第7話

「よろしいですね」

 大きな針の樹の下で閻魔は正座していた。地蔵菩薩に言われた通り眼を閉じて身体から力を抜いた。ほっと一つ息を吐いた。

「眼をお開けください」

 瞼をあげ、顔をあげた。眼前には美しい日本の風景が広がっており、涼しい風が肌を撫でた。先程まであった針の樹は大きな八重桜の樹に変わっていた。

「まずはイザナキ様にお会い致しましょう。さあこちらへ」

 先を行く菩薩についてゆく。地獄とは一転したところだが、現世の景色と然程変わらない箇所も多かった。ただ焼けたあとや戦のあとは一つとしてない。

 行きかう神々や白い毛並みの動物達が閻魔を奇異の眼で見た。何せ異質な出で立ちをしているから、目立って仕方がない。ややあって大きな屋敷が見えてきた。

「アマテラス様は最高神であらせられますからここにはおりません。イザナキ様に事情をお話したのちに案内致します」

 丁寧に言うと屋敷の門まで行き、両端に立つ狛犬へと話しかけた。イザナキという名前に閻魔はぼうっと屋敷を見る、彼の世界では恋人関係だから少し胸がざわついた。

「閻魔様」

 大きく名前を呼ばれ視線をおろした。地蔵菩薩が心配そうな表情を浮かべながらなかを指した。今もまた心配と不安を感じさせているのだろう、そう思うと一刻でも早く事を済ませたかった。

 閑散とした畳の中央に胡坐をかいて待っていると、一人の男がやってきた。それは四十前後に見えるこざっぱりとした男で、長い髪を一つの団子に纏めており髭は綺麗に剃りあげていた。少々疲れているような眼元で愛想笑いを浮かべると二人の前に腰をおろした。

「ほお、面白い事もあるものだな」

 イザナキは懐に腕を入れて、さも他人事のように言った。地蔵菩薩が身を乗り出して少々窘めるように言う。

「地獄ではクトゥルフという者共のせいで、イザナミ様が眠っておられるのですよ」

 するとびっくりしてから眉根を深く寄せた。

「それは、本当か」

 途端に空気が張り詰める。地蔵菩薩は身を退いてしっかりと肯いた。

「かなりの手練れなのでございましょう、わたくしが見てもお目覚めになるご様子はありませんでした」

 かぶりを振る様子にイザナキは視線を畳にやって少し考え、噛み付くように一つ前に出ると「それで奴らはどこへ行った」と二人を見た。妻の事になると人格が変わるのか、閻魔は一歩退いた調子で見ていた。

「それが分からぬのです。ですが大王曰く、天界に向かうのが有力かと言っておられました。ですのでわたくしとこのお方はここへ来たのでございます」

 イザナキはまた視線を畳にやったあと顔をあげた。

「大王の言葉だ。信じよう。なら早めにアマテラスにも伝えた方がいいな」

 すっと背筋が伸びる。いまいち性格の分からない男に地蔵菩薩は肯いた。

「直にお会いになる事はできますでしょうか?」

 アマテラスは最高神、地獄の閻魔大王と同じで多忙の身だ。イザナキは隠居暮らしで彼女より暇があるから出てこられるが、王という者はそう簡単にはいかない。彼はうーんと唸ったあと席を立った。

