第8話

 立花先生は僕たちの為にお茶を入れてくれた。三人で一息ついてから先生は話し始める。


「それで具体的にどんな力添えが欲しいのか決まっているかい?」


 先生の問いかけにまずは愛歌先輩が答えた。


「私は歌声を乗せる曲を教えてほしいんです。取り敢えず鳴らしたい音を鳴らしていただけですから、そういうの考えた事なくって」

「成る程、じゃあ高森君は?」


 僕は少しだけ考える、今僕に足りないもの。沢山ありすぎるけれどまず必要なのは、最低限歌えるようになる事だ。


「僕は音楽の授業でしか歌った事がないので、指導とまでは言いませんが練習方法を教えてほしいです。あと出来れば声を出しても問題ない場所も」


 流石に要求しすぎだろうか、僕は不安になる。


「よし分かった。僕も吹奏楽部の練習を見なければならないから、そう頻繁には指導出来ないけど、教えられる事を教えるよ。場所についても僕に考えがある」


「音楽室の他に、近くの教室を練習用に使わせてもらう事があるんだ。それで抑えてある教室がある、吹奏楽部が使わない時には僕の許可で使えるよ」


 先生の提案に先輩が飛びついた。


「本当ですか!?」

「ああ、合唱部で使う事もあるから僕が指導してても目立たないだろ?」

「え?先生合唱部も兼任してるんですか?」


 僕が先生に聞くと、先生は苦笑いをした。


「そんなに頻繁に見てないけどね、部員も少ないから活動もそんなにないんだ。だから兼任出来るんだよ」


 願ったり叶ったりだ。こんなにいい条件は他にないと思う、僕は先輩の方を見ると、先輩も僕の方を見ていた。僕たちは声を合わせて言った。


「是非お願いします!」




 先輩は先生と一緒に準備室に缶詰になっている、僕は取り敢えず先生から渡されたボイストレーニングのCDを再生して声を出していた。


 レコーダーも借りて声を出しては録音をして確認を繰り返す。


 音程を取るのは意外と難しい、自分が正しいと思って出している声でも微妙に外れている、僕はもう一度もう一度と独り言を繰り返しながら再生しては録音確認をした。


「腹式呼吸、姿勢を正して、胸を張る」


 アと発声して徐々に音階を上げていく、姿勢を維持するだけでも意外ときつい。でも、繰り返していく内にちょっとずつだけど音が合ってきた。それが意外と嬉しい、大きく声をだすことがこんなに気持ちのいいことだとは知らなかった。


 大きく息を吸い込んで、体の中からすべて出し切るように吐き出す。肺が膨らんだりしぼんだりするのを体で感じる、思えばこんなに声を沢山吐き出したのは、どれくらいぶりなのだろうか。


 自分の声が嫌になってからは、親しい人にでもない限り積極的に会話をする事は無かった。からかわれるのも嫌だったが、それ以上に僕自身が嫌な気持ちになっていたんだ。


 こうして歌の練習をしていて、ようやく自分の気持ちと向き合えた気がする。周りが変化していくなかで、自分だけがそれに取り残された気分、酷く不安に思ったし何故自分だけと思った。


 そう考えると、僕は今まで変化を恐れていたのかもしれない。変声期で声が変わらなかったこそ、周りの反応が過剰に気になった。それで何か言われるかも、嫌な反応をされるかもと思っていた。


 でもそれもこれもこうして声を出してみないと分からない事だった。それでもし傷つく事があったとしても、踏み出すことを躊躇していたら何も分からない。


 練習を一度切り上げ休憩のため窓を開ける、吹き込む風が心地良い、そのまま外を眺めていると立花先生が扉を開けて入ってきた。




「やあ、外で少し練習を聞いていたけどいい調子じゃないか」

「本当ですか?」


 僕は窓を閉めて先生の元へ向かう。


「ああ、しっかりと声も出ているし音程も問題なさそうだ。レコーダーも聞かせてくれるかい?」


 先生にレコーダーを渡すと、何度か再生を繰り返して確認した。


「いいね、どんどん音が合ってきている。こうして基礎を繰り返すと自然と体に染み付いていくから意識してみるといい、一人でやる時は客観視できるように録音を忘れないようにね」

