第3話 裏切り者
おれたちは、基本的に寒さを感じない。
外気温を測定する機能は付いているが、それはただの情報で、感情的なものじゃない。
今まで生きてきて、地底と地上を数え切れないほど行き来した。
おれは寒さを感じることは無い。だが、このふたつの世界においてもっとも異なるものは、たぶん気温だと、おれは思っていた。
群衆に流されて居住区を発ち、じめじめとした道を進んで数十分で、玉座の間に着く。
いつもは長く鬱陶しく感じるこの道のりが、今日に限っては一瞬に感じた。
狭いトンネルが終わりを迎え、唐突にだだっ広く解放的な空間に出る。
その部屋の天井は、だいたい200メートル、横幅にいたっては500メートル以上はあった。その壁の端から、兵隊蟻の列がどんどんと敷き詰められている。ちょうどおれが到着した頃には、すでに部屋の4分の3ほどが蟻色に塗りつぶされていた。そして彼らが見上げる前方には、塔のように太く高い玉座がそびえ立っている。
その頂上には、当然女王が鎮座し、おれたちを見下ろしているのだろう。あまりに高すぎて、こっちからはその姿を捉えることすら出来ないが。
いま思えばおれは、生まれてこの方、女王の顔を一度も見た事がない。
『よく集まった、わが子供たち』
おれたちにとっては、この声だけが女王の存在の象徴だった。おれたちのすべてと言ってもいい。なぜならおれたちは、この声に従うためだけに生まれたのだから。
『残念なことに、お前達の中に、裏切り者が出た』
おれも、そう生まれたはずだったのに。
『そやつは愚かにも、母であるわらわに歯向かった。子であることを忘れ、自らの欲に負けたのだ。みなのもの注目せよ、裏切り者はこやつだ!!』
その瞬間、
溶鉱炉で金属に還元された身体は、また別の金型に流し込まれ、新たな兵隊蟻のパーツの一部に組み込まれる。
『貴様がなにをしたか、この場でみなに説明せよ』
……ん?
四秒が経った。もう五秒、しかし、六秒と経過しても、まだ引きずり出されていない。
顔を上げると、天井からなにかが吊り下げられているのが目に入った。
鎖がジャラジャラと音を立て、それがゆっくり降りてくる。
なんだ?
おれたちがその形を捉えることができるちょうどの位置で、停止した。
『私は、女王の子の身にありながら、人間に加担しました』
抑揚のない声が、脳内響いた。女王のものでは無い。
『どう、人間に加担した?』
吊り下げられたそれは、よく見ると一匹の兵隊蟻だった。
『わが軍の侵攻予定地、A-Z575に関して、動員兵数、侵攻開始時刻および、出上ポイント、侵攻ルートの情報を敵に伝達しました』
そいつは、鎖で何重にも締め上げられて、身動きが取れないようだった。
唯一動く首を、僅かにくねらせながら、喋っていた。
6本の脚が、全て無かった。外殻もすべて剥ぎ取られて、鈍色の内部機器が無防備に露出していた。身体のそこら中に、焼け焦げたような生々しい痕があった。
『不十分だ。その結果に至った経緯を正確に申せ』
『先日の侵攻A-Z574にて、敵に一時鹵獲されました。その際、脳に接続され、こちらの暗号化通信を解析され、情報を抜き取られるに至りました』
『不十分だ』
兵隊蟻の声と、女王の声が交互に響く。こうもたんたんと進む尋問を聞くのは、奇妙な感覚だった。
『兵隊蟻は、敵に鹵獲された際、自壊するよう作られている。にも関わらず、なぜそのような結果に至った?』
返答が止まった。女王は返答を待った。おれたちも、黙ってそれを眺める。
あの蟻は今、狭間にいる。
もうほとんどスクラップになりかけているが、この返答次第ではまだ生存の道はある。
「自壊プログラムの故障」とでも言えば、それが事実か、また事実ならば何故そのようなことが起こったのか、それらを究明するために、とりあえずは生かされる。
生きたまま脳の基盤を弄られることになるだろう。地獄だが……しかしスクラップよりはましだ。
まだ女王に貢献する機会を与えられるということだからな。
『……』
誰もが、そいつがなんと返すのか聞き耳を立てていた。
そして、少ししてから、そいつはこう言った。
『私は、自壊プログラムを停止していました』
声音機能の故障か、そいつの声は、すこし震えているようにも聞こえた。
『なぜ停止した?』
『自壊したくなかったからです』
『なぜ、自壊したくなかった?』
『────死にたく、なかったからです』
そうか、と女王がため息を漏らした。
それが合図だった。
直後、頭の中でノイズが駆け巡った。
砂嵐のような、悲鳴のような、不快で鮮烈な爆音が荒れ狂う。
やめてくれ! 頭が割れそうだ。
なんだ……なんだこれは。
と思っている間に、ノイズははたと途切れた。
同時に、吊り下げられた蟻の頭がぶるりと震え、がくっと落ちた。
そして、電源を抜かれたようにぴくりとも動かなくなった。
玉座の間に、完全な静寂が下りた。
『よいか我が子たちよ。おまえは兵隊蟻だ』
女王はぽつりと、しかしはっきりとした声音で言った。
『兵に情はいらぬ』
吊るされた蟻の頭から黒煙が上がるのを眺めながら、また、
さっきよりも、ずっと強く。
おれはまだ無事だ。6本の脚もある、外殻も剥がされてない、脳も焼かれてない。
だから震えるな。と自分に言い聞かせる。だが、まったく安心できなかった。
「おい」
いつの間にか、隣に相棒がいた。
「敵に情報を漏らすとは、厄介なことをしてくれたな」
一瞬、困惑して、さっきの兵隊蟻の話だとわかった。
「あ、ああ……ほんとうに、うんざりだ」
こいつ、どういうつもりで話しかけてきやがる。
「作戦は変更されるな。まあ、おれたちの隊なら問題なく対応できるだろうが」
などと誇らしげに言ってくる。なんなんだ。カマをかけてるのか。
「指揮を頼むぞ、隊長」
おれに軽く頭突きし、奴は離れていった。
どっちなんだ……。
奴は、赤ん坊のことを知らないのか、知ってて黙ってるのか……だとしたらなぜ?
考えていると、身体の内側から生じた冷気が、全身を包んでいくような感覚がする。
おかしい。寒い。耐え難い寒さだ。
凍えてしまう。
もうどっちでもいい。
早く。一刻も早く。
女王に見つかる前に、証拠を隠滅しなくては。
赤ん坊を処分しなければ。
とにかく、おれはそのことだけを考えていた。
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