第42話
録音当日、吉沢家のスタジオに集まった僕達は緊張の瞬間を迎えていた。
愛歌さんが完成させた「空」は、今までの集大成と言っていい出来栄えだ。誰もがそう納得出来る音楽が出来上がった。
後足りないのは僕の歌だけ、僕は多大な緊張感を感じながらも、いつも通りの準備をして、録音に備えた。
愛歌さんの曲も、文乃の歌詞も全て頭の中に叩き込んである。表現の為の強弱も、感情を伝える工夫も、すべてイメージは固まっている。
収録は何度もやり直せるが、僕は一度で決めるつもりでいた。それだけこの曲にかける思いは強い。
「葦正君、集中している所悪いけどちょっといいかな?」
愛歌さんが申し訳無さそうに話しかけてきた。
「大丈夫ですよ、もう準備は済ませてありますから。どうしました?」
「それは頼もしい、葦正君は本当に立派なボーカリストになったね」
僕と愛歌さんは隣り合って座った。愛歌さんが手を差し伸べるので、僕はそれを握り返す。指を絡めるように手を繋いで、愛歌さんは話し始めた。
「何だか最初の収録を思い出すよ」
「あの時は教室でしたね、まさかこんな立派なスタジオを使わせてもらえるようになるとは思いませんでしたよ」
「それは本当にそうだ。吉沢君には感謝しかないな」
愛歌さんはくすくすと笑った。
「あの時、私は葦正君に画竜点睛を欠くと言ったね、曲の完成の為に瞳を描き込んでくれと」
「そういえばそうでしたね、あれは気合が入ったなあ」
僕はその時を思い出しながら言った。
「愛歌さん、今回も僕に気合を入れに来てくれたんですか?」
「うーん?どうだろ、最初はそのつもりだったけど、葦正君はすっかり頼もしくなったからね。こうして話していると私の方が元気を貰えてしまう」
愛歌さんは僕の肩に頭を預けた。
「画竜点睛か、我ながら恥ずかしくなる大言壮語だよ」
「そんな事ありませんよ、愛歌さんの場合は実力が伴っているから説得力があるんです。嘘やお世辞じゃありませんよ?」
「君は本当に嬉しい事を言ってくれる、私は本当に幸運だ」
僕は頬に柔らかな感触を感じて、体をビクッとさせる。愛歌さんの吐息が肌に当たって、僕は何も出来ず言えず硬直した。
「気合が入るか分からないけど、私から葦正君への贈り物だよ。歌、よろしくね」
愛歌さんは僕の頬にキスをして去っていった。僕は幸せで眼の前がぐるぐる回っていた。
「おい色ボケ、そろそろ始めるぞ」
吉沢の声で僕は我に返る、集中力と気合を入れ直して、僕はマイクの前に立った。
頭に曲が流れてくる、僕は今までの事を振り返りながら歌に臨んだ。
愛歌さんとの出会いは偶然の連続だった。
あの日、遠藤先生が早く来ていなかったら、机を直しにきていなかったら、僕がいつものように朝早く登校していなかったら、あの出会いは無かった。
屋上の扉が開いていて、そこに足を踏み入れた事も偶然だ。普段の僕だったら、そのまま無視して机を運ぶ事だけやっていたかもしれない。
だけど僕はそこにいた。そして何てことない日常への不満を空にぶちまけた。
思えば僕と愛歌さんは、最初から空で繋がっていたんだな。
出会いは様々な変化をもたらした。新たな出会いも、知り得なかった人の悩みも、僕達が仲間になる切っ掛けも。
吉沢、僕はお前と仲良くなれるなんて思っても見なかったんだ。僕の一番嫌だった声についていじられるのは屈辱だった。
まさかこんな繋がりが出来るなんてな、僕の歌声を褒めてくれた時、嬉しかった。認め合える友人が出来たのは僕にとっても初めての事だったんだよ。
文化祭で発破をかけてくれた事、今でも感謝してる。あのステージは吉沢がいなければ完成しなかった。
文乃との出会いも偶然だったね、初めて出会った時大慌てする君を見て、僕は大丈夫かなこの子はなんて事を思った。
でも話していく内に、君の事を知っていくと、どれだけ魅力的な人なのかよく分かったんだ。だけど抱えていた悩みは本当に深刻なものだったね、僕は君の力になってあげられたのかな?
