第4話
ややあって坊主と閻魔が到着する。勿論襖の前には牛頭馬頭が立っており、通行止めと言わんばかりに前に出た。
「何用でしょう」
馬頭が上から訊いた。坊主も時代の割に背が高いのだが、彼らには到底及ばない。顔をあげて用を告げた。然し話が大きく飛躍する事になる。閻魔が少し眼を丸くして言ったのだ。
「お前ら……我の事を覚えているか」
沈黙が一瞬流れる。牛頭馬頭は眉根を寄せて互いに顔を見合わせた。坊主も上手く飲み込めず、彼の横顔を見つめた。
「い、いえ、全く」
馬頭が答える。牛頭が短気なせいで直接的に言った。
「なんなんだおめえは。こっちは誰もあんたの事知らねえんだ。だってのにうちの大王がいる部屋まで来るなんぞ、言語道断!」
大きく声を張ると鼓膜が突っ張った。馬頭が手を出して「やめろ。まだ話を聞いていない」と宥めた。
閻魔は小さくそうかと言って肩を落とした。その様子を目ざとく見つけ、馬頭が問いかけた。
「一体、なんなのですか。貴方は誰なのですか。きちんと教えて頂かないと、ここを退く事は致しません」
二人には閻魔が直接説明した。そこには前回の世界で二人に出会った事、かなり手助けしてくれた事を告げた。また顔を見合わせてから咀嚼するように情報を整理した。
「あー、俺は難しい話が苦手なんだがよ、とりあえず悪い人じゃねえのな」
うーんと頬を掻く牛頭に坊主が肯いた。馬頭が少し考えたあと、身体を横にした。
「我らが考えても無駄でしょう。どうぞ中へお入りください。既に来るという事は告げているので、待っておられます」
補佐官に道を開けられ、軽く頭をさげたあと襖に手をかけた。そっと開く、そこには大王とヤミーが座って待っていた。
赤い瞳と赤黒い瞳が合う。大王は手で畳を指した。
「どうぞ、お座りください」
鋭く鬼よりも恐ろしい左眼で彼の右眼を見た。二人は指された通りの場所に腰をおろした。
ヤミーは一つさがったところでにこにことしているだけで、特に口を挟んでくる様子はない。坊主が咳払いをし話をし始めた。
「……稀有な事もあるものだ」
大王は特に大した反応も見せず、極々普通の感想を呟いた。
「とかく、そのクトゥルフという者共をどうにかすれば、貴殿は元の世界に戻れるという事だな」
同じ空間にそれぞれ違う世界の閻魔大王がいる。襖の影からなかの様子を見ている牛頭馬頭は、なんとも言えない奇妙な気持ちを抱えていた。
「ってえ事は、大王って呼んだら二人共振り返るって事か?」
「閻魔様、ならそうだろうな。僧侶の言い換えを聞くに、向こうの大王は閻魔様と呼ばれているらしい」
「あー、なんだかややこしくて頭がくらくらする……」
溜息を吐きながら腰をあげる。欠伸を漏らしてぐっと伸びをした。するとその背中に異国の挨拶が投げられる。振り向くと一人の若い男が手を振っていた。
「サタン様、また来られたのですか」
馬頭が問いかけるとその男は笑った。
「いやねえ、冥界って特に何もする事がないし、他の悪魔達は僕の事を避けるものだから暇でしょうがなくって。別に問題はないのだから、毎日来てもいいぐらいだろう?」
男、サタンはヨーロッパなどの貴族の恰好に身を包んでおり、後ろ髪は外に綺麗にはね、前髪は少々ばらばらに切られていた。ぱっと見はとても可愛らしい顔立ちなのだが、左には縦に三つの異形の眼が並んでおり、その周囲は腐ったように黒ずんでいた。また両耳はなく髪のあいだから見えるのは鳥のような穴だけだ。
サタンは白い手袋をぽんっと打ち付けてから懐を探った。
「そうだ、ここに来るついでだから、僕の国で香水を買ってきたんだ。是非ミス・ヤミーに使ってもらいたいんだけど……もしかしてお取込み中?」
小さな瓶に入った液体を少し揺らした。牛頭馬頭は顔を見合わせたあと答えた。
「客人が来ておりまして、少々重要なお話を……」
眼を伏せる彼にサタンは英語で残念がった。
「うーん、仕方ないからミス・イザナミでも探して暇を潰しておくよ。いい時間になったらまた来るからよろしく」
爽やかな笑みを残すと軽い足どりで去っていった。
「相変わらず自由だなあの悪魔」
「仕方がないだろう、特にやる事もないのだし。それより、」
襖の先を振り向いた。
「随分と長く話しておられるようだな」
「そりゃあ、同じ閻魔様だからじゃねえのか?」
牛頭馬頭が外で気にしているなか、四人の会話は本題からずれていた。
「ほお、一人で地獄を。それは大層立派な事だ」
大王が無表情で褒め、閻魔が眉毛一つも動かさず受け答えた。ヤミーと坊主はなんとも奇妙な会話と思いながら話を聞き、彼女が問いかけた。
