第6話

 裁判所から外に出る。獄卒も亡者もいない等活地獄がよく見えた。そして空から黒い軍勢が迫って来ているのも、よくよく見えた。

「大王」

 後ろから呼びかける。振り向く事はなかった。

「試したい事が終わり次第、我が前に出る」

 ややあって返事があった。

「勿論だ。儂は貴殿の援護に回ろう。儂の力では恐らく、それが最善だ」

 どこか沈んだ声に眉をあげつつ腕を組んだ。果たして彼は何をやるつもりなのか、じわじわと迫ってくる大軍を見つめた。

 ヤミーはサタンとイザナミの防衛、牛頭馬頭は閻魔の後に特攻、奪衣婆と懸衣翁は大王の命があり次第動き、他十王は後衛、他補佐官、獄卒、妖怪達は主要な彼らを守りつつ攻撃。以上が即席で出来た作戦だ。

 暗雲と共になだれ込んでくるクトゥルフに、大王はすっと息を吸いこんだ。瞬間風が吹き、気配が変わる。何かきっかけがあればすぐにでも爆発してしまう、そう思ってしまう程の緊張が一瞬にして張り詰め、腕を組んでいた閻魔もそっと解いてしまった。

 顔をあげ、瞼をあげる。正面から大軍を見つめた。刹那、ぐっと速度を落として止まり始めた。更に強い風が吹き始める。

「ところ構わず、と言ったところか。それだけこのお方の事が恨めしくて仕方がないようだ」

 静かな地獄に彼の声だけが響いた。

「我々が勝手に想像し憶測を並べたてただけ。気丈な振る舞いでその憶測を裏切れば良かったというのに」

 大王は両手を後ろにやった。それは閻魔への合図の前触れだ。ふっと視線をやった。

「すればきっと、お主らの狙う閻魔大王は乱心しただろうに。とても勿体ない」

 ぐっと両脚に力を入れた。

「恐れたのだろう。我々が動き出した事を。いや、そもそも恐れているのだな、」

 両手がゆっくりと合わさってゆく。指先を下にして、掌が合わさってゆく。

「閻魔大王を」

 瞬間、大軍に向かって飛び出した。先頭にいる化け物の眼が赤い瞳と合う。しっかりと握られた拳に反応が遅れ、最初の一発を受け取ってしまった。

「かかれえ!」

 それを皮切りに牛頭馬頭が大声で怒鳴った。士気の高い地獄の者共は、先頭を失って落ちて来るクトゥルフ達に襲いかかった。

 金棒を振り上げ、斧を振り上げ、槍を振り上げ、刀を振り上げ、一斉に襲いかかった。そのなかで閻魔は先陣を切る。黒い腕を出すまでもないか、舞うように殴り、蹴り、掴み上げては投げ、引き裂いた。

 大王はその様子を見てヤミーのもとに駆け寄った。膝をついてイザナミの様子を見る。

「まだお目覚めにならぬか」

「うん。見た目には分からないけれど、恐らくかなりの深手。こうなればもう、地蔵菩薩を呼ぶしかないだろうね」

 その名前に更に深く眉根を寄せた。

「この状況では呼べぬ。あの者には戦をさせとうない。まずは奴らを退けねばならん」

 腰をあげ乱戦となっている地獄に視線をやった。然し妙だ、そう思った。

「強敵だと言う割に、随分と簡単だ。イザナミ様をここまでに追いやった相手が、あんな一方的にやられるだろうか……」

 一抹の不安が過る。刹那、すぐ傍から断末魔が聞こえてきた。はっと眼をやるとサタンが地面を転がっていた。ヤミーが慌てた様子で手を伸ばす、大王は彼を呼ぶかどうか迷った。地獄で暴れているもう一人の自分を。

