第3話
僕は三上先輩に頼まれた事を承諾しかねていた。
というより無理だと思った。歌なんか授業とかカラオケでしか歌った事がないし、三上先輩の曲はクオリティが高すぎる。
「どうして僕何ですか?三上先輩がご自分で歌われたらいいのに」
「
「は?」
三上先輩が突然言った事が分からず困惑する。
「私の名前愛歌、愛するの愛に歌唱の歌って書く、君の名前は?」
「あ、二年生で高森って言います」
「違う名前」
どうやらどうしても下の名前が知りたいらしい。
「葦正って言います。あ、漢字は植物の葦に正しいって書きます」
これはいらない情報だったかもしれない、僕は少し顔が熱くなった。
「葦正君、貴方の声素晴らしいわ。私の思い描いていた通りの歌声になる。屋上での叫びを聞いて確信した」
「や、やっぱり三上先輩聞いていたんですね…」
「だから愛歌だってば」
いまいち話が噛み合わない、しかし推測する所先輩はもしかしたら下の名前で呼んで欲しいのかもしれない。
「愛歌先輩、これでいいですか?」
「うんそれが良い」
愛歌先輩は微笑む、綺麗な人だとは思っていたが、可愛らしく微笑む姿を見ると心音が跳ね上がった。
「そ!それでですね、愛歌先輩は屋上の一件を聞いていたんですか?」
僕は恥ずかしさを無理やり誤魔化した。そもそも僕はこんな美人と関わっていい人間じゃない、絶対に心臓に悪い。
「そう、たまたま今日朝早く起きたから学校に来たの。それでうろうろしながら次の曲作りを考えていた。自室に居るより色々思いつく」
先輩は自慢げに胸を張って言うが、僕には経験がないのでピンと来ない。
「それで偶然屋上近くを歩いていたら扉が開いているのが見えた。それが珍しかったから覗いてみようと思ったの、そしたら葦正君がいた」
僕はそれに気が付かずに叫んだと言う訳か、ようやく話しが繋がった気がした。
「あの叫び声は素晴らしかった。私は今日一日葦正君の事しか考えられない程に心奪われたわ。どう?歌手を引き受けてくれない?」
先輩は興奮気味に顔を寄せて僕に迫ってきた。僕は少しだけ気持ちが揺らいだが、答えはすでに決まっていた。
「申し訳ありませんが、お断りさせてください」
僕の答えはノーだ。
「分かった。スマホ出して」
「へ?」
何を分かったのか愛歌先輩はころっと話を変える。
「もう一曲聞いて欲しい曲がある。その曲を聞いて感想を教えて欲しい、それからもう一度頼もうと思う」
「もう一曲ですか?」
「そう、私の本命と言ってもいい曲。連絡先も渡すから、これを聞いたら連絡して欲しい、それが駄目なら明日も放課後教室に行くけど」
冗談じゃない、それはもう勘弁願いたい。
「分かりました!聞きます。だから今日みたいなのはもうやめてください」
僕の必死の頼みこみに先輩は小首を傾げていた。
「不都合だった?」
「そうですね、心臓に悪いです」
「それはいけない、分かったやめる」
そう言って頷いている先輩を見て僕はほっとした。正直愛歌先輩はすごく独特な人だ、だけど真剣に伝えれば分からない人では無いと思った。
それでも強引だが、それが先輩にとって普通なのかもしれない。
先輩にスマホを渡すと、何やらスイスイと指を動かして操作をしている。見られて困るものがある訳ではないが、他人にスマホを預けるのは少し変な気分だ。
「よし、曲を入れるついでに私の連絡先も追加しておいた。いつでもかけてきてくれていい、メッセージでもいいよ」
先輩からスマホを受け取り確認すると、連絡先に三上愛歌と追加されている。家族と連絡先しか知らないような旧友等のリストの中で、何故か一際目立って見えた。
「じゃあ私は行く、空き教室と言ってもあまり長いするものでは無い。連絡待ってるからね」
愛歌先輩はそれだけ言うと足早に去っていってしまった。何だか嵐のような人だなと思って僕も帰宅することにした。
