第3話

 三途の川に来た亡者が一人。顔立ちからして武士の類だ、白装束のままざっと砂利を踏みしめた。男の眼前には幅の広い川と、元々は赤かったのだろう黒い橋があった。

「そこの方」

 老婆の声に視線をやった。そこには腰を曲げた、優しそうな老婆がいた。男は訊いた。

「ここは、あの世か」

 男の質問に、老婆は一つおいて肯いた。そして手を伸ばした。

「川を渡る前に、こちらの白装束に着替えていただきます」

 よく見ると腕には白い布がかけられていた。男は自身で襟元をさげながら、意外と流れの速い川を見つめた。

「こちらは、お預かりいたします」

 老婆、いや奪衣婆は丁寧に畳んで両手に持った。

「少々、お待ちを」

 子供と変わらぬ身長で更に頭をさげ、川の傍にある小屋へと行った。そこで奪衣婆は亡者の着ていた白装束を囲炉裏に焼いた。ぱちぱちと炎が昇る、ややあって色が変わった。真っ白な炎に変わったのだ。

「さあ、橋の上を渡って、向こうに見える裁判所へお入りくださいな」

 奪衣婆は優しい笑みを浮かべて促した。男は未だにぼんやりとした顔をしながら肯いて、砂利のうえを歩きだした。

 木で出来た橋の上を渡る。少し軋んだ。そうして三途の川を横切ると、老婆と似たような老人がいた。

それは懸衣翁で川自体を渡って来た者を引っ張り上げて、着ている白装束を剝ぎ取っていた。それから近くにある木の枝に引っかける。大きく枝がしなったのを見ると、剥ぎ取った亡者に濡れたままの白装束を返して裁判所の方へとおったてた。

 男は固唾を飲み込んで、そっと足を進めた。然し懸衣翁は気付く。優しい翁の顔立ちだが、眼は鬼のように鋭く、瞳孔が蛇のように細くなっていた。はっと驚いたがそれは一瞬で、瞬きすると普通の眼に戻っていた。

「おう、おめえさんは橋を渡って来た人か。ならこのまま裁判所の方に行ってけれ。恐らくとんとん拍子で、閻魔様のところに行けるだろう」

 奪衣婆とは正反対に軽い調子で言うと、「極楽浄土に行けるのを願ってるよ」と残してまた川から引っ張り上げていた。男は面食らった様子だったがなぜか心が軽くなり、黒々とした大きな屋敷へと向かった。

 彼ら三途の川の番人は鬼である。地獄で産まれた巨大な鬼で、屋敷の一つや二つなど簡単に踏みつぶしてしまえる程だ。ここが黄泉の国であった頃から存在し続け、閻魔大王が来て地獄を作るまでを実際に知っている獄卒は彼らだけだ。

「あんまりあの世でおいたをすると、地獄に傾くゾ」

 奪衣婆は粗暴な男の腕を掴んでいた。その手は元の鬼の手で、鋭く強靭な爪と隆々とした筋肉が不釣り合いだった。双眸は人の眼ではなく、鬼の鋭い眼。男は怯えて尻もちをついた。

 先程の亡者が裁判所のなかを歩いていた。眼前には角の生えた人がおり、きちんとついて来ているかを時々振り返った。

 裁判所は殆ど黒い木で作られており、無駄な装飾は一切なかった。最初の王は普通の着物と袴で長い髪を一つに纏めていた。また少し高いところに正座しており、頭上から見上げてくる事はなかった。というより王と亡者の距離はかなりあり、亡者のすぐ後ろには補佐官の一人が控えていた。

 光は蝋燭と鬼火ぐらいでそれ以外はなく、また王の声は単調で抑揚は最小限に抑えられていた。男は自然と落ち着き、なんだか絡繰りを相手にしているような気持ちになった。

 というのもそれが狙いであり、世の中には死んでも尚足掻く連中がいる。それらを相手にしない為裁判所は暗く、質素で、裁判官との距離があり、高低差は然程なく、補佐官の一人が控え、そして声は機械的で基本決まった事しか言わない。勿論それは最高裁判官のもとでも同じだ。

