第32話 涙

「ええっと…… 恋?」


 わたしは今、学校が終わって、恋と一緒にわたしの部屋にいる。


 何でも一つ言うことを聞く。その提案を受け入れたわたしは恋に何をしたらいいか聞いた。けれど帰ってきた言葉は「あとのお楽しみ」。


 そして現在に至るわけだけど、その今もまだ何もお願いをされていない。


 何もしないのはなんだか自分の罪を償ったような気がしなくて気が引ける。


 だからわたしから恋に何をしたらいいか、もう一度聞こうと思ってたんだけど……


「れ、恋?」


 ただ、どうしたらいいかわからないことが起こっている。


 わたしは恋に押し倒されていた。


(うーん、前にもこんなことあったけど……)


 あったとはいえ、さすがに押し倒されているという状況にはどこか恥ずかしさのようなものがどうしても芽生えてしまう。


 押し返したいのはやまやまなんだけど、わたしが恋の力に勝てるわけもなく、恋に話しかけることしかできない。


「凪ちゃん、さっきのお願いの話」


(……! 来た……)


 急にその話が来て驚いたが、わたしは何をお願いされても受け入れられるように覚悟を決めた。


 わたしにできることならなんでもやろう。


 そう思ってわたしは恋の目を見つめ返した。


(……え?)


 するとわたしの頬に何かが落ちてくるのを感じた。


「え、ちょ、恋!? え、え!?」


 一瞬なんでこんなことになっているのかわからなくなって体が固まる。


 わたしの頬に水が落ちてくるのだ。それはただの水ではない。少し熱を含んだ、生温かい水。


 現状の理解は追いつかなかったが、今わたしの目の前で起きていることをどうにかすべく、わたしは恋を押し返して起き上がった。


 恋の力は弱くなっていたので、簡単に押し返すことができた。


「どうしたの!?」


 わたしは恋の顔を覗き込む。


 なぜか急に恋が泣き出してしまったのだ。ぼろぼろと涙をこぼして、声を押し殺すようにして泣いている。


「だ、大丈夫!?」


 なんで急に泣き出してしまったのかはわからないけど、わたしはティッシュを恋の目に当てて、恋の背中をさする。


「恋、落ち着いて……」


 わたしはゆっくりと恋を抱きしめた。


 これがどれくらいの効果を持っているのかわからなかったが、わたしにできることはとにかくこれぐらいしかなかった。


「恋……」


 すると時間が経つにつれて、恋の涙はだんだんと止まってきたようで、恋の呼吸が落ち着いてくるのを感じた。


 わたしは恋から離れ、もう一度恋の顔を覗き込む。


「恋…… どうしたの?」

「凪ちゃん…… ごめんね……」

「……?」


(……何が?)


 わたしが恋に謝られるようなことをされた覚えは一切ない。


 どちらかというとわたしが謝るようなことをしたわけだけど……


「恋。何かわからないけど、謝らないで」

「ううん…… わたし……」

「え、恋……!」


 まただんだんと恋の目に涙が浮かんできてしまった。


 わたしはすぐにもう一度恋を抱きしめた。


 正直恋の考えていることはよくわからない。


 わたしの考えていることとはいつも違うようなことを考えていて、なかなか恋の気持ちを推し量ることができない。


「ねえ恋」

「…………」


 恋からの返答は聞こえない。


「……わたしは恋と一緒にいて嫌な気持ちになったことなんて一回もないよ。謝らなきゃいけないのはわたしの方だよ……」


 人の気持ちを完璧に察することはできない。


 わたしが恋の気持ちを想像したとしても勝手な憶測でしかない。


 でもわたしが恋を傷つけたのは事実。


 だからわたしが謝られて、恋を泣かせるようなことになっているのも、わたしがまた恋に我慢させている結果となって表れている。


(わたし何してんだろ……)


「ち、違うの!」

「……恋?」

「わたしが悪いの……」


 そう言うと、恋はなんで泣いてしまったか、なんでわたしに謝るようなことになったのかを話し始めた。


「その、わたし凪ちゃんにひどいことしようとしてたの……」

「……? ひどいことって?」

「凪ちゃんに手を出そうと……」


(手を出す……? え、それって…… ……ええ!?)


 わたしは一気に顔が熱くなっていくのがわかった。


 わたしの思っている手を出すという意味が確かなら、それはわたしを恥ずかしいとかいう言葉では言い表せないほどの変で複雑な感情にさせた。


「既成事実的なのを作っちゃえばこっちのものかと……」


(恋さん……!?)


 やっぱりわたしが想像した意味で合ってるみたいだ。


(な、なんて言っていいんだろう…… 衝撃が大きすぎて……)


 そういったことをしたことは人生で一度もないのはもちろん、知識もあまり持ち合わせてすらいない。


 まさか恋がそんなことをわたしにお願いしようとしていたなんて、全く考えなかった。

 

「でも自分が最低なこと考えてるって気づいて…… それで自分が嫌になって……」

「恋……」


 確かに少し恋の考えは飛躍している。


 なんでも言うことを聞くと決めたとはいえ、さすがにそれは躊躇してしまう。


(でも……)


「凪ちゃん、ごめんね。わたし今日はもう帰るよ」

「え? いや……」

「ちょっと一人になりたいから…… じゃあ、また明日ね」

「う、うん……」


 本当はすごく心配で、もうちょっとここにいたらって言いたかったけど、一人になりたいという恋を引き留めることはできなかった。



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