第2話

 山中にある寺についた。小鳥のさえずりがよく聞こえる。地を踏みしめると小枝がぱきりと折れた。

「おい、おり! おるか!」

 声を張り上げて名を呼んだ。するととたとたと足音が聞こえてくる。廊下を伝って姿を現したのは、七つか八つの素朴な娘。坊主が世話をしている孤児の娘だ。

 広くそれなりに立派な寺のなかで、二人は対面で腰をおろした。くのいちは姿を見せず、いずれ勝手に立ち去るだろうと思った。

「このような事を訊くのは大変無礼極まりない事だとは思うのですが、」

 彼は改まった口調で堅苦しく前置きをした。すんっと澄み切った空気が辺りを包み込む。

「あなた様はまことに、閻魔大王なのでございますか」

 低く、淡々とした声。男はふっと息を吐いて肩をさげた。

「間違いなく、そうだ」

 堂々と言い張る男に坊主は一度視線を外し、更に問いかけた。

「では先程の、世界云々というのはなんでございましょう」

 これにはすぐに答えられない様子で、少し考えてから顔をあげた。

「お前さんは、“クトゥルフ神話”というのを知っているか」

 聞きなれない言葉に眉根を寄せる。

「く、くとるふ、というのは」

 知らないと答えているのと同じだ。男は詳細に語った。それを聞いて坊主は考え込み、ややあって質問した。

「然しこの世にはそのような神などおりません。それに宇宙とは、一体……」

 全く話についていけない。他国の神がいるのは知っているし、現にヤミーが地獄にいて彼と話した事があるのだから、クトゥルフというのも他国のものであれば否定は出来ない。然し戦国時代の最中に宇宙などというものを理解している日本人は、まず存在しない。

 男はこの世が安土桃山時代だと察したのか、言葉を濁してとりあえず飲み込んでもらう事にした。坊主はこのままでは話が進まないと思い、そのような存在がいる事、ある事を念頭においた。

「我は一度、そいつらに会っている」

 すんっと一段声の音が落ちたように思う。

「奴らは玩具を使って戦わせるようにして、戦闘力に長けた神や妖怪を様々な世界から呼び出した。そうして一つの世界に放り出し、上から観察していた」

 ぎゅっと拳を握り締めた。坊主は黙って話を聞いた。

「我の世界では恋人だった者が、その世界では裏切り者と化していた。最終的に大きな二つの勢力に別れて戦う事になり、我は最後の一人になった」

 二人がいる部屋の前に娘が立ち止まった。両手には盆が乗せられており、湯吞みのなかで茶が揺蕩っていた。

「奴らはかなり手強く、何より多勢に無勢だった。あまり劣勢に立たされる事はないのだが、その時は一瞬無理だと悟ってしまった」

 そこで坊主が一つ口を挟んだ。

「然しあなた様はここにいらっしゃる」

 男は肯いた。

「勝ちはした。だがそれは、我を探していた身内の者らが見つけてくれたからだ。それで奴らの大半は殺したはずだ……奴らに死という概念があるのかどうかは、分からないが」

 肩の力を抜く。坊主は腕を組んだ。

「先程の、この世界という発言から推察するに、今回もまたその……」

「クトゥルフ」

「そう、その神々によってあなた様だけ連れ去られ、違う世界とやらに放り出された、という事でございますか? であれば納得がいくのです。既にこの世には閻魔様がおられ、わたしは直にお話した事がございます」

 男は少し不思議そうにした。

「そう、なのか……以前は各々の世界から神を連れてきていた。だから同じ神はいなかったのだ。今回も奴らの事だからそうだと思っていたが……」

 これに坊主が仮設を立てた。

「恐らくですが、クトゥルフの力が弱まったのではありませんか? 大半は退治出来た、というのであれば可能性はあるでしょう。あなた様一人を別の世界に飛ばす、きゃつらにはそれだけの力しかなかった」

 閻魔は一つ納得したようで、どこかすっきりした表情を見せた。あまり顔に出ないたちなのだろうが、よくよく観察すると細かいところが判った。

「失礼致します」

 独特な訛りで少女の声が聞こえた。襖がすっと開けられて、盆を持った娘が入ってくる。閻魔の斜め前に膝をおると湯吞みを差し出した。

「粗茶で、ごぜえますが……どうぞ」

 緊張した声で一瞥した。その様子に薄く口角を引き、礼を言ってから茶を一口飲んだ。ずずっと微かな音のあと、落ち着いた声音で娘を見た。

「うまい」

 娘はほっと息を漏らした。坊主が「下がっておりなさい」と短く言い、頭をさげて襖を閉じた。

「あれは、わたしが妖怪退治をしに行った村で見つけた者でございまして、わたしの到着が遅かったばっかりに、唯一の両親を亡くしてしまったのです。それで泣き叫びながら脚を叩いてきた事、両親の遺骨や遺髪どころか布切れさえ見つからなかった事、何か罪滅ぼしをやらねばならぬと思いまして、彼女を育てる事にしたのです」

