第40話

 目が覚めると僕は見慣れない天井を見上げていた。


 そこはかとない薬の匂いに、ぱりぱりの掛け布団、どうやら保健室のベッドの上にいるらしい。


「起きた?葦正君」


 ベッドの横で愛歌先輩が座っていた。ニコニコと笑顔を浮かべて僕の方を見ている。


「先輩、あれ?僕どうなりました?」

「ステージの上で倒れたんだ。緊張で一杯一杯だったんだろう、私に愛の告白をしたと思ったらふらっと」


 段々記憶を取り戻してきた僕は、途端に恥ずかしくなって布団を頭まで被った。


「どうしたの?」

「いえあのその、自分のした事を思い返したら、とんでもない事をしてしまったなと」

「そうかな?私は嬉しかったよ」


 僕は布団の中から先輩をちらりと見る。変わらず笑顔を向けているので、僕は赤くなる顔を隠すようにまた布団に潜った。


「君達が作った曲、とても素敵だったよ。私には勿体ない程に」

「み、皆で作ったんです。先輩がまた作曲に戻ってこれるようにって」


 僕の言葉を聞いて先輩は少し黙った。


「私は本当に幸せ者だな、皆から離れたのは私だって言うのに」


「少し私の昔話に付き合ってもらえないだろうか?」


 先輩がそう言うので僕は布団から出て、向かい合って座った。


「聞きます。聞かせてください」

「大した事ではないんだけどね、聞いてもらえると嬉しいな」




 葦正君にも話した事があるけれど、私は友達と呼べるような人がまったくいない。これは別に今に限った話じゃないんだ。


 昔から私は言葉足らずと言うか、口が過ぎると言うか、兎に角上手な言葉を選ぶ事が出来ないみたいなんだ。


 それに加えて態度が悪いのか、人を近づけない何かがあるのか、あまり積極的に話しかけてくれる人も居なくてな。私としては特に何かしているつもりはないのだけど、こればかりは分からないな。


 自覚があるのは、私は好きな事や気になる事には多大な集中力を使う事が出来るのだが、そうでない時にはまったく食指が動かない、それがきっと人より極端なんだと思う。


 それがきっと私に大きな壁を作っているのだと思う、本当の所は分からないけどね。もしかしたら私が意識せず人の事を貶めているのかもしれない、こればかりはどうしようもないね。


 私はずっと孤独だった。別に人と話さなかった訳じゃない、ただ私自信が孤独を感じていたんだ。何処か私は人と違う、一緒でありたいと願うのだが、それを私が受け入れられない。


 不思議だよね、自分でも矛盾していると分かっていてもどうしようもないんだ。


 だからかな、私は感動した事を人に伝える手段が欲しくなった。綺麗だった事を綺麗だと言いたい、それを人に伝えたい。


 そして出会ったのがあの空だったのさ、両親が連れて行ってくれた登山で出会ったあの空。


 実は登山は父の趣味でね、私と母は本当は嫌々だったのさ。山道というのは本当にきつくてね、足場は悪いし、岩場は怖いし、高いところは空気も薄くなるし息苦しい。何でこんな事をと母と私は文句を言いながら登ったよ。


 だけどね、苦しい思いをして登りきった山頂での青空はとても見事なものだったよ。深い深い青い色をしていてね、言葉に出来ない感動がそこにはあった。


 美しいと感じる心に理屈はないのかもしれないね、私はそれを何よりも美しく感じて、同時に誰かに教えてあげたくなった。だけど悲しいかな、私はそれを伝える言葉を持ち合わせていなかったのさ。


 どう言えば伝わるのか、また余計な事を言って不快な思いをさせないだろうか、そんな事を考えていると誰にも何も言えなくなった。


 こんなに綺麗な景色なのに、私は悔しく思ったよ。それを表現する手段がない事がこんなに悔しいとは思わなかったくらいだ。


 でね、そんな時に一枚のレコードに出会ったのさ。前に葦正君と一緒に行った事のある喫茶店、あそこの店主とは顔なじみでね、私が素直に悩みを打ち明けられる数少ない一人さ。


 そのレコードの音楽はね、その一曲しか世に出なかった作曲家の物だった。世知辛い話だけど、あまり売れなかったみたい。


 それでも、その薄い円盤の溝をなぞると、聞いたことのない音が沢山詰まっていた。とても素敵な音楽だった。曲名は「海中」だと店主は教えてくれた。


 ダイビングが趣味だった作曲家が、そこで見た忘れられない景色を曲に込めたのだと言った。店主にはそれを聞いても海は見えないけれど、曲に込められた思いを聞くのが好きだと言っていたよ。


