第5話
大王は足音煩くヤミーの部屋へ向かった。一先ずこちらの仕事があるから、閻魔にはそれが終わるまで待機してもらうようお願いしてある。本来であれば、粗方の仕事を終えてからじっくりと考えるつもりだった……然し相手は猶予を与えてくれないらしい。
襖を開けると双六で遊んでいるのが見えた。赤い瞳と眼が合う。
「恐らくクトゥルフの者と思しき輩が現れた。こちらのイザナミ様に襲いかかったらしい」
身体の向きを少し変えた。
「大丈夫なのか」
「ああ。あのお方は雷神の力が使えるから、滅多な事ではやられまい。然し悠長な事はしておれん」
身を退く大王に閻魔は立ち上がった。少し振り返ってヤミーを見る。彼女は薄く口元を引いて肯いた。
二人の閻魔大王が裁判所を闊歩する。すれ違う獄卒はあっと驚いて暫く固まってしまった。
「サタン様」
自身の仕事場に戻ると早速名前を呼んだ。牛頭馬頭と立ち尽くしていた彼がはっと振り向いた。然しすぐ傍に見慣れない男がいるのを見つけて、いつも通り思った疑問を口に出した。
「その人は?」
勿論話をしている場合ではない。大王は遠慮なくサタンの腕を引いて「話はあとでございます。まずはイザナミ様のもとへ」と威圧的に言った。所詮は自国の神に負けた悪魔、疑問を抱えながらも従った。
「あれは、サタンなのか?」
「名前の通り。貴殿のところにもおるのか」
「いるにはいるが、こちらと違ってとても悪魔らしい馬鹿だ」
その言い草と声に敵対しているのだなと察した。その為サタンと閻魔のあいだに壁を作れるよう、少し歩く速度を速めた。
「イザナミ!」
前を行く彼がだっと駆けだしたと共に嫌な光景が見えた。流石の大王も駆け寄って膝をつく。
「イザナミ様」
彼女はそこに倒れていた。もう死んだ身体だから外傷は一つもつかない。然し揺さぶっても反応しないのを見るに、かなり手酷くやられたのが判る。大王はイザナミの身体を抱え上げるとサタンに指示を飛ばし、裁判所の方に戻った。
そのなかで閻魔だけが動かずにいた。何も表情に映さないまま空を見上げる。珍しく曇天が広がっていた。
「やるなら、我だけを狙え」
表情はなくとも、強く拳を握り締めていた。
「イザナミ様は死者だから、我の治癒では意味がない」
ヤミーがかぶりを振り、沈黙が流れた。布団のうえに寝かされた彼女は眼を閉じたままで、肌の色も相俟って周囲を不安にさせた。サタンが変形した手を握った。
「僕がすぐに動かなかったばっかりに……」
悔いる台詞に大王が否定した。
「何も悪い者はおりません」
ここに来た彼にも非はない。だが戻ってこないのを見て、少々不安になった。傍にいる馬頭に場所を教えて連れ戻すように言った。命を受けた彼は早足で向かった。
そこには仁王立ちのままじっとしている閻魔がいた。静かに近づいて一礼する。
「だ……閻魔様、ヤミー様の部屋へ戻りましょう」
眼を伏せて言うもすぐには応じなかった。嫌な風が吹く。嵐の前兆のようで、馬頭はふっと空を見上げた。
「これは、珍しく大雨になるでしょう。早くお戻りに、」
一歩前に出ると言葉を遮られた。
「嫌な予感がする」
名も無き坊主の寺にいた時、似たような言葉を彼は吐いた。馬頭は一度口を紡ぎ、また曇天を見上げた。
「わたしには、何も感じられませぬが……」
小さく呟く。刹那、閻魔がばっと振り向いたと思いきや彼の名を叫んだ。
「大王のもとに戻れ! 早く!」
滅多に慌てふためく事はない。そんな冷静沈着な者が焦燥感を露わにした事に、彼との記憶がない馬頭でも驚いた。然し流石は最高裁判官の補佐官だ、短く返事をすると自慢の脚力で走り去った。閻魔は空を睨みつけたあと、馬の後を追うように走りだした。