こうやって聞くと、文乃はきっと怒るだろうな。
「先輩の力なくして今の私はありません」
こんな風に言って僕を元気づけてくれる、文乃はそういう子だから。
文乃の気持ちに応えてあげられなかった事、本当にごめん。僕は自分の本当の気持ちと向き合いたかったんだ。後悔はしていないけど、君の心の傷が大きくないように願っている。
その綺麗な瞳に映る世界は、もっと色々な出会いに満ちあふれているから、またあのベンチで僕にそれを教えて欲しいな。
僕は皆と出会って音楽作りを通して、今まで知らない多くの事を知った。
嫌いだった声の事、今ではすっかり僕の一部。好きになれたのは皆のお陰だ。
見つけられなかった夢中になれる事、平凡な僕が胸を張って自慢できる得意な事、皆のお陰で見つける事が出来た。歌はもう僕の大切なものだ。
練習して、話し合って、時にはぶつかって喧嘩して、そんな日常の当たり前の事をあの空はずっと見ていてくれている。
常に同じ空模様はないように、僕達だってどんどん変化していくだろう。だけど絶対に変わらないものが、変わることはないと自信を持って言えるようになった事が一つある。
それは僕達が作った確かな絆だ。いつまでも絶対に変わらないし、忘れはしない、過ごした時間は嘘にはならないから。
何だろう?空が見える気がする。
深い青色の広大な空が、何処までも広がっている。皆にも見えているのかな?きっと見えているだろうな、だってこれは皆で作った空なんだから。
歌が終わる。曲が終わる。浮かんだ景色の空に一筋の流れ星が光った。
完成した「空」は、公開されると同時にとんでもない反響を得た。
テレビでも取り上げられて、有名音楽プロダクションから声がかかり、文化祭で使ったSky名義でCDデビューや音楽配信と、またたく間に人気に火がついた。
僕達は皆学生という事もあり、顔を出すなどの露出は極力避けてもらった。しかし今までの曲を含めてアルバムとして売り出したり、会社の方はこれを機と見ると精力的に活動を進めた。
世間に認められる事は嬉しかったけれど、目的を果たしてしまった僕達は、皆で話し合ってこれ以上の活動はしない事に決めた。
会社の担当の人はすがりついて説得してきたけれど、そこは吉沢のお父さんが出てくれたお陰で、何とか丸く収める事が出来た。
今、街中で「空」が流れている。自分の歌声が聞こえてくるのは不思議な感覚だったけど、この曲を口ずさむ人達を見たりすると、何だか少しだけ誇らしく思えた。
「ごめん、待たせちゃったかな葦正君」
「大丈夫です。僕も丁度来た所ですから」
愛歌さんが珍しく化粧をして髪を巻いている、相変わらずお洒落をすると眩しい人だなと僕は思った。
「愛歌さん、髪可愛いですね。それにお化粧もして、綺麗です」
僕がそう言うと、愛歌さんは顔を赤らめて俯いた。
「あ、ありがとう。わ、私はいつも通りで良いと思ったんだがな。文乃が、特別な日にお洒落しないなんて失礼ですよって言うから。協力してもらったんだ」
「何だか目に浮かびますね」
僕が笑って手を差し出すと、愛歌さんも微笑んで手を握った。
「愛歌さんとこうしてクリスマスを一緒に過ごすなんて、昔の僕に言ったら絶対信じませんよ」
「私はそんな事ないぞ。昔の私にどれだけ葦正君が素敵な人かを納得させられる自信がある」
「…愛歌さんなら本当に出来そうに思えますね」
僕達はお互いの顔を見つめ合って笑った。二人でいると何処に居たって楽しい、こんな気持ちを知る事が出来たのも、隣に彼女がいるからだ。
「葦正君!私達の曲が流れてるじゃないか」
「そうですよ、びっくりですよね。こっそり二人で歌いますか?」
「いいね!そうしよう」
僕と愛歌さんは歌を口ずさみ始めた。クリスマスの空に雪の結晶が舞い降り始める、特別で夢の様な空間に僕達は一緒にいた。
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