「分かりました。先生、あの、少し聞いてもいいですか?」

「ん?何だい?」


 先生が空いている椅子に腰掛けたので、僕も向かい合って座る。


「先生はどうして協力してくれようと思ったんですか?今更言うのも変ですが、色々とお忙しいのでは?」


 本当に今更ではあるのだが、僕は気になったので聞いてみた。


「そうだね、まず言えるのは三上さんの曲を聞いたからだね」

「先輩の?」

「彼女と少し話をさせてもらったけど、本当にすべて独学で、更に言えば感覚で音を鳴らして作曲していた。それに加えて曲のバリエーションも素晴らしい、次々と音をつなぎ合わせていく早さも、底しれぬものを感じるよ」


 やはり先生には知識があるだけに先輩の非凡さが分かるのだろう、素人の僕でもすごいと分かるくらいなのだから、先生が感じた衝撃はもっとすごかったと思う。


「正直僕が彼女に教えられるような事は殆どないね、アドバイスは色々とさせて貰ったけど、もう彼女は自分の世界で次々曲を作り始めている」

「先輩がすごいのは僕にも分かるんですが、いまいちピンとこないんですよね」


 どれ程高度な事をやっているのだろうか、分からないなりにも聞いてみたかった。


「彼女はね、作ろうと思った時には頭の中で音が出来上がっているんだ。様々な音が正確に鳴っているんだよ、それをパズルのように組み合わせていく、恐らくだけど聞いた楽器の音はすべて記憶しているんじゃないかな?」


 僕はぽかんと口を開けた。とんでもないとは思っていたが、それ以上だ。


「技術が発達した現代でよかったよ、彼女には鳴らしたい音が多すぎる。パソコンがあれば確かにそれが再現できるんだから。彼女は楽器が弾けないと言っていたから尚更ね」

「そうだったんですか!?」

「まあ向き不向きもあるからね、楽器が弾けずとも作曲を行った人は歴史上でも存在している。その辺は相性もあるのかもね」


 つくづくすごい人なんだなと僕は思った。それだけにもう一つ気になった事も出来た。


「あの、先輩の曲に本当に僕の声は必要ですか?」


 僕は力の限り先輩の力になりたいとは考えている、しかしそれが不純物というか、不必要なものになるのが心配だった。


「高森君は自分の声をどう思う?」

「え?」


 先生から質問で返されてしまったので少し戸惑う、答えとしては一つだが。


「まあ高い声ですかね?」

「それもそうだけど、それだけじゃないんだ。さっき君の歌声を聞いて僕も確信した。君の才能にも非凡なるものを感じたよ、不思議なくらいスッと心に入り込む透き通る声、表現するのは難しいんだけど、きっと君の声が彼女に必要なものなんだ」


 先生のまっすぐな言葉を聞いて僕はちょっと目頭が熱くなる、声を出したら震えそうで押し黙る。


「君たち二人が作り出す物の先を、僕自身見てみたくなったよ。教師としても、音楽に携わる者としても、僕は君たちを応援すると決めたんだ」


 先生はそう言って僕ににこやかに笑いかけた。それが嬉しくって僕もぎこちなくとも笑顔を返した。いつかきっと愛歌先輩にも立花先生にも恩返しが出来たらいいなと思った。


「葦正君!先生!聞いてくれ!新しく曲を作ってみたんだ。記念すべき一曲目になるぞ!」


 先輩が興奮しながら大慌てで教室に入ってきた。子供のような無邪気なその様子が何だかおかしくって、先生と一緒に僕は笑った。


「どうしたんだ二人共?何か面白い事でもあったか?」

「いえ、そうじゃないです。それより聞かせてください、先輩のその曲」

「勿論だとも!葦正君の歌声が入れば完璧に完成するように作ったんだ。これから忙しくなるぞ!」


 先輩が僕に駆け寄ってきて音楽を再生する、流れ出す旋律が僕たちを取り囲み、次は一体どんな景色を見せてくれるのかと期待させた。

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