「ダーナ!」

 然し妻の声に振り向いた。彼の眼前には巨大な顔があった。にやりと不気味に曲がった双眸、そして口元はタコの触手のようにうねって、いやらしく大王の頬を触った。

 あっと左眼が見開かれる。動きだそうとしても無理だ、黒い腕が出てきたと思ったら大王の首を狙った。

 だが一人、奴らの速度に合わせられる者がいる。奴らが狙い、奴らが恐れ、奴らが壊そうとしている者だ。

「その人から離れろ」

 聞き覚えのある声が鳴り、大きな手が一瞬ぴくりと唸った。双眸に恐怖の色が浮かぶ、視線をやった時、その者の飛び蹴りが迫っていた。

 ぶつかると同時に霧のように消え、閻魔は慣れた様子で地面に着地した。はっと息を吸いこむ、大王は心臓の鼓動に汗を拭った。

「たすかった……恩に着る」

 それにヤミーとサタンも胸を撫でおろした。然しこちらに背中を向けたままの彼は間髪入れずに言った。

「邪神の方も来てる」

 振り返った。

「雑魚は獄卒達に任せてしまっていいだろう。だが我らは本命である邪神共に集中した方がいい」

 大王の前まで来る。眉根を寄せて問いかけた。

「先程のが話に聞いた、クトゥルフという神か」

 閻魔は粗方知っている事を既に話してある。ああと肯くと彼は少し考えたあと、大声で牛頭馬頭を呼んだ。雑踏のなかから本来の姿に戻った二人が出てくる。その場に膝をついた。

「三途の川へ行け」

 それは老人二人を解放させるという事。裁判所など片足で踏みつぶせる程の巨大な鬼で、その力は一人で山を一つ潰せる程だ。牛頭馬頭は返事をすると速い足どりで去っていった。

 イザナミとサタンが足手纏いになる為、閻魔に周囲を見てもらいながら他十王を呼び寄せた。みな集まると大王は彼らを護るようにお願いした。他十王を合わせた結界はかなり強力で、囮にも使えるだろうと彼は考えた。

「儂は地獄のものならなんでも生成して動かす事が出来る。そしてヤミーは神力の凝縮……簡単に言うなら、」

「物凄い力を一つの球にして撃ちだせる」

 さっと彼女が答える。閻魔は二人を見て肯いた。

「なら我は眼前にいる者だけと戦う」

 ヤミーと大王は彼の援護を主に力を使う事になり、奪衣婆と懸衣翁が到着するまでは背中を預け合う事になった。

 右眼を覆った眼帯と異形と化した左眼、互いに一瞥をやると息を吸った。すると空気が変わってゆく。神が三人も臨戦状態に入ったのだ、変わらない訳がない。ごろごろと雷が唸って、直に雨が降って来る。

「背中は頼んだぞ、閻魔よ」

「ああ。期待している、大王」

 刹那、ざっとバケツをひっくり返したように雨が降ると共に、クトゥルフを中心とした邪神達が現れた。なかには怪我を負った者、一部欠損している者もいる。全て閻魔とその仲間にやられたものだ。

『あの日の恨み、ここで晴らしてくれる!』

 クトゥルフの怒声に閻魔は冷めた声で呟いた。

「喧嘩を売ってきたのは貴様らだろう。我は正当な理由で応じただけ。恨みがあるのはこちらだ」

 それが聞こえたのか聞こえていないのか、どちらにせよ頭上から数体降ってくる。閻魔は隠していた腕を出し、ヤミーは手中に力を溜めはじめ、大王は両手を軽く広げた。

『いけ! 全員根絶やしにしてしまえ!』

 クトゥルフの声に降りてきた邪神が呼応する。四方を囲まれ、ヤミーが少し後退った。

「二体相手する。あとは任せた」

 そう言うと一気に飛び掛かった。全力を出した速度に反応しきれず、膝蹴りを顔面に喰らった。白眼を剥いて倒れだすのを無視して、着地する前に襲いかかってきたもう一体の髭を掴み、全身の筋肉を使って首の後ろに回り込んだ。