 一貫して案内してくれた獄卒がすっと離れた。拓けた場所に出たのだ。男は周囲を見渡すまでもなく、一人の大男と出会った。

「武田信綱、二十六歳、男。合っているな」

 それは上裸の男で、背丈はざっと七尺ほど。センチにすると二百は超えている。ざんばら髪で眼つきは鋭く、また独特な化粧と共に身体には紋様が走っていた。亡者は怯えつつも肯いた。

「じゃあ、最後の裁判だ。地獄行きか天国行きか決まる。大人しくしておけよ」

 淡々と言うと踵を返した。筋骨隆々とした大きな背中にそっと足を踏み出した。視線を右手にやると、大男と似たような姿恰好の者と、それに負けず劣らずの裁判官がいた。

 似たような男は長髪を高いところで結んでおり、少し優しい眼つきではあったが冷たい無表情を貫いていた。彼らは補佐官の牛頭馬頭だ。顔立ちや性格が違う事以外、全て同じである。

 そして座についているのが最高裁判官、閻魔大王。適当に切った髪を適当に後ろへと流しており、右眼は然程加工されていない革の眼帯で隠されていた。赤黒い瞳は鬼よりも鋭いが、顎には無精ひげがほんのりとあり、また口の周りに幾つかの火傷痕があった。服装は黒い着流し一つで絵に描いたような恰好はしていなかった。

「とても好青年で、戦では足軽らの士気をあげていたそうでございます」

 閻魔大王の傍で冊子を捲るのは馬頭。亡者の後ろで片膝をついているのは牛頭だ。馬頭の言葉に大王は疲れた様子で息をついた。ふっと眼が合う。

「何か、罪を犯した事はないか」

 低く、腹の底に響くような声。亡者は少し考え、恐る恐る口にした。

「幼き頃、母の大事な皿を割ってしまい慌てて軒下に隠して、嘘を言ってしまった事がございます。嫁入り道具の一つでございまして、私は父に怒鳴られ、母を泣かせてしまいました……」

 正座のうえでぎゅっと拳を握り締める様子に、大王は腰をあげた。

「一応、浄玻璃鏡でお主の一生を見ておこう」

 立ち上がるとその背丈がよく分かった。七尺ほどはないが、それでもそれに近い背丈をしている。おいと裏にいる獄卒に呼びかける声はよく通り、びりびりと空気を揺らした。

 ややあって鏡の前から立ち退き、座布団のうえに戻ると背筋を伸ばした。すっと亡者を見据える。ごくりと固唾を飲み込んだ。

「判決を言い渡す」

「武田信綱を天国行きに処す」

 亡者は別の獄卒に連れられ、直に裁判所を出る。ひと段落ついた閻魔大王はぐっと身体を伸ばして溜息を吐いた。

「一度お身体を休めた方がよろしいかと」

 馬頭が提案すると「そうだな」と呟き、遠くにいる牛頭に対して声をかけた。

「一旦休むぞ」

 その言葉に慌てて頭をさげた。


 亡者は三途の川の手前に現れるが、それ以外は大きな門の前に現れる。ざっと小石を蹴って立ち止まった。そこには錆びついた金属の扉と共に、巨大な鬼の首が二つ鎮座していた。片方は阿でもう片方は吽。牛頭馬頭よりも先に地獄に産まれた、阿吽の鬼首だ。