 襖の先を彼は見る。ふっと優しい眼差しになったのが判った。閻魔は茶を更に飲んで笑った。

「我も何人か拾って育てた事がある。なかなか、難しいだろう」

 坊主ははっと我に返ったかのように背筋が伸びて、恥ずかしそうに笑った。

「いや、失礼いたしました。わたしの身の上話など」

 それから咳払いを一つして、本題に戻った。

「それで、仮に先程の説が当たっているのだとしたら、どう致しましょう。恐らく我々、こちら側の人々や神々にも害を及ぼす事でしょう。わたしとしてはそうなる前に、一つ手を打っておきたいのですが」

 相変わらず対応の早い彼に閻魔は湯吞みを置いた。

「以前は目覚めてすぐに奴らが顔を出した。だが今回は出てくる様子がない。だから何も分からないのだ」

 外からごろごろと雷の音が聞こえてきた。坊主は顔をあげ、ややあって立ち上がった。

「御免」

 短く頭をさげて障子を引いた。顔を出して空を見上げる。

「これは、嵐になるな」

 眉根を寄せて呟き、閻魔を振り向いた。

「夕刻まで荒れるでしょう。今日は一晩ここへ泊っていかれると良い。どのみち先の事を考えねばなりませぬし、これでは“地獄にも行けませんから”」

 ふっと笑って今度は襖の方に行き、娘を大声で呼んだ。閻魔はその後ろ姿を見たあと、ごろごろと予兆を振りまく外を見つめた。

 ごうごうと風が吹き荒れ、ざあざあと雨が打ち付け、ごろごろと雷が太鼓を鳴らす。くのいちと娘が支度をしているあいだ、坊主は仏像の前で両手を合わせていた。ややあって顔をあげる。

「随分と酷いな」

 あまりこの辺りは嵐に見舞われる事がない。地形の関係でそうなっており、だからこそ坊主はこの寺を選んだのだ。頻繫に嵐が来ては、娘が怖がってしまう。

 怪訝な表情で腰をあげる。すると襖がだんっと開いた。驚いて視線をやると、そこには閻魔がいた。彼の知っている神ではなく、別世界の神だ。

「いかがなさ」

「いいから来い」

 短く低い声に慌てて足を踏み出した。どたどたと二つの足音が響いて、丁度出てきたくのいちと鉢合わせた。彼女はあっと驚いて眼を丸くする、すれ違いざまに坊主が言った。

「おりの傍にいろ」

 くのいちは驚きながらも、咄嗟の命令に従った。

「閻魔様! 一体どこへ!」

 外の廊下はいけないから、なかを通ってゆく。ずかずかと歩を進める彼に坊主は大きく問いかけた。

「嫌な気配がする」

 そう答えて立ち止まると、勢いよく障子を開け放った。そこは外に繋がっており、眼前には中程度の池と共に幾つかの墓石があった。然し坊主は“別のものを見て、はっと息を吸いこんだ。”

「坊主、あれはお前が知っている妖怪か」

 開け放った障子の先から、暴風に乗った雨粒が襲ってくる。頬に数滴ぶつかった。

「いえ、全く、検討もつきません」

 瞬間、閻魔は嵐のなかに飛び出した。長い前髪を後ろへとやり、勢いをそのままに拳を振るった。墓石の下から出てきた異形にめり込む。

 雨のせいで土埃はあがらなかったが、割れた地面の破片が飛び散った。彼の行動に坊主ははっとして視線をあげた。閻魔がばっと振り向いた。

 着物を押しのけながら六本の腕が覗く。坊主の頭上近くに、餓鬼のような姿をした異形が迫っていた。それを見定め動き出そうとしていた。

 然し、名も無き坊主はただの僧侶ではない。

「滅」

 すっと眼の色が変わると、数珠を絡めながら右手を出した。異形の一部が指先に触れる、と同時に内側から爆発したかのように散った。

 一面が光り、のちに雷の咆哮が轟く。話を聞いた通り、黒い腕を出している閻魔を一瞥した。然しもう正体は解っている、坊主はだっと地面に降り立つと墓石のもとに駆け寄った。