「無礼を承知で訊くけれど、貴方の脚や胸元の黒いのは何かな。なんだかあまり良いものには見えないのだけれど」
それは大王も気になっていたのか答えを待った。彼はああと呟きつつも、一応前置きをした。
「我の世界での話だから、こちらの世界のイザナミノミコトとは別人だと思ってくれ」
勿論と肯いて答えを聞いた。彼の身体はイザナミとの戦いでつけられた呪いである、と理解した三人は各々の反応を見せた。
「なるほど、然し呪いとなると身体に害を及ぼすだろう。何か激痛に苛まれるとか、そういう事はないか」
大王はやけに親身になって問いかけた。長年一緒にいるヤミーは袖で少し口元を隠して笑うと、何事もなく手元の菓子を摘まみ上げた。
「ダーナ、別世界とは言え、同じ者に親近感のようなものを抱いているみたい」
隣にいる坊主に小声で話しかけた。彼女の言葉に大きな後ろ姿を見つめ、妙な違和感はそれなのかと納得した。
「特にこれと言って困る事はないな……寧ろ出せる腕が増えたから、仕事でも戦闘でも重宝してる」
「そうか。であるならば良いのだが、いやなに、もし苦しんでいるのならこちらで少しは浄化してやろうかと思ってな。世界が違う以上意味があるのかどうかは分からぬが、あまり自身の名で苦しんでいる様はみとおない」
ふっと苦笑いを浮かべた。閻魔は内心笑うのかと素直に思いながら礼を言った。それからまた少し話をして、一区切りがついた。
「まあ、貴殿の事も事情も全て理解した。後はこちらから他の裁判官に向けて文を出す。すれば何かあってもすぐに対処が出来るはずだ」
背筋を伸ばして言うと振り向いた。少しぽけっとしていた坊主と眼が合って、ふっと我に帰った瞬間を見てしまった。
「……お前はもう現世に帰りなさい。後の事はこちらで進めるし、彼がここにいる限り現世に被害は及ばぬだろう。然し、敵は予想通りに動かぬと言ったな」
閻魔に視線をやると肯いた。
「妖怪や悪魔よりタチの悪い奴らだ、我が現世にいないのをいい事に仕掛けてくる可能性だってある」
坊主は固唾を飲み込んだ。二人の王に視線をやりつつ続けた。
「ではもしそうなったら、遠慮なくこちらに助けを求めても構わないのですね」
「ああ。それも難しいのであれば、地蔵菩薩を呼びなさい。あれならすぐに応じてくれる。こちらとの連絡網にもなるし、そうなれば我々が直に現世へ行く事も出来る」
大王は人間に対して優しく言うと、ふっと声音をいつもの厳しいものへと変えた。
「さあ、もう帰りなさい。以前も言ったが、あまり生身の人間が長居していいところではない」
肩を叩き立ち上がった。坊主は素直に従い、部屋を出る前に「では、何かございましたら」と頭をさげた。
地獄の空には一人の女が浮いている。灰色の長い髪で服は着ておらず、全身に電気を纏った女。左眼を中心に顔半分が変色し、もはや瞼は他の皮膚と同化しており、同じように変色している皮膚があちらこちらにあった。また手は龍の爪のように鋭く、足は変形して踵ばかり高い下駄のように不思議な形になっていた。
「あ、見つけた」
ふわふわと寝転んだ姿勢で浮いている彼女を、サタンが遠くから見つけた。反対に当人は大きな欠伸を漏らしており、悪魔には気が付いていない様子だ。
「おーい、ミス・イザナミー」
手を振りながら駆け寄る。聞き覚えのある声に女、イザナミは生きている右眼を開けて下を見た。
「おや、サタンじゃないかい」
動くと身体に纏わりついた電気が一部ばちんと鳴った。何か用だろうかと思って、すっと地面に降り立った。元々の背丈は戦国時代の成人男性と同じ程だったが、足が変形してからは百七十前後の坊主とサタンに近くなった。
「わざわざ私を見つけてくるなんて、何か面白い事でもあったのかい?」
この世で死んだ神は転生しない。転生しないまま腐ってゆき、性格が狂ってゆく。そして徐々に身体が変形していって、最後は獣に近い姿になるとどこかへ消えてしまう。表に出ているのはイザナミだけだが、この地獄のどこかに獣になるのを待っている神が何人もいる。
「いやあ、本当はミス・ヤミーのところに行きたかったんだけどねえ、何やらお取込み中らしくて丁度いいから会いに来たのさ」
サタンは悪魔らしい調子で言いながら懐を探った。取り出したのは例の香水だ。イザナミはかなり若い頃に死んでしまったので、こういった綺麗な物にはヤミーよりも興味を示した。本来なら生きて娘達と共に手にとっていた事だろう。