「お前は、いつもの坊主か」

 ぎょろりと阿の双眸が彼に向いた。眼玉一つで大きめの岩と同じ、大抵の者は鬼と出会った時点で怖気づく。

「ええ、少し用がございまして」

 ふっと笑って答えた。然し彼の後ろに見慣れない者がいるのを、吽が問いかけた。

「そこの者は?」

 閻魔大王は片手で適当に髪を弄っていた。一応現世では左眼を隠すため、前髪を綺麗におろしていた。いつもの髪型になると一つ息を吐いた。

「ああ、話せば長くなるのですが、まあ嘘を言ってもあなた方には見抜かれるでしょう」

 坊主は彼を一瞥して事の次第を告げた。薄暗い洞穴のなかに静かに反響する。阿吽は一通り聞き終えると視線を閻魔大王にやった。

「その話を信じるなら、そこのお人は大王って事なのか」

「変な事にならなければいいが、まあ後はこちらの大王が判断する事だ。通ってよい」

 鬼が言うと重厚な扉が開きだした。地響きを起て、ぱらぱらと塵を落とす。先の方に三途の川と橋が見えた。

「行きましょう」

 坊主が言って歩きだす。然し閻魔が過る時、阿が囁いた。

「幾ら閻魔大王とは言え、こちらの大王に無礼を働けば容赦はしない」

 腹の底に溜まるような声。ふっと赤い瞳で一瞥し地獄へと踏み入れた。

 勿論最初に出会うのは奪衣婆だ。木の麓で休んでいる彼女に坊主が声をかけた。

「おや、坊様じゃないか。あんまり地獄に来るもんじゃないよ」

 腰の曲がった老人の身体に扮しているが、中身はただの鬼だ。すっと立ち上がるとにこにこと微笑みながら近寄った。然し後ろの男に気付く、見上げると一瞬無表情になった。すぐに笑みを浮かべて坊主に訊いた。

「ああこの方は、」

 どうせ嘘や適当を言ったところで、地獄の住人には全て悟られる。裁判官でなくとも亡者の嘘やすっとぼけた顔を見極める必要があるからだ、素直に全てを話すと奪衣婆は少し考えたあと、閻魔を見た。

「望んだ事ではないでしょうが、よくぞお越しくださいました」

 深く頭をさげる様子に彼は掌を見せた。

「良い。寧ろ我のせいで迷惑をかける事になるかも知れん」

 クトゥルフによる脅威が既に迫りつつある事を告げると、奪衣婆は眼を丸くしたあとせかした。

「それならば早く大王にお会いになった方がよろしい。ここの当主は彼でございますから、我々は事情を知らずとも従えるのです。儂のような末端に話をせず、声をかけられても真っ先に大王のもとへ向かわれるのが良い」

 神妙な表情に閻魔は坊主を見た。赤い瞳に肯き、奪衣婆に訊く。

「大王は裁判所におられるのですね」

「いや、今は休憩中だからヤミー様のお部屋におられるだろう。場所を知っているのだから、早くお連れして」

 老人らしいせわしなさで坊主の背中を押す。その様子に駆られ、閻魔を一瞥すると早足に歩きだした。

 橋を渡り向こう側に行く。勿論懸衣翁は声をかける、然し一切立ち止まらず過ぎ去ってゆく二人にあっと空中を掴んだ。

「なんだあ?」

 片眉をあげて訝しげに背中を見送った。

「こちらです。周りの者はお気になさらず」

 短く言い裁判所のなかを突き進んだ。見慣れた人間のあとから、見慣れない、あからさまに人間ではない男がついてゆく。周りの獄卒は眉根を寄せ、目撃情報が飛ぶように伝わっていった。それは牛頭馬頭の耳に入り、二人してヤミーの部屋に向かった。

「失礼」

 そこにはくつろいでいる大王と、双子の妹であり嫁であるヤミーがいた。ヤミーは兄と背丈が変わらず、然し見た目の年齢は幾つか若く見えた。眼のうえで切り揃えられた前髪に尻の辺りまで伸びる黒髪。眼元には兄と同じく薄い紅がさしており、それと対峙するように真紅の口紅を塗っていた。

 口元のほくろに随分と緩く着た着物が色香を振りまく。ヤミーは菓子を一つ頬張って眉をあげた。

「何事」

 独特な口調で訊くと、牛頭馬頭は片膝をついて項垂れたまま答えた。

「例の僧侶が来ているのですが、何やら妙な男を連れているとの話が。方向からしてこちらを目指しているようで、獄卒の一人が声をかけたものの無視をされたと……」

 少し横になっていた大王が身体を起こした。

「あの僧侶の事だからおかしな奴ではないのだろう。然し警戒しておいて損はない。お前らは外で待って、入る前に問い質せ」

 牛頭馬頭ははっと短く返事をして部屋から出た。静寂が一つ流れる。

「なんだかまた、事が起こりそうだね」

 少年期から変わらぬ飄々とした面で眼を細めた。反対にいつまでもむすっとした面の大王は煙管を置き、その場に胡坐をかいた。

「地獄で事が治まるのならそれで良い。面倒なのは天国や天界だ」

 ふうと一つ息を吐いて二人が出ていった先を見つめた。

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