後編

 ――二人は階段を上り、瑞希の部屋に向かう。


「ここが瑞希ちゃんの部屋かぁ、素敵だね」

 瑞希が部屋の戸を開けるなり、沙奈が感嘆の声を上げる。


「そんなこと、ありませんよ……」

 瑞希は顔を赤くして顔を伏せる。気恥しさを感じたからだ。


「沙奈ちゃん、部屋に入らないの?」

 瑞希は部屋の中に入ったが、沙奈はまだ廊下にいた。


「本当に、入っていいの?」

「入っていいですよ」

「やったぁ。じゃ、お邪魔します」

 そう言いながら、沙奈は瑞希の部屋に入った。


 もう既に家の中にいるのに、なんでいちいち許可を貰わないと入らないのだろうか。瑞希は不思議に思った。



「わぁ。クマさん、可愛い」

 沙奈はベッドに置いてあるテディベアに目がいく。


「ねぇ、これ触ってもいい?」

 沙奈はベッドに置かれているクマを指して尋ねる。


「はい。どうぞ」


 そのクマは瑞希が大切にしているものだ。いつもの瑞稀であるなら、出会って間もない他人に触らせようとはしないだろう。だが、今の瑞希は「沙奈ちゃんならいいかな」と思った。


「やったー! ありがとう!」

 沙奈は満面の笑みを浮かべて、クマに抱きついた。


「ふわー、ふかふかで気持ちいい」

 沙奈は幸せそうな表情をしている。瑞希もなんだが幸せな気持ちになる。


「このクマさん、どうしたの?」


「クマは、1年生の時に、誕生日で貰ったの」

 途端に瑞希は恥ずかしくなり、俯く。「1年生の時に貰ったクマを大事にしてるなんて。沙奈ちゃんは年長さんだし、バカにされるかもしれない」と内心ヒヤヒヤしていたからである。


「そうなんだ。クマさん、ずっと大事にされてたんだね。幸せ者だ」


 沙奈は瑞希をバカにしなかった。むしろ、クマを愛おしそうに撫でている。それを見て、瑞希は嬉しくなった。


 続いて、沙奈は枕元に置いてある本に目がいく。その本は「吸血鬼ドラキュラ」だった。


「瑞希ちゃん、こういう本読むんだね」

 沙奈はクマを脇に置いて、瑞希の方を向く。


「吸血鬼のお話ってあるけど、やっぱりドラキュラを読んだ方がいいのかなって。いちばん有名な吸血鬼だし」


 瑞希はドラキュラを読んだ理由を語り出す。それを聞いた沙奈は「プッ」と噴き出した。


「お、おかしいですか?」

 瑞希は沙奈の反応を見て不安になってしまう。


「ううん。気を悪くしたらごめんね。いや、なんか、しっかりしてるなぁって思って」

 沙奈はクスリとする。


「それにしても、ドラキュラねぇ……」

 沙奈は本を手に取り、パラパラとページをめくる。ページをめくり終わったあと、本を元の枕元に置く。この後、こんなことを聞いてきた。


「ねぇ、吸血鬼って本当にいると思う?」


 おちゃらけた笑顔とは一転、真顔になっている。


「え?」

 沙奈の言葉に、瑞希は首を傾げる。なんでこんなことを聞いたのか、皆目見当もつかない。


「ごめんね。変なこと聞いちゃった」

 沙奈は真顔から笑顔に戻る。


「お菓子とジュース、持って来たわよ」

 ドアの向こうから、雅子の声がした。瑞希は「ありがとうお母さん」と言ってドアを開ける。

 雅子は、スナック菓子の乗った皿とオレンジジュースが入ったコップを二つ、お盆に乗せて持っていた。


「ありがとうございます!いただきます」

 沙奈はそう言うと、雅子からコップを受け取る。雅子は部屋にお菓子をお盆ごと置くと、階段を降りていく。

 二人はお菓子を食べながら、他愛もない話をした。



「――それじゃあ、私はそろそろ帰るね」

 時計を見たら、夕方5時近くになっている。沙奈は立ち上がった。


「もう、こんな時間なんだ……」

 瑞希は沙奈を見送るために玄関まで行く。


「また、遊びに来てください」

 瑞希は沙奈に向かって言った。


「うん。じゃあ、バイバイ」

「さようなら」

 二人は互いに別れの挨拶をし、沙奈はその場を後にする。


「……なんで沙奈ちゃんは『吸血鬼は本当にいると思う?』なんて聞いたんだろう……」

 瑞希はそんな事を考えながら、沙奈の後ろ姿を見送った。



***


 ――翌日。


「瑞希。最近この辺りで変な人が出たって。佐藤さんのお母さんから聞いたんだけど」

 瑞希は朝食を取っている時、雅子はこんな事を言い出す。


「変な人って……?」

「男の人なんだけど、なんでも声をかけられたみたいよ。いい? 知らない人に声をかけられても、着いてっちゃダメよ」

 瑞希は「はい」と返事をする。


 このとき、瑞希は沙奈のことが頭に浮かんだ。

――沙奈ちゃん、初めて会った時に迷いもなく声をかけてきたな……知らない人が苦手じゃなさそうだし、なんか着いて行っちゃいそうだなぁ――瑞希は一人、心配になってきた。