 私にも残念ながら海の中は見えなかった。だけど思ったんだ、これなら私の頭の中を伝える事が出来るのではないかって、聞いた人皆にあの空の青さを伝えるような、そんな曲が作りたいってそう思った。


 それから私は、独学で作曲を勉強して、機材を揃えて、兎に角思いつくままに音を奏でてみた。私の頭の中にあるイメージをアウトプットするのに音楽は最適のツールだった。


 表現する事が楽しくって、私はひたすらに作曲を続けた。上手く出来ているかどうかなんて気にならなかった。私は初めて世界と自分が繋がったように感じたんだ。


 ただ、どれだけ多くの経験を重ねても、私の一番表現したかった「空」だけは完成しなかった。試行錯誤する程に、どんどん自分から離れていった。


 私は何か重要な事が欠けていると思った。ただしその何かは分からない、完成しないジグソーパズルを延々と繰り返す。そんな気分だった。


 そんな時だ。行き詰まっていた私に、透き通るような綺麗な声が聞こえてきたのは。


 私は直感でこの声が足りなかったと分かった。絶対に必要だと感じた。それで葦正君に接近したんだ、今思い返すと本当に無理やりだったと思うよ、ごめんね。


 だけどね、葦正君の話を聞いて私は衝撃を受けたんだ。


 君は自分の声が嫌いだと言った。自分にとって厄介なものでしかないと、出来ることなら皆と一緒のようになりたかったって、葦正君と私は同じ様な考えを持っていた。


 私は葦正君の声が類稀な才能だと思った。だけど君はそれを疎ましく思っている、それなら私の曲で葦正君の声を音楽に変える事は出来ないかと思ったんだ。そうすれば、葦正君が自分の声が特別に思えるかもって。


 まったく、私って奴はどうにも傲慢らしい。君が良しとするところを勝手に変えようだなんて、烏滸がましいにも程がある。


 だけど葦正君は私に付いてきてくれた。一緒になって考えてくれて、慣れない歌も必死に練習してくれて、私との曲作りに真摯に向き合ってくれたんだ。


 私はそれが嬉しかった。無理やり誘ったような私を先輩と慕って、私を理解しようとしてくれて、歌だって疎かにしなかった。


 そんな君に私はもうずっと惹かれていたのかもしれないな、だからこそ怖くなってしまった。君がもし私の傍から居なくなってしまうと思うと、不安で一杯になって、私は自分自身と向き合えなくなってしまった。


 文乃が葦正君に告白をした所を私は見てしまった。今まで誤魔化していた不安が一気に溢れ出してきた。皆と一緒に居られる、あの空間が壊れてしまうかもと、そんな事ばかりが頭の中に浮かんできた。


 葦正君が私に告白してくれた時、君にとても酷いことをした。君だけじゃない、文乃にもだ。吉沢君にだって心配をかけた。


 私は初めて出来た特別な関係が崩れ去ってしまう事が怖かった。でもそれは、私が君達を信じきれていない事の証明でもあったのだとようやく気がついた。


 ねえ葦正君、私は欲しがってもいいのかな?欲しいもの全部、手に入れたいと願っても構わないのかな?私は君の特別になりたい、そしてあのかけがえのない空間も壊したくない、そう願ってもいい?




「先輩、こっち来てください」

「え?」

「いいからこっちです」


 僕はベッドの横を空けてぽんぽんと手で叩いた。


 先輩はおずおずと僕の隣に座った。僕は思い切って先輩の体を抱きしめた。


「ちょっ!?葦正君!?」

「いいんですよ先輩、いくらでも望んでいいんです。だって僕も同じ気持ちです。先輩の特別になりたいし、皆と音楽を作るあの場所も守りたいです。そして先輩の願いも叶えたい、一緒に「空」を完成させましょう、皆で」


 僕の背中に先輩は手を回した。僕は心臓が破裂しそうな程高鳴るのを感じる。


「まったく君には敵わないな葦正君、私が君を変えるつもりだったのに、いつの間にか私が君に変えられてしまったらしい。責任はとってもらうぞ」

「はひっ!がんばりまひゅ!」


 緊張で思い切り噛み倒した僕の声を聞いて、先輩は笑い声を上げた。僕もそれにつられておかしくなってきて笑った。


 先輩と僕はようやく特別になれた。今はこの腕に抱く温もりをただ大切に抱きしめるのだった。

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