第5話 母乳
※
「レジーナ、君の瞳はほんとうに綺麗だ。君を愛してる」
「私もよ、愛してるっ。だから一緒に逃げて!」
「ぼくには兵士としての使命がある。奴らをくい止めなきゃ」
「そんなのどうでもいいわ! 私を愛してるなら一緒に来て、生きて!」
「なにやってる、さっさと行くぞ!」
彼の上官が外から呼びかけて来る。
いやよ、と言いかけたわたしの唇を、彼の唇が覆った。そのまま抱き締められる。
彼の広い胸に顔を埋めると、嗅ぎなれた匂いがする。
彼のお気に入りの、なんとかっていう香水。いつも小瓶を胸ポケットに入れていた。
「行かなきゃ」
彼が離れ、匂いが消える。私はもう何も言えなかった。
黙って頷くと、彼は銃を肩に担ぎ直し、小走りで部隊の列に戻って行った。
地面がぼこりとめくれあがったのは、その時だった。
彼と私の、ちょうど間の空間だった。太い槍のようなものが、コンクリート舗装された道路を突き破って現れる。
「くそ、奴らだ!!」
「撃て!」
銃声が聞こえてくる。破片が吹き飛び、粉塵が舞った。
煙の中から、巨大な黒蟻が姿を現した。鈍く鉄色に光る身体をうごめかせ、道路の穴から次々と這い出てくる。
「レジーナ!!!」
怒号と銃声の合間に、彼の声が聞こえた。
「カルメン──」
大声を出そうとして、砂煙を吸って咳き込んだ。何も見えない。
「どこ!??」
「早く逃げろ!!」
声のする方向に、無我夢中で走った。
「カルメン!!」
「来るな!!」
上から何かが振り下ろされて、ぐちゃり、という音がした。
足元を見ると、彼がいた。
地に伏せたその身体を、奴らの脚が貫いていた。
下半身を無くした彼の胸ポケットから、香水瓶がすべり落ちた。
見上げると、蟻の顔があった。
くもりガラスのような一対の複眼が、私を見つめている。
「あ……」
気がつけば、私は列に並ばされていた。そして奴らの巣に連れていかれ、服を剥かれ、檻に詰め込まれた。
そこでは、私と同じような人間が、何百人とぎちぎちになって、奴らに食われる順番待ちをしていた。
みんな、泣いているか、怯えているか、あるいは絶望した目をしていた。
私はどういう目をしていたのだろう。
あの時拾っておいた彼の香水瓶は、服を脱がされた時に一緒に取りあげられてしまった。奴らに回収された持ち物などは、ひとつの箱に入れられて、倉庫かどこかに運ばれるようだった。
彼の遺品も恐らくそこにある。
脱走するのは、そこまで難しくなかった。奴らは、食事を終えると急にぞろぞろとどこかへ行ってしまった。
見張りは数匹残っていたが、ここにいるすべての人間を監視するには到底足りない数だった。
頃合いを見て、私は檻を抜け出そうとした。鉄格子の隙間は、痩せ型の私でもギリギリ通れない広さだった。
肩が引っかかる。
外すしか、なさそうだった。
「ふ……ぅ……」
悲鳴を堪えながら、なんとか外に出る。昔しょうもない盗みを働いていた時の経験が役に立った。
鉄格子越しに、何人かの目が私を見ていた。なにか言われるかと思ったが、彼らはすぐに興味をなくした顔になり、そっぽを向いた。
収容区をしばらく歩き回ると、それらしき倉庫を見つけた。隠し持っていたヘアピンで鍵をこじ開けた。
そこは食料庫のようだった。人間の食べ物が置いていた。ここに彼の遺品はなさそうだったが、空腹も限界に近かったので、少し漁ることした。
だが、倉庫の入口から蟻野郎が入ってきた。
咄嗟に棚の後ろに隠れたが、無意味だともわかっていた。
奴らからは決して逃れられない。
「おまえ、脱走者だな」
蟻は私を見据えて問いかけた。
「……だったらなんなのよ、このアリ野郎」
意を決して、私は棚の影から姿を現した。いまさら怯える必要も無いと思った。
「さっさと殺しなさいよ」
ただ惨めに食い殺されるぐらいなら、せめて堂々と、自分から死んでやる。
「……」
すぐに襲われるかと思ったが、その蟻は黙ったまま動こうとしなかった。私を観察するような目は何を考えているのか分からないが、なんとなく、迷っているような気配も感じたので、少し戸惑った。
「それとも、犯そうっていうの? ナニもついてないくせに」
「……いや」
「じゃあ早くしてよ、こっちはもう死ぬ気満々なんだけど」
「……おまえ、母乳が出たりしないか?」
「は?」
「たとえばいま、妊娠してないか? もしくは、生後一、二歳の子供がいたとか」
ぞっとした。
なんなのこいつ。キモすぎる。
私に何をさせる気!?
生理的嫌悪とともに、吹っ切れたはずの恐怖が、またぶり返してくるのを感じる。
自分がいま何も身につけてないことが、急に不安になってきて、反射的に手で胸と陰部を覆った。
「ど…………で、出ないわよ」
震える喉から、なんとかそれだけ絞り出した。自分でも何言ってんだと思う。
「そうか……」
「そうかってなによ……いったい、なん、な、なんなのよ!!」
「なら、この倉庫の中で、こいつが食えるものはあるか?」
「…………こいつ?」
言われて、初めて気付いた。その蟻は、なにか小さなものを背負っていた。
それは……。
「……え?」
それは、まだ生後1歳か2歳ぐらいの、人間の赤ちゃんだった。
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