「少し聞いてくるから待っててくれ」

 掌を軽く見せて早足に去っていった。残された二人のあいだに小鳥の囀りが鳴る。

「ご無礼ながら、閻魔様のそれは呪い、の一種でございましょうか」

 不意に声をかけられ、ああと自身の胸元を軽く撫でた。また一つ質問があったが彼は痛みはないとかぶりを振った。

「そうでございましたか。いや失礼、もしよろしくない呪いでございましたら、わたくしの力で少しでも良くして差し上げようかと思いまして。要らぬお節介でございましたね」

 ふっと笑う様子に閻魔は眉をあげた。

「大王にも似たような質問と似たような事を言われたな」

 地蔵菩薩は少し驚いたあと肩を揺らした。

「あのお方がヒンドゥー教におられた頃よりわたくしは心のなかにおりましたから、稀に言葉が被ってしまうのです」

 それから大王やヤミーについて話をし、彼の世界ではどういう関係なのかも伝えた。ただ恋人関係については伏せた。何が逆鱗に触れる要因となるか、分かったものではない。

 ややあってイザナキがいそいそと戻ってきた。

「待たせてしまってすまない。もう少ししたら休憩に入るそうだから、その時に案内しよう。場所は近いから言うほど時間は食わない」

 彼は日本の父とは言え隠居の身。大王よりも権力のあるアマテラスに話を通すのが筋だろう、とも付け加えた。数分後に時間が来て、忙しなく立ち上がった。

 イザナキの屋敷から更に西へ向かったところに、城のように立派な建造物があった。城下町は更に栄え、面白い組み合わせの三人を稀有の眼で見送った。

 父のイザナキと仏の地蔵菩薩が来た事で門は開かれ、裁判所のように人通りの激しい御所内に踏み入れた。閻魔はざっと周囲を見渡しつつ彼の後に続いた。

「アマテラスよ。客人だ」

 例え肉親であろうとも彼女は最高神、本来であれば畏まった口調なのだが父はそれを嫌い、娘はそれを許している。「どうぞお入りください」という若い女性の声に襖を引いた。

 なかには綺麗な女人が座っていた。膝下まである長い黒髪と白い肌が特徴的で、それに映えるようにして眼は橙色に輝いていた。凛とした顔立ちだが性格は臆病で引っ込み思案なところが多く、少々気弱に見えた。良く言えば憂いを帯びた人形のような女性だ。

 父のイザナキが大筋を説明して、細かいところは地蔵菩薩と当事者である閻魔が話した。アマテラスは静かに聞いたあと、軽く眼を伏せた。

「ご無事で、何よりでございます」

 閻魔に手向けた言葉だ。柔らかく太陽光に似た温もりが肌を撫でた。これは彼だけが感じているものではない、彼女達自然物の化身は実際に温い空気や冷たい空気を発している。月なら冷たい夜風、桜なら暖かい春風。雷なら緊張感のある空気が流れ、風そのものなら微風が常に肌を撫でる。

「事情は、承知致しました。けれど暫くは現れないでしょう、少しお休みになってください」

 丁寧に頭をさげる様子に閻魔は否定した。今すぐにでも事を収めたいからだ。然し両隣にいる父親と仏に「素直に受け取れ」と軽く叱られ、渋々休む事になった。

 アマテラスから「私の弟達にも会っておいた方が良いでしょう」と言われ、また待ちぼうけを喰らった。御所内での喫煙や飲酒は特別な日以外禁止されている、彼のなかに微妙な苛立ちが募っていった。

 ややあって来たのは二人の青年だ。一人は前髪まで長くおろした女のような男で、もう一人は剛毛を一つ束に纏めた筋肉質な男。前者がツクヨミで後者がスサノオだ。。

「話は聞きました。どうぞよろしくお願い致します」

 ツクヨミが頭をさげると柔らかい髪が着物を撫でた。黙っていれば女として通用しそうな程だ。

「これスサノオ、きちんとご挨拶を……」

 後ろにいるアマテラスが眉を八の字にさせた。もう一方のスサノオは固く口を結んでおり、赤い瞳は閻魔を見ていなかった。頑固な弟に苦労人らしい兄が手をあげた。

「頭さげろこの野郎」

 がっと後頭部を押さえつける。スサノオよりも細身なのに全く抵抗出来ていない、見た目に似合わずかなりの怪力だと彼は思った。

「どうも申し訳ない。うちの愚弟は根っからのおおうつけ者でございまして」

 無理矢理な笑みを貼り付けてツクヨミが言った。地蔵菩薩はくすくすと笑い、閻魔は両手を見せて借りてきた猫のように軽くかぶりを振った。

 スサノオは解放されるとすぐさまどこかへ消えてしまい、時間が来たのでアマテラスは仕事に戻った。イザナキは当の昔に屋敷へ帰っており、地蔵菩薩も「一度地獄へ戻ります」と言って去っていった。

「……」

 残された二人のあいだに気まずい空気が流れる。閻魔は煙草が吸えない事に心を無にしており、ツクヨミはそわそわと正座のうえで動いていた。

 然しとうとう我慢が出来なくなって立ち上がった。ツクヨミの肩が大きく揺れた。青い瞳で彼を見上げる。

「煙草を、くれないか」

 調子の悪い声音に彼ははっとして、慌てて吸える場所まで案内した。敷地の外れにあるところで景色が良く、煙草や酒を嗜みたい者がふらりとやって来る場所でもある。なんならアマテラスも何度か来た事がある。

「あ、一つ忘れてしまった……すぐに戻りますのでお待ちを」

 最高神の弟とは思えない調子で去っていった。閻魔は一つ息を吐きつつ、綺麗な景色を見渡した。息を吸うと清々しい空気が入って来るし、ぼうっとしていると程よく冷たい風が髪や耳飾りを揺らしてゆく。

