そうだ、秋の夜長に桂花酒を傾けよう

 日が落ちる速さも、だんだん速くなってきた。

 干した布団を取りに行く時間がだんだん速くなったり、早朝が寒くなったりしていると、秋も深まってきたんだなあと思ってしまう。

 買い出しに車を走らせているときだった。その日はトイレットペーパーにティッシュペーパーと、日用品を取りに行っているとき、ふんわりと甘い匂いがすることに気付いた。


「あっ」


 金木犀だ。

 海の近くでも咲くんだなと感心しながら帰った。

 私が「ただいまー」と言いながら入ると、珍しく返事がない。春陽さん、今日は体調悪かったっけ。私は首を捻りながら「春陽さん?」と声をかけると、彼女は台所のシンク台下を漁っていた。


「あれ、春陽さん?」

「あ……お帰りなさい。買い物どうでしたか?」

「普通だったよ。あと、金木犀が咲いてた」

「ああ……もうそんな季節でしたっけ」


 そう言って彼女は顔を綻ばせる。いつもせかせかと忙しかった都会に比べて、ここはのんびりしている。人と話を合わせるために最近のドラマや映画を見る必要もないから、季節の変わり目を感じるのは、空の色や花の匂いなんて言ってしまうと、どこかの貴族みたいな感覚だ。

 春陽さんはシンク台からがさがさ探していたのは、リカー瓶のようだった。


「そろそろ秋だし、それっぽい果実酒をつくっていたはずなのに、どこに行ったのかなと思って探してたんですよ」

「へえ……梅酒はつくっていたと思ったけど、果実酒もつくってたんだ」

「葡萄とか、一部のお酒でつくったら酒法に違反してしまいますけどね、発酵しにくいお酒をリカーに漬け込んでいるのは大丈夫なんで」


 そういえば葡萄が手で少し潰しただけで簡単に発酵するから、基本的に禁止なんだっけなとどこかで見た知識で思い至った。

 ようやく「あった!」と取り出したリカー便を見て、私は「すごい」と手を叩いてしまった。黄色いお酒が出てきたのだ。漬け込んでいるのは、多少漬け込んで崩れているけれどりんごだろう。一緒に浮かんでいるのは、どう見ても金木犀だった。


「金木犀って、お酒にできたんだ」

「前に住んでた場所では、近所の人に金木犀を分けてもらえましたから。ええっと、中国のお酒で桂花酒って知りませんか? 金木犀を漬け込んで花の匂いを移したお酒なんですけど」

「聞いたことはあるような、ないような……」

「いろいろ料理をつくって、どうにかして金木犀の匂いを移したくっても、なかなか駄目なんですよね、桂花酒くらいしかつくれません。もしよかったら、晩酌にいかがですか?」


 そう言われて、胸がときめいた。

 お酒は好きだし、金木犀の花の香りのお酒がどんなものか、楽しみだった。


「うん、喜んで。あっ、おつまみどうしようか」


 桂花酒と言われても、この手のお酒は甘いから、なにが合うかな。春陽さんは「そうですねえ……」と言うと、思いついたことを口にした。


「チーズとかがおいしいと思いますよ。お酒の味を邪魔しませんし」

「よし、じゃあそれにしようか」

「はい」


 晩酌に飲むのがいいかな。今日の晩ご飯はあっさりとしたものにしようと考えながら、夜飲みに思いを馳せることにした。


****


 その日の晩ご飯は、どうしようかと考えた結果、揚げ豆腐に大根おろしをたっぷりかけ、ネギとなすの味噌汁、買ってきたあじのみりん干しを焼いて食べた。

 思えば、こうものんびりした日を送るようにならなかったら、料理を真面目にやらなかったなあと思い返す。せかせかしているのが苦手な人間なのに、余計に無理をしていたんだなと思い至る。