 閻魔が二体を相手にしているあいだ、双子であり夫婦である二人は背中を合わせた。ヤミーは両手のあいだに赤い球体を生み出し、大王は地面に集中した。

 刹那、同時に襲いかかって来る。然し彼らも只者ではない。地獄や亡者を護る為、何千年と悪霊や妖怪を退いてきた、その実力は閻魔には劣るものの負けを知らない。

 赤い球体が爆風を巻き起こして彼女の手を離れた。砲弾と同程度の反動だ、耐えた分、下駄の踵には土が盛り上がった。凄まじい速さと凝縮された力は腹の中心に穴を開けた。

 両手をばっと上にあげると地面から大きな針が現れた。主力の二本とそれより小柄な無数の針達。両側から一気に迫ってくるそれらは、逃げ道を許さずズタズタに突き刺さった。

 二人が一つ息を吐いた時、閻魔は地面に伏したもう片方に強い拳を浴びせた。そうして項垂れる四体目に顔をあげる。赤い瞳と赤黒い瞳が一瞬合った。

『な、なんなんだ貴様らは。誰だ! こんな世界を選んだのは!』

 クトゥルフが焦燥感に満ちた声を発した。他の邪神の声も聞こえてくる。哀れに言い争っているのをいい事に、閻魔はぐっと姿勢を低くし、ヤミーは更に大きな球体を作り出し、大王は右手を挙げていた。

 はっとタコの眼がこちらに向いた。瞬間、跳び上がった閻魔が拳を引いた。球体から手を離したヤミーが一歩後退った。掲げた右手を握り締めた大王が鋭く睨んだ。

 クトゥルフの顔面に強烈な拳がぶつかり、大きな胴体に雲を掻き分けた神力の塊がぶつかった。そして彼が力の反動を使って離れた瞬間、頭上から灼熱地獄の溶岩が降り注いだ。

 絶叫が、断末魔が空気を揺らす。風が巻き起こって更に雨足が強くなった。雷が何度も光って地面に落ちる。危機感を覚えた大王が二人を呼んでさがった。他十王のところまでさがる。

 獄卒達は軍勢を一掃してしまい、様子が変わった事に空を見上げていた。肌を打ち付ける程の豪雨に髪も着物もへばりつく。

「これは……いい気配ではないな」

 大王が呟いた。辺り一面が光ってその険しい表情がよく見えた。刹那、クトゥルフの形が変わった。半分溶けたような不気味な姿に真っ先に反応したのは閻魔、足を踏み出して前に行く彼に名を呼んだ。

 何も知らない、然し今まで以上に嫌な予感がする。そう戦の勘だけで察知すると足掻くように足を速めた。

 だが彼よりも速い者がいた。がっとクトゥルフを背後から掴み上げると、そのままの勢いで地面に叩きつけた。それは巨大な鬼で、一本角と二本角の二体がいた。閻魔は慌てて立ち止まる、気配が消えたのだ。

「遅れてしまい申し訳ありません!」

 牛頭馬頭が頭をさげる。大王はいやと掌を見せて前に出た。総大将であるクトゥルフがやられた事により、他の邪神達は口を閉ざして影を薄めた。

 大王が近づくと鬼は手を離し、その場に片膝をついた。項垂れる二体に「よくやった」と一瞥をやりクトゥルフを睨みつけた。

「閻魔よ、敵の総大将はやった。これで事は治まらぬのか」

 後ろにいる彼は濡れた髪を撫でつけ空を見た。

「いや、恐らく全滅させない限り……」

 その言葉に残された邪神は震え、そして逃げ始めた。あっと全員が眼を見開く。

 走りだす閻魔に二体の鬼が手を貸し、空高く打ち上げた。邪神の一人を掴んだが掌に熱い刺激が走り、意思に反して離してしまった。落ち行くなか、逃げる残党に向かってこれでもかと舌打ちを鳴らした。

 一先ず危機は立ち去り、空は晴れた。各地獄の閉鎖を解いて獄卒達は従来の仕事へと戻っていった。巨大な鬼も老夫婦の姿に戻り、阿吽の鬼首は危機が去ったのを感じて眼を開けた。然し。

