪地獄に来られた……それに、」
とんっと声が低くなる。振り向くと坊主は震える程拳を握り締めていた。
「奴は、わたしの娘を攫ったのです」
すると閻魔は歩きだした。素足のまま落ちた枝を踏みつける。ぱきりと乾いた音が鳴った。
「どこにいると思う」
坊主は心を落ち着かせる為一つ息を吐き、後に続いた。
「分かりませぬが、ずっと嫌な気配がしております。以前閻魔様が仰ったのと恐らく同じ」
それにすんっと鼻を鳴らした。
「だろうな。かなり濃い気配だ。もはや臭ってくる」
軽く不快感を示す彼を見上げ、溜息を吐いた。
「また襲って来てくれればいいのですが」
恐らく奴は閻魔を来させない為に彼らを襲った。来てしまった今、どう動くかは予想がつかない。然し。
「クトゥルフと思しき化け物が近くの村に現れました!」
響いてきたのはくのいちの声。姿は見えないが情報は確かだ、名も無き坊主は脊髄反射のように走りだした。閻魔も後に続く。
坊主は寺のなかを突っ切る最中、錫杖を手に取った。しゃりんっと大きく鳴るそれに人間の気配が変わる。本気で尚且つ殺意の混じった怒りの気配だ。閻魔は速度をあげて彼の横についた。
「お前に死なれると困る」
一瞥をやると一気に速度をあげた。近くの村がどこなのか分かっているし、もう確かな気配の糸が張ってある。更に濃く臭いのきつい一本が感じ取れる。
崖の上。立ち止まるとぱらぱらと石が落ちた。名も無き坊主は怒りを抑え込み彼の後ろに控える。しゃりんっとまた錫杖が鳴った。
そこから村の様子が一望できる。一見して普通の村だ、然しよくよく見ると殆ど人がいない。
「あそこの村は嘗て狐の首が憑りついておりまして、わたしが祓った際に人間や動物以外を見かけたらすぐに家へ籠るよう伝えてあるのです。各家の扉には札が貼っておりますから」
静かな声に閻魔は着物の襟元に手をかけた。風が強く吹く、ばさりと舞い上がった。背中を昇る龍を一瞥し、坊主は片膝をついた。
「わたしはここで援護致します」
懐から数珠を取り出す。然し「いや」と否定の声が鳴った。
「いざという時に守れん。我の近くにいろ」
視線をやった時にはふわりと宙に浮いていた。驚いて崖の下を見ると余裕を見せて木々のあいだに消えて行った。坊主は大きく溜息を吐いて立ち上がり、少し緩やかだが並みの人間では通れない坂から降りていった。
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