「これは僕の国で買ってきた香水でね。良ければ嗅いでみるかい?」
蓋を外してイザナミに差し出した。白に近い灰色の瞳が少し輝く。手で仰いで匂いを堪能した。
「とてもいい匂いだね……異国にはこんな綺麗なもんがあるんだねえ。鼻が利くのも今だけだろうから、また持っておいでよ」
にこにこと眼を細めて香水を返した。サタンは思った事を口に出してしまう性格で、何も考えずに問いかけた。
「鼻、いずれ利かなくなるのかい?」
蓋を閉めて懐に戻した。イザナミは微苦笑を浮かべて答えた。
「殆どの感覚はなくなるんだよ。そうして神は成仏するんだ。とは言っても、本当に成仏するのか、それとも新しく別の神になるのか、全く存在自体が消えてしまうのかは誰も分からないけれどね」
沈黙を挟んでサタンは言った。
「存在は消えても人の心には残るものだろう。神にしても人間にしてもさ」
それに大きく笑った。
「あんた、妖怪だってのに随分と優しい事を言うね」
サタンはルシファーという名の天使でいた頃、神に敗北した。永遠に死ねない身体にされて何百と過ぎた頃、彼は悪に対して疲れた。その時噂で日本という国を聞き、こうして神々のもとに敢えて現れるようになった。
閻魔大王が何千何万と時間をかけながらゆっくりと衰弱していくよりも、サタンが全ての罪を認めて綺麗さっぱり消えてなくなる方が早いかも知れない。どちらにせよ、彼らは無限の存在ではないのだ。
イザナミは彼の肩を叩いて、少し歩こうと提案した。地獄には時々白い曼珠沙華が咲くという噂を話し、ついこの間この辺りで見かけたとも言った。
その場に膝をついて土を撫でる。地獄の土は常に乾燥していて湿る事は一切ない。雨も然程降らず、降ってもすぐに蒸発してしまう。それ程までにここは熱く、名も無き坊主のような特別な者でない限り妖怪でも倒れてしまう。
すっと腰をあげた。欠伸を一つ漏らして、サタンの丸くなった背中を一瞥した。刹那、ばりんっと雷が大きく鳴った。
「イザナミ?」
サタンが振り向く。すると彼女の腕に噛み付くようにして、黒い何かが襲いかかっていた。はっと息を吸いこんだが、イザナミは雷神の力を使役できる。いかずちに近い電流を腕に集め、一気に放出した。
びりりっと微量な静電気が周囲に散る。黒い何かはばっと離れて距離を取った。イザナミは息を一つ吐いて短く言った。
「大王のところに」
然しすぐに動きださない彼に、獣のように眼を見開いて怒鳴った。
「早く!」
サタンは脚がもつれそうになりながら、息を弾ませて地獄を走った。そして土足のまま裁判所に踏み込む。他の獄卒も裁判官も補佐官も彼の事はよく知っている、最初の裁判官のところに出ると視線が集まった。
「サタン様、いったい、」
亡者の怪訝な視線を見て更に奥へと走りだした。補佐官の一人があっと廊下に出るが、思ったよりも速度は速く、それに切羽詰まった様子に止めても無駄だと察した。一体何事だと彼らは思いながらも仕事を再開した。
ブーツの底が硬い板を踏み鳴らす。とうとう大王のところまでやって来た。だっと片足を大きく出して止まった。
勿論視線が集まる。何度も肩を上下にさせるサタンに、大王は筆を置いて問いかけた。
「いかがなされました」
抑揚のない声に悪魔は言葉を絞りだそうとした。然しやけに落ち着かない様子を見て、大王は馬頭に一言言うと立ち上がった。亡者の傍を過ぎてサタンの前で止まる。肩に大きな手を置いた。
「深呼吸をなさるのがよろしい」
低く落ち着いた声音は彼の心を平常心に連れていった。呼吸を整えつつ答えた。
「イザナミのところに、変な黒い奴が現れた。彼女を襲った」
一瞬英語で答えるところだったが、なんとか日本語に切り替えて伝えた。大王は眉毛一つ動かさなかったが、補佐官の二人は眼を丸くした。
「妖怪の類でも、悪霊の類でもなかったのですね」
サタンが日本に来てからもう随分経つ。殆どの妖怪や悪霊は把握しており、彼でも見分けはついた。息を飲んで肯く様子にばっと振り向いた。
「裁判は一度取り止め。他裁判官に伝えよ」
早口で言うと立ち去ろうとした。馬頭が身を乗り出して問いかける。
「どこへ」
立ち止まり答えた。右眼の眼帯だけが見える。
「閻魔大王のもとへ。妖怪でも悪霊でもないのなら、それしか考えられぬ」
ふっと左の眼が一瞬見えたと思えば、どかどかと早足で去っていった。残されたサタンは眉を顰め、状況が分からないと言いたげに両手を広げた。
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