 ご飯をおいしいおいしいと食べてから、私たちは早速晩酌の準備をした。

 チーズは家になにが残っていたっけと探したら、前に春陽さんがチーズケーキを焼いた残りのクリームチーズがあった。


「春陽さん、残ってるクリームチーズ、晩酌のおつまみに出しちゃっていい?」

「いいですよー」

「はあい」


 クリームチーズを適当にアルミ箔から外してお皿に盛り付けた。おかかでも振ろうかなあとも考えたけれど、今日のメインは桂花酒だから止めた。

 私がそわそわしながらチーズを持ってきたのに、春陽さんはくすくす笑って耐熱グラスにポットを持ってくる。


「そこまで美奈穂さんがうきうきするほどのものでもないですよぉ」

「そんなことはないと思うけど」

「まあ、りんごが入っているので、そこまでまずいものでもないですけどね。それではどうぞ」


 そう言いながら、春陽さんは耐熱グラスに桂花酒を注ぎ入れた。ふわんと香る金木犀のいい匂いに、ほんのりと甘酸っぱいりんごの匂いが後追いする。思っている以上に深みのある匂いに驚いた。

 それを半分くらい入れてから、ポットでお湯を注いでかき混ぜて出してくれた。


「はい、どうぞ」

「もうこの匂いでおいしそうだけれど……いただきまあす」

「はあい」


 口にしてみて、少し驚いた。てっきりもっとりんごの味が主張するのかなと思っていたけれど。最初にしたのは甘酸っぱいりんごの味で、次に金木犀の匂いと一緒に苦みが際立ち

、再びりんごの味が後追いをして丸くまとめるという、奥行きのある味がした。

 なによりも金木犀単品だと、どうしてもあちこちで香料に使われがちだからそれを連想してしまうのに、りんごの酸っぱさを足したことで、匂いが丸くなってるんだ。


「おいしい……でもなんか不思議」

「うーん、桂花酒って結構奥が深いんですよね。金木犀だけ漬け込んでしまうと、香りはたしかに閉じ込められるんですけど、匂いがきつくなって味も渋くなってしまうんです。だからどの果物とだったら匂いが際立つかとか、味がよくなるかとか、いっつも悩むんですよ」

「へえ……たとえば?」

「前は梨だったら邪魔しないかなと思ったんですけど、梨ってお酒に漬け込むの結構大変で。あれって結構果物の中でも水分量が多いんで、漬かる前に傷んじゃったんで泣く泣く捨てたんですよ」

「あー……梨はたしかに食べるとおいしいけど、加工するの大変かも」

「缶詰の梨を使うのは簡単ですけど、これじゃない感が強くって。柑橘類も、使うものによっては柑橘の匂いが勝ち過ぎたり、皮から苦みが出ちゃったりして、なかなか上手くいかなかったんですよね。この年はりんごで比較的安定した味が出ましたね」


 たしかに苦みが出ない、金木犀の匂いが引き立つの条件だと厳しいな。

 クリームチーズも口にすると、クリームチーズのクリーミーさがますます桂花酒の味と匂いを引き立てておいしい。

 クリームチーズにも合って、金木犀の匂いにも負けない……そこでふと言ってみた。


「梨が難しいって言ってたけど、桃も難しいかな?」

「桃ですか……桃もかなり水分量ありますし、そういえばリカーに漬けたことはなかったですねえ。たしかに硬めの桃でやったら、金木犀の匂いとも相性がいいかとは思いますけど……でも根本的な問題、金木犀がないと駄目ですよね」

「あっ」


 うーん、金木犀と桃のお酒は飲めないか。残念。

 そこで春陽さんが言い出した。


「なら金木犀育てましょうか」

「んん?」

「庭も雑草抜いている以外は特になにも育ててませんし、いい機会ですから」

「でも潮風に金木犀当てて大丈夫かなあ?」

「うーん、この辺りって確かに潮風吹いてますけど、でも直接当たりませんし、普通に街路樹もありますよね? なら少しくらいなら大丈夫じゃないです? 別に野菜つくって売る訳じゃないですし」


 それもそうか。

 私たちは、明日にでもホームセンターに行って、金木犀の苗を買ってこようと話した。

 いつになったら花が咲いて桂花酒がつくれるかはわからないけれど、それまで枯れぬように、大事に育てることにするのだ。

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