 冬の雨は冷たい。そして痛い。だが二人は全く気にする事もなく、穴のあいたそれを見下げた。

「餓鬼に似ておりましたが、あのような妖怪は見た事がない。下腹の出た小柄な人型となれば幅はかなり狭まり、また墓石の下から出てくるなど以ての外……」

 片膝をつき、手を伸ばした。墓石は四つ、文字は書かれておらず質素な佇まいをしていた。

 坊主はぐっと歯を食いしばり拳を握り締めた。墓を荒された事に憤りを感じているのだ。閻魔は腕を戻し、濡れた髪を撫でつけた。

「クトゥルフと同じ気配、でございますか」

 一先ず寺のなかに戻り、身体を拭いて着物を新しくした。閻魔は身長の差が少しあったが、坊主の持っている大きめの着物を渡した。地味な色合いの袖に腕を通し考え込んだ。

「だが妖怪に似た姿なのはおかしいな。仮に力が弱まってるとしたら、ああしてわざわざ姿を寄せる事は出来ないはずだ」

 それに坊主も深く眉根を寄せた。

「わたしには、普通の妖怪の気配に思えました。クトゥルフの神々に会った事がないから、と言われればそれまででございますが、だとしてもとても馴染みのあるものでございました」

 二人は口を閉ざし、暫く重たい沈黙が流れた。然しくのいちと娘がやってきて、恐る恐る声をかけた。

「あの、お身体が冷えてしまいます。汁物を囲炉裏で作っておりますので、どうぞそちらに」

 彼女らは神仏と出会った事がない。詳しくは語られていないが、明らかに雰囲気の違う閻魔に萎縮しているのだろう。言葉通り、囲炉裏の傍で一旦落ち着く事にした。

 ぱちぱちと火花が散って踊る。椀を片手に一息吐いた。

「こちらにあのような連中が来るとなると、あまりいい気は致しません。いつ他の者に危害を加えるか……」

 ずずっと汁を啜る。くのいちは娘の椀に掬い取ったのを入れ、そっと渡した。娘は両手で包むように持って、恐る恐る口をつけた。熱いのはあまり得意ではないのだ。

「今我ら、いや我を狙っているのだとしたらそれはあり得ないだろうが、奴らはとにかく無慈悲で人の事など虫けらのように思っている。早いうちに解決した方が良いだろう」

 閻魔は一度椀を置いて言った。髪は渇いて、異形の左眼を隠している。然し綺麗な赤い瞳は娘の興味を引いた。

「ふむ……もし仮に狙っているのなら、雨があがり次第地獄へ行きましょう。少なくとも人々に危険はない。それにところが変われば、きゃつらの力も及ばないかも知れませぬ。恐らくこちらの閻魔大王と対面する事になりましょうが……きっとあのお方なら、あなた様の事情をすぐに汲み取ってくれるでしょう」

 坊主の言葉に肯いた。別世界の同じ神に出会うのは初めてだ、上手く行く事を祈った。

「おり、というのか」

 日は暮れたが嵐は収まりを見せていた。その為名も無き坊主は地獄へ行くための準備を始め、閻魔は彼の一人娘と対峙していた。娘は緊張しながらも肯いた。

「ただ、本当の名前は、違うのでごぜえます」

 出身地もどうやって育ったかもわからない。方言はあやふやで独特で、どこの子ともわからない。わかるとしたら、両親は娘を連れて旅でもしていたのだろうという事だけだ。

「そうか。然し父に呼ばれている名の方が良いだろう」

 ふっと微笑んだ。娘は思ったよりも優しいお方なのではと考え、はいと答えた。

「普段は、何をしているのだ」

「寺の掃除や、とっさまの書いた妖怪の資料を、色々と分けたりだとか……なんや、細々とやっております」

「然し父は殆ど外にいるのだろう、寂しくはないのか」

「それは……とっさまがおらんとなると、さぶしく思いますが……でも、忍びの姉さまがよく来てくれるし、たまにとても高貴そうなお方が来てくれるんです」

「高貴? 父と同じ、力のある僧侶か?」

「ううん、僧侶の姿はしとりますけど……なんだか、仏さまのようなお方なんでごぜえます」

 二人が話していると襖がすっと開いた。坊主が顔を出して声をかけようとしたが、その光景にふっと笑った。

「おり、そのお方と地獄の方へ行ってくるから」

 娘はあっと振り向いて、どこか恥ずかしそうに肯いた。

「お気を付けて……」

 小さな子が手を揃えて頭をさげた。

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