人の姿では全力を出せない、その為走りながらもとの姿へと戻った。背丈は更に増え、筋肉量も増えた。そして目立つのは馬の頭、その名に恥じぬ姿で裁判所内を駆け抜けた。
辿り着くや否やばっと襖を開け放った。全員の視線が一斉に向く。大王が問いかけた。
「何があった」
牛頭と比べて冷静で落ち着いた性格の彼が慌てる時、それは決まって有事の時だ。立ち上がって馬の頭を見上げた。呼吸を整えながら閻魔の様子も含めて全て話した。
「……このなかの誰かが、クトゥルフに狙われておるな」
振り向いた先には横たわるイザナミが見える。彼の言葉に緊張が走った。その時だ、大きな落雷の音と同時、サタンの首元に黒い触手のようなものが巻き付いた。
一瞬間の事だった。牛頭馬頭でさえ反応が遅れる程に、相手は速度が早かった。あっと思った時には彼の身体が引きずられはじめ、部屋の奥にぽっかりと開いた闇へと吸い込まれそうになった。
首に纏わりつくそれをぎゅっと握り締めながら右手を伸ばした。神に聖なる剣で左眼を刺された時よりも、翼をもがれて冥界に堕とされた時よりも、絶望的で恐怖に染まった表情を浮かべていた。然しそんな悪魔の眼に一筋の光が射す。
前髪を後ろに流しながら閻魔が走って来る。そしてその傷だらけの手を伸ばし、サタンの右手をしっかりと掴んだ。と同時にもう片方の手で黒い触手のようなものを捕らえた。
そこでやっと他の者が追い付く。牛頭はすぐに状況を判断し、伸びている触手に強烈な踵を落とした。畳まで凹んでしまう程の威力、ぶちっと千切れかけたのを見ると閻魔はサタンごと引っ張った。
そして彼を抱えたまま飛び退く。イザナミの上を越え、着地した。一つ息を吐く。
牛頭馬頭が追及しようとすると触手は先程の速さで闇に戻り、その闇も一瞬にして閉じてしまった。静寂が一つ流れる。誰もが“あれは妖怪ではない”と感じるなか、閻魔はサタンの首を軽く触った。
「かなり絞められた痕があるな」
当の本人は呆気にとられたままで、じっと赤い瞳を見つめていた。然し大王とヤミーが傍に来てやっと視線が動いた。手で身体を支えつつ座り直した。
「儂らはともかく牛頭馬頭さえ動けなかった。クトゥルフというのは、それ程までに強力なのか」
膝をつきつつ閻魔に問う。実際に戦った事のある彼は肯いた。
静寂がまた流れる。大王の小さな溜息がよく聞こえた。然しサタンが声を出した。
「あの」
投げかけた相手は自身を助けた男。サタンは神妙な面持ちで頭をさげた。
「貴方のお蔭で助かった。ありがとう」
その言葉に閻魔は薄く笑った。
「なるほど、坊主のところでも嵐と共に現れたと」
また襲われる可能性を考慮して、暫く同じ部屋で固まっておく事になった。どのみちイザナミやサタンなど比較的弱い者がいる以上、離れる訳にはいかなかった。特に奴らとの戦闘を経験している閻魔は。
「ああ。もしかしたらそれが前兆かも知れない」
然しサタンが手を挙げて軽く否定した。
「曇天ではあったけど、雨や雷と一緒にではなかったよ。イザナミが襲われた時は」
それに確かにと呟いた。だがそれでも何か関係はあるはずだ、考え込む二人に今度は馬頭が発言した。
「とても無礼な事ではありますが、今のところ狙われているのは戦闘能力が低い者ばかり。例の坊主も法力が高いというだけで人間に変わりはありません。本命であるはずの閻魔様を狙わず、見向きもせず、僧侶に襲いかかったというのであれば……」