兎に角同級生に見つからないように心がけて、影から影へ渡って歩いた。こんなにも人目に付きたくないのも初めてかもしれない、そんな事を思った。
家に帰ると鍵が開いていて、珍しく兄がすでに帰宅していた。
「ただいま、兄ちゃん今日は早いね」
「おかえりー、最近徹夜続きだったからな。皆疲れてきてたし一休みだな」
兄はリビングのソファーに横になってテレビの映像を眺めている、僕はだらけた兄を横目に自室に戻ると、制服をハンガーにかけて部屋着に着替えた。
洗濯物をカゴに放り込み、お茶でも飲もうかとキッチンに向かうと、兄の大きないびきが聞こえてきた。
兄は大学で映像についての研究をしているらしい、色々な事を熱意をもって語ってくれるが、内容自体は僕にはあまり理解出来ない。
専門用語が飛び交い、あれが出来るこれが出来ると楽しそうに話す兄は、僕からすれば理解できずとも尊敬出来る立派な人だ。
そう言えば愛歌先輩が僕に迫ってきた時の勢いは、兄が楽しそうに研究について話す時に似ていた。
思えば先輩が聞かせてくれたあの曲も、涙する程の情熱と心血が注がれていたように思える、素人の僕でも感じ取る事が出来たのだから間違いない筈だ。
あんなに簡単に断ってしまったのは悪かったかもしれない、断るにしてももっと話を聞いてからでもよかったのかも、しかしどのみち断るのならあそこでキッパリ断るべきだったのかも。
今更ながら僕の優柔不断さには呆れ果てる、何をやっても中途半端なのだから、せめて決断する時くらいは相手を傷つけない選択をしっかりと取りたい。
それも時すでに遅しか、僕はそう思ってせめて先輩から渡された曲だけはしっかりと聞いて、伝えられるだけの感想を伝えようと思った。せめてそれだけは果たしたい。
取り敢えず先に学校で出された課題を片付けてしまおう、僕は自室に戻ると、夕飯の時間まで机に向かってノートと教科書を取り出した。
母の呼ぶ声に僕は部屋を出て階段を下りる。
パートから帰っていた母はすでに夕食の準備を終えていた。食卓に食器を並べるのを手伝い、料理を運ぶ。
相変わらずいびきをかいて寝ている兄を起こすために僕は声をかけた。
「兄ちゃん、もうご飯だよ」
一度声をかけた程度では起きない、仕方がないので何度か叩いたり揺さぶったりすると、兄はようやく起き上がった。
「ああよく寝た。久しぶりに気分いいぜ」
「よく寝たじゃないわよ!人が帰ってきても気づきもしないし、たまに早く帰ってきたのなら、少しは葦正を見習って手伝いなさい」
母のぼやきをのらりくらりと躱して、兄は口笛を吹いている。その図太さは正直少し見習いたいと思う。
丁度よく父も帰宅してきた。母は父を出迎えに行き、久しぶりに家族全員が揃って食卓についた。兄に対して憤っていた母も少し上機嫌だった。
団欒を終えて片付けを済ます。兄は母から散々言われて久しぶりに風呂掃除をさせられていた。僕は一番風呂は父に譲る事にして自室に戻った。
スマホを取り出して愛歌先輩から渡されたデータを見る、曲名は短く一言「空」と名付けられていた。
あの時聞かされた曲のタイトルは何だったのだろうか、こうなると少し気になる。
僕はスマホにイヤホンを挿して耳につける、音楽データを再生すると、先輩の曲が流れ始めた。
「んん…?」
聞いてすぐ僕は何か言いしれない違和感を覚えた。
あの時聞いた伸びやかな曲調、軽やかな音の粒に、緩急ある飽きさせないテンポ、そのどれもが感じられない曲だった。
これが先輩の本命か、そんな事あるのだろうか、あの時聞かせてくれた曲はとても素敵なものだった。音楽に詳しくない僕でさえも感動したくらいだ。
曲を聞き終えた僕はすぐさま先輩の連絡先に電話をかけた。
感想を伝えたいという気持ちもあるが、この曲が本命だと言う先輩の本意が聞いてみたくなった。
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