 ――下校中のことである。瑞希はいつも通り一人で帰っていた。


「君、ちょっといいかな?」

 瑞希は声がした方に振り向く。そこには若い男が立っていた。


「あの……私、ですか?」

 瑞希は恐る恐る男に尋ねる。男はラフな格好をしていた。年齢は二十代前半ぐらいに見える。とても優しそうな人だ――瑞希はそう思った。


「ああ、君だよ。実は道に迷ってしまって……。ここがどこだか教えて欲しいんだけど……」


 ――この人は知らない人だ。けれど、本当に困っているように見える。道を教えるくらいなら大丈夫だろう――そう考えた瑞希は、道を教えることにした。


「えっと、ここはですね――」

 瑞希はこの辺りの道について、丁寧に説明をする。


「なるほど。どうもありがとね」

「いえ、どういたしまして」

 瑞希は微笑む。


「お礼に何かしたいけど……君は何が好き?」

「えっ?別にいいです」


 瑞希は男の申し出を断る。すると、男は瑞希の手を握った。


「遠慮しないで。何でもするから」

 男は瑞希の手を放さない。瑞希は困惑している。

(どうしよう。このままだと連れて行かれてしまう)

 瑞希は必死に抵抗したが、男の力には敵わない。瑞希は恐怖で涙が出そうになった。


「じゃあ、一緒に遊ぼうか」

 瑞希はそのまま引っ張られていく。やがて人気のない雑木林に連れていかれた。

 「誰か助けて」瑞希は心の中で叫んだが、声が出ない。



「さあ、何にして遊ぼうか?」


 男は優しそうな態度から一転、下卑た笑みを浮かべる。男は瑞希を押し倒した。

 瑞希は恐怖のあまり、声さえ出すことができない。男は瑞希の上に馬乗りになった。


 不意にカサカサと、茂みの音が聞こえてくる。

「汚い手で瑞希ちゃんに触るな!」


 叫び声と共に、男が宙に浮かび上がる。次の瞬間、男は大きな音を立てて、木に叩きつけられた。


 ――一体何が起こったのか? だが、瑞希はこの声に聞き覚えがあった。


「沙奈ちゃん?」

 瑞希は体を起こす。そのとき目に飛び込んできた光景に釘付けになった。


 木にもたれかかっている男の喉元に、沙奈は噛み付いていたのである。

 沙奈は喉元に食らいつくいていたが、しばらくして、口から離す。男は動かなくなった。


「……沙奈ちゃん?」

 瑞希は呆然としながら沙奈の名前を呼ぶ。沙奈は何も言わずに立ち去る。



 ――考えるよりも先に、瑞希は走り出した。正直に言うと、今の沙奈は恐ろしい。けれど、沙奈を失うこと、瑞希にとってはそれの方が恐ろしかった。

 沙奈は、一人ぼっちだった時にそばにいてくれた――瑞希にとっては、かけがえのない、大切な友達だ。瑞希は無我夢中で走っていた。


 沙奈の姿はすぐに見つかった。沙奈は近くの公園のベンチに座っている。

 瑞希は息を切らしていたが、沙奈の姿を見て安堵する。瑞希は沙奈の座っているところに歩いていく。


「来ないで!」

 近づいてきた瑞希に気付くと、沙奈は怒鳴った。

 瑞希は思わず体をびくつかせる。


「……ごめんなさい、瑞希ちゃん」

 沙奈は弱々しい声で謝ってきた。


「沙奈ちゃん、なんで謝るの?」

 瑞希は沙奈に尋ねる。


「それは……瑞希ちゃんに怖い思いをさせちゃったから……」

 沙奈は相変わらず、弱々しく答える。その表情は暗い。


 ――ねぇ、吸血鬼って本当にいると思う?――そういえば、沙奈がこんなことを言ってたな。瑞希はふと、思い出した。


 瑞希は首を横に振る。

「怖いのは、おじさんの方だよ。沙奈ちゃん、私を助けてくれたもの」

 瑞希は沙奈を真っ直ぐな目で見据えた。


 沙奈は口元に笑みを浮かべたが、表情は暗いままだ。

「私が瑞希ちゃんに話しかけたのは、瑞希ちゃんが一人ぼっちだったからだよ」

 そう語る沙奈の目は、やはり暗い。


「話しかけてくれたの、私、嬉しかったよ! だって、あの時、友達がいなくて寂しかったんだもん」

 瑞希は沙奈から目を離さなかった。


「だから私は声をかけたの! 血を吸うつもりだったんだ。私はあのおじさんと変わんないよ」

 沙奈はせせら笑う。


「そんなこと言わないで……」

 沙奈の冷笑気味な物言いに、瑞希は悲しくなる。


「じゃあね」

 沙奈はベンチから立ち上がると、瑞希と反対方向を向いて、歩き出した。だんだん瑞希と離れていく。


「沙奈ちゃん! 吸血鬼でも、大好きだよ!」

小さくなっていく沙奈の背中に向かって、瑞希は叫んだ――。



***


 ――9年後。瑞希は大学生になる。この歳になっても、引っ込み思案が抜けない。それでも、友達はいるし、サークルにも入った。派手さはないものの、それなりに充実した毎日を送っている。


 ――ある日のこと。授業が終わったので、いつものように帰路に着く。そんな瑞希の前を少女が通りかかった。


「あの子は……」


 歳は12か13くらいだろうか。艶やかな長い黒髪に、瑞希は見覚えがあった。

 瑞希は立ち止まって、少女を目で追う。少女はいなくなっていた。

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私には沙奈ちゃんという友達がいました 奈々野圭 @nananokei

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