「ここを、汚したくはないな」

 ぼそりと呟いた。

『汚したくないのか?』

 風が少し強くなった。

「ああ。汚したくない。この世界を汚したくはないし、壊したくもない」

 突風が吹いて、室内にいるアマテラスが顔をあげた。傍にいる少女に「怖いね」と言って不安そうに外を一瞥した。

『ならさっさとお前が壊れなければ、ここはお前のせいで汚れてしまう』

 白い雲を押しのけて黒い雲が現れる。太陽が隠れた事により、アマテラスの表情が暗くなった。少女が心配して声をかける。

「アマテラス様……」

 それにふっと微笑んで答えた。

「私は大丈夫だよ。それより今日は珍しく嵐のようだね。早めに切り上げようか」

 屋敷も御所も影に隠れる。それは敷地の隅にいる閻魔のもとにも射した。

「閻魔殿お、嵐がやってまいりますー。早く御所のなかへ、」

 忘れた物を片手にツクヨミが声を張り上げる。然し足が止まって眼を見開いた。

 彼がいた場所に黒い山が出来ていた。ツクヨミはその場に投げ捨てるとすぐさま引き返した。黒い山は静かに躍動している。

 残された邪神達は閻魔の心に隙が出来るのを窺っていた。その為煙草の道具を忘れるよう、一部別のところに隠したのだ。そうして時間が経てば経つ程彼の心は苛立ち、隙が産まれる。奴ら邪神は精神を犯す、一度入り込まれると例え彼でも抗えない。以前の世界で経験していたはずだった。

 長い髪を靡かせて木の板を踏み鳴らす。息があがって眉を顰めた。一切速度を緩めずにアマテラスのいる部屋へ駆け込んだ。

 あっと驚いて眼を丸くする姉に、弟は喘ぎ喘ぎ伝えた。

「閻魔殿が、何者かにやられました!」

 彼から流れる冷たい夜風がその場を支配する。アマテラスの血の気が引いて一瞬弱まったからだ。

「それは、クトゥルフという奴らが来た、という事かい」

 震えた声で咀嚼するように名前を言った。ツクヨミは冷や汗を拭いもせず肯いた。

「それは、一大事だ……」

 心臓の鼓動が速まる。だが彼女は最高神だ、恐怖に慄きながらも指示を飛ばした。どたどたと去っていく様子に、アマテラスは傍にいる少女を胸に抱いた。

「おそろしい」

 黒く艶やか少女の髪を撫でながら、太陽神は底から流れ込む湿った空気に身を震わせた。

「父上!」

 ツクヨミはその足でイザナキのもとへと走った。適当な下男にでも任せればいい事、然しそれをするいとまもない程焦燥感に追い立てられていた。何せ当事者の閻魔が消え、暗に奴らがここへ来ているのだと言っているようなもの……余裕なんてありはしない。

 息子から話を聞いたイザナキは手をとめた。そこには生花があり、作っている最中だった。

「それは本当か」

 とんっと低くなる声に背筋を伸ばし肯定した。

「……お前はスサノオにこの事を伝えよ。俺とアマテラスで動かす」

 ぐっと立ち上がると一瞥もくれずに横を過ぎていった。ツクヨミは頭をさげたあと、末っ子のいる屋敷へと向かった。

「知るか」

 然しスサノオは頑として話を聞かなかった。かなりの剛力を持つ男だが、性格に難があり少々子供っぽいところがある。兄は唾を飛ばす勢いで声を荒げた。

「閻魔殿がどうとかの話ではないのだぞ!? この国に、この天界に異国の、然も邪神共が入り込んで来ているのだ! 入り込むだけならまだしも……いつこちらに牙を剥いてくるか分かったものではない!」

 それでも丸めた背中を見せて聞く耳を持たない。ツクヨミは大きくあからさまに溜息を吐き、両腕をだらりと垂らした。

「お前の嫁がどうなってもいいのか。奴らは閻魔殿だけじゃ飽き足らず、母上や大王達にまで敵意を見せたのだぞ。彼が死んだからと言って、そう易々と引き下がる連中のようには思えない」

 するとスサノオの身体が少し動いた。振り向いた赤い瞳を見つめる。

「母上が? それに大王まで?」

 彼は一度、母であるイザナミと会いたいと言って父と喧嘩になり、思い切り頬を平手打ちにされた事がある。イザナミへの執着心は父譲りだ。それに大王とは何度か会っており、家族間の問題なのにも関わらず文のやり取りを手伝ってくれた、スサノオには恩義があった。

「そうだ。母上だけはまだ目覚めないらしい。閻魔殿曰く、奴らを完全に潰さない限り目覚める事はないだろう、と」

 軽く腕を組んで静かに言った。兄が幾ら説教したところで、国がどうこうなると言ったところで、この愚弟は断固として動きを見せない。然し家族の事となると話は別だ、人が変わったように動き出す。

「おれの嫁も、そうなるかも知れないのか?」

 眉を顰めて兄を見上げた。冷たい夜風が肌を撫でる。

「ああ」

 確証はないが、どのみち奴らは我々を攻撃してくるだろう。神としての勘がそう囁くのだ。スサノオはややあってばっと立ち上がると廊下に出た。

「おれは身支度をする。兄上は姉貴のところに戻ってくれ」

 一瞥をやって去っていく。ツクヨミは内心、戻ったところで意味はないのにと思いながらも御所へ帰った。

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