「まだイザナミ様は眼を醒まされない、か」

 部屋の一室で未だに眠っている。大王は肩を落とし、サタンは眼を伏せた。

「……クトゥルフを殺しても何も変わらない。という事はもう、奴ら全体が我に対して力を使っているのだろう」

 少し離れたところで煙管を咥える。髪は後ろに流したままだ。横顔を見上げて大王は問いかけた。

「訊いていなかったが、貴殿は一度戦って元の世界に戻ったのだろう。その時はなんの条件で戻れたのだ」

 彼以外の視線も注がれた。閻魔は横顔でそれを受けながら、赤い瞳は外を見ていた。地獄の炎がよく見える。

「最後は世界を見つけてきた我の仲間達と戦った。だから明確には分からないが、殆どの奴を殺して、クトゥルフとその周りを再起不能までに追い込んだら世界が崩れ始めた」

 それで元の世界に戻れたのだ。

「ようは奴らを削る事で力が弱まり、維持できなくなるのだろう」

 然し、と閻魔は視線をやった。見ているのは大王一人だ。

「ここは元々ある世界だ。前回のように奴らが作った訳ではない。どうなるかは、我も分からない」

 もしかしたら力に釣られて均衡が崩れるかも知れない、もしかしたら力のせいで世界が乱れるかも知れない。邪神とは言え神であり、かなり強力な力を持っている。それは弱体化した今でも同じだ。

「……消えなければ良い。それより奴らがどこへ向かったか、それを明らかにせねばならぬ。何せここは天界や天国と繋がっているし、現世に行かないとも限らない」

 沈黙が流れる。サタンも含め、彼らは現世や天界に行く事が出来る。然しそれはあまり推奨されていない事、大王や牛頭馬頭は地獄の者、ヤミーやサタンは異国の者だから時空が歪んでしまうかも知れない。それ以前に、彼らの身体がもたないのだ。

「スサノオ様に狭間まで来て頂いて事情を説明するのでも良いが、あまり地獄に近づくと影響を受けてしまうしな……」

 髭の生えた顎を軽く触る。うーんと考える様子に馬頭が身を乗り出した。

「地蔵菩薩様にお任せするのはいかがでしょうか。かのお方は六道を回っておられる、どこであろうとも問題はないはずでございます」

 それに大王は表情を変えなかった。

「至極全うな意見だ。然しあの者にこのような危険な事、させたくないのだ」

 顔をあげた彼の眼はいつもより暗く見えた。牛頭馬頭は眼を伏せて考え、また沈黙が流れた。然し廊下が見える位置に座っている閻魔が、煙を吐きながら眼を見張った。

「おや、客人でございますか」

 聞きなれた声に大王がはっと振り向いた。差し込む陽の光を背に立っていたのは、優しい顔立ちの仏だった。

「そういう事でございましたら、どうぞわたくしめにお任せくだされ」

 眼を閉じたまま頭をさげる様子に、ヤマ時代から共にいる大王とヤミーは顔を見合わせた。

「だが相手は邪神の類だ。例えお主でも敵わぬ相手かも知れん」

「そうだよ。何も貴方が危険を侵してまでやる事じゃない」

 二人の言葉に地蔵菩薩は優しく笑い声を漏らした。

「ではかのお方をお連れすれば良いでしょう」

 すっと丁寧な所作で手を指した。二人が振り向いた先には遠くを見る閻魔がいた。

「そのクトゥルフと言う者らが現れたとしても問題はございません。それに、」

 腰をあげると閻魔の傍に正座した。異形の左眼がこちらに向く。ふっと微笑んだ。

「あなた様も、そうした方がよろしいでしょう」

 菩薩の笑みに閻魔は煙管をおろして肯いた。大王は渋い顔をしたあと諦めて、彼に向き直った。

「天界にはイザナキ様やアマテラス様がおられる。そのお方々に事情を話せば、きっと手をお貸しくださるはずだ」

 二人の閻魔大王は互いに眼を見た。ややあって腰をあげ、貸してもらった煙管を返そうとした。然し掌を見せて制する。

「それは、折角だから貴殿にやろう」

 顔を見上げると少し口角があがっていた。

「……大事にする」

 煙管を片手に言うと地蔵菩薩の後に続いた。恐らくもう地獄に帰って来る事はないだろう、閻魔大王は彼の後ろ姿を暫く見つめた。

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