第6話 粉ミルク
※
「……どういう、こと?」
背中の赤ん坊を見たブロンド女の瞳が、怪訝に揺れていた。
「こいつ、腹を空かせているんだ」
おれは答えた。
「いや……どういう風の吹き回しであんたが、赤ちゃんを助けようと……」
「ごちゃごちゃ言うな、なんでもいいだろう。こいつを助けるのに協力するなら殺しはしない。ただし今すぐ決断しろ、事は一刻を争うからな」
おれは人間の赤ん坊が何を食えるかなんて知らない。そう考えると、こいつがここにいたのは、ある意味幸運だった。
無論、食用人の脱走を見逃すなど本来は重罪だ。ただ、殺すのが少し後になるぐらいなら問題ないだろう。
利用し終わったら腹に収めて始末すればいい。証拠は何も出ない。
「……協力するわ」
両手で何も身につけてない身体を隠しながら、女はおずおずと一歩前に出た。
「待て。こっちには近づくな。その後ろの棚から食い物を探せ」
「……その子の容態をまず見させてよ。もしお腹がすいてるってだけじゃなく、脱水症状を起こしてるなら、まず水分を取らせないと」
「脱水?」
「あんたら機械の化け物にはわからないかもだけどね、人間は身体の7割水なのよ。水分取り続けなきゃ死ぬの。だから確かめさせて」
「……いいだろう。ただし」
そろそろと近づいてくる女に、おれは前脚の先端を突き付けた。
「ちょ、ちょっと!」
女の顔が引きつる。
「こいつに指一本でも触れたら殺す」
「……話が違うじゃない」
「お前の腹から内臓を引きずり出して、それで首を締め上げてやる。お前は自分の腸で
「わかっ、わかったわよ……」
女の顔がすっかり青ざめたのを確認し、おれは前脚を下ろした。
赤ん坊を背中から下ろし、毛布を解く。
赤ん坊は、さっきよりもさらに具合が悪そうだった。
冷や汗を浮かべて、荒く息をしている。
「うっ……嘘でしょ……」
「なんだ?」
「こんなの……酷い」
赤ん坊の痩せた身体を見た途端、女は動揺した声音を発した。駆け寄ろうとするのを引き離すと、信じられないというような目で睨んでくる。
「なんだ」
「……クソ野郎ね」
そして急いで倉庫の奥に走っていった。
なんなんだあいつ。
さっきまで怯え以外の感情なんてほとんど見せなかったくせに。助かるとわかって、気が大きくなったのか?
「あったわ!」
しばらく棚を引っ掻き回していたと思ったら、女は走って戻ってきた。手に白い粉が詰められた袋を持っている。
「なんだそれは」
「粉ミルクよ。溶かして飲ませましょ、お湯は?」
「ない」
「なら水を温められる所は?」
「……人間をまとめて煮る時に使う釜とかなら」
「じゃ、はやく赤ちゃんを置いて。そこからお湯持ってきて!」
「あ?」
何言ってやがる? この女。
「誰に指図してる。自分の状況がわかってるのか? お前が取りに行け」
「あんたの方が遥かに足速いじゃない。今すぐ持ってこないと、この子死んじゃうわよ」
「おれがいなくなったら逃げる気だろうが。それか、赤ん坊を人質に取るかだ」
そうに決まってる。
「その発想がクソ野郎なのよ。どこの世界に死にかけの赤ちゃんを見棄てる女がいるの」
「……なに?」
毅然と言い返してくる。さっきまで怯えていた顔など見る影もない。
先程の忠告も無視して、赤ん坊を抱きかかえ、毛布を取り替えている。
「いい加減にしろ、おい」
おれは前脚を振り上げた。だが女はこっちを見向きもしない。
「…………」
今ここでこいつを殺した場合、おれは赤ん坊を助けられるだろうか。おそらく難しいだろう。
ここは言う通りにした方が……いや、こいつはどう考えても信用できない。
こいつが本心を言っているという保証がどこにある?
「……」
だが、おれに選択肢は無かった。
「……1分だ。1分でもどる。逃げても無駄だからな」
「早く取ってきて」
女に抱かれた赤ん坊を一瞥したおれは、扉を開けると倉庫を出た。
クソッタレめ。
このおれが、人間の指図を受けるなんて……耐え難い屈辱だ。
連続でジャンプし、建物の天井や壁を経由して、50秒とかからず目的地に到着した。“食堂”の隣にある、“調理場”と呼ばれるエリアだ。
「ああ、クソ、クソが」
さすがに息が上がる。熱を帯びたモーターを感じながら、おれは釜を探した。
あった。あれだ。様々な調理器具が立ち並ぶ空間の一番奥に鎮座する、黒々とした大釜だ。
制御パネルを操作し、中にどばどはと水を注いだ。点火すると、ごうごうと釜が熱されていく。
それを見ていると、なにをしてんだおれは。と我に返った。
おれは人間を茹でる釜で、人間の赤ん坊のために湯を沸かしている。
「クソ……」
大釜で煮えた1キロリットル近い熱湯から使う数リットル分だけをタンクに移し、おれは来た道を引き返した。
※
30秒前に出ていった兵隊蟻は、とうぜんまだ戻ってこない。
毛布にくるまった赤ちゃんは、弱々しく、でもまだ息をしていた。
可哀想に、こんな状態になるまで放っておかれるなんて。
アリ野郎に人間の倫理観を期待するなんてことがそもそも間違いなのかもしれないが、それでも言葉にならない怒りが湧いてくる。
別にこの子の母親でもないのに。自分にこんな人間的な部分が残っていたのだと、少し驚いた。
ただ。
逃げるなら今しかない。というのも事実だ。
赤ちゃんを置いて、ここを離れる。
あいつだって、たまたま出会った私を利用しているだけで、そこまで執着する理由もあるまい。
この子を見捨てることにはなるけど……きっと、あいつがなんとか助けるだろう。あいつの言った通り、栄養になるものは探した。棚には粉ミルクと離乳食がまだ数十袋はある。
「……ぅ……ぁう」
赤ちゃんを地面に置くと、弱々しい吐息が聞こえた。
「ごめんね……」
何言ってるんだ。そんなハズない。
あいつはこの子を食うに決まってる。あいつらが人間を助けるなんて、そんなことあるはずない。
「はぁ~……」
盛大なため息が漏れた。
とはいえ、連れて逃げてもどのみち死ぬ可能性は高い。
そもそもここは奴らの巣窟、半日もあれば誰かに見つかる。
普通に考えれば、逃げ切ることなんてできない。
「……」
振り返って、弱々しく鳴く赤ちゃんを見る。
助けたい。でも、自分じゃどうしようもない状況過ぎる。
「どうすりゃいいのよ……」
私は扉にもたれかかって、そのままずるずると座り込んだ。
コン、という金属音が鼓膜を叩いた。
「──中にいるのはわかっている。すぐに出てこい」
思わず悲鳴をあげそうになって、なんとかこらえた。
誰?
この電子音的な無機質な感じは、兵隊蟻の声に違いない。
でも、さっきのあいつとはまた違うような……。
「3秒待つ。それを過ぎれば、強硬手段を取る」
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