人間の姿に一先ず落ち着いた彼の言葉に今度は大きく肯いた。
「貴殿をどうにかしてやろうという割には明確に狙ってこん」
それに閻魔は少し考え、嫌な予想を立てたと言わんばかりに口に出した。
「以前クトゥルフに遊ばれた時、奴らはとにかく精神的に苦しめるような事ばかりで、直接手をくだす事はなかった。それに精神的に負荷がかかり、あるきっかけを持って狂うというのもその世界のなかで分かった。それが奴らの性質かどうかは分からないが、もしかしたら……」
大王が言葉を続けた。
「貴殿の心を壊す為、このような事を?」
それならば全て辻褄が合う。わざわざ彼を別の世界へ飛ばしたのも、彼を狙わず他を狙うのも、弱い者を真っ先に襲うのも。現に彼は“やるなら自分を狙え”と呟いた。みな汚いものを見るような眼で眉根を寄せた。
「胸糞のわりい連中だな」
牛頭が吐き捨てる。
「悪魔の僕でも反吐が出そうだ」
サタンが呆れた様子で両手を広げる。重たい空気にややあって大王が息を吸った。
「閻魔よ」
名前を呼び、赤い瞳を正面から見据えた。
「我々は死ぬ事も消える事も決してない。そして貴殿を恨む事も怒る事もない」
一つおいて続けた。
「決して、気を病んではならん」
強く、選択肢のない声で言い放った。それに閻魔は口角をあげて笑った。
「ああ、分かった」
大王は他十王に仔細を全て説明、三途の川は一時封鎖、天界と天国への道には大きな門と錠前が降ろされた。賽の河原にいる子供の亡者達は裁判所内に集め、それ以外は各獄卒の采配で変わっていった。
「等活地獄、亡者を一時隔離。獣らも避難完了致しました」
「灼熱地獄、閉鎖完了致しました」
大王のもとに各地獄の長が集い、それぞれ頭を垂れた。彼の後ろには閻魔が胡坐をかいており、長達はいつも以上に緊張した面持ちを浮かべていた。
八人目、阿鼻地獄の長のもとに若い獄卒が耳打ちする。肯くと大王を一瞥したあと頭をさげた。
「阿鼻地獄、完全に封鎖致しました」
瞬間、大王はよしと大声を張り上げ、集まっている獄卒らや妖怪、他十王、補佐官らに向かって言った。彼の隣に腰をあげた閻魔が並ぶ。
「これから戦を始める! 相手は我々が知らぬ者、然し決して屈するな! そして決して、この者を窮地に立たせるな!」
ぽんっと肩に手を置く。全員の視線が彼に集まった。
「ここは地獄! たった独りの男を貶めようとするその心! とても醜く卑しく、許された事ではない! 全ての敵に容赦をするな。地獄を思い知らせてやれ!」
ぶわっと風が流れる。木々をも揺らす程の迫力に士気の高い返事が続いた。各々が戦の準備を始めるなか、閻魔は大王に対して笑った。
「流石は、あの世の王だな」
「何を言う、貴殿もだろう」
然し一貫して無表情な彼に視線を逸らした。
「我々の導き出した仮説が外れていない事を祈る」
大王は右眼の眼帯を軽く整えた。
「外れてはいないだろう。直接対峙し戦った我が保証する」
閻魔は髪を撫でつけ着物の上を脱いだ。すると早速知らせが入った。
「曇天から複数の敵発見! こちらに向かってきております!」
それに首を回した彼が一歩前に出た。
「我が先陣を切ろう」
然し呼び止める。
「ここは儂にやらせてはくれぬか。一つ試したい事がある」
振り向いて左眼を見た。一つおいて肯くと、大王は早足で横を過ぎた。試したい事がなんなのか気になるので、着物の裾を翻して後について行った。
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