そうだ、海鮮丼をいただこう

 今日は久々に会社に出勤で、私は朝から車を出して出ることにした。

 久々のスーツにしっかりめの化粧をしているのを、春陽さんはまじまじと眺めていた。


「会社のほうに出かけられるんですねえ」

「さすがに健康診断ともろもろの用事があるから。あんまり遅くはならないと思うけど。車出しますからなにか必要なものがあったら買ってくるけど、なにか欲しいものはない?」

「そうですねえ……」


 春陽さんはこのところ、出版社から送られてきた原稿と格闘していて、料理のほうをつくっていない。レシピ本ってこうやってできるんだなと、あまりにも細かい指摘がやって来るのに、ポカンとなって見守ってしまう。

 どうも彼女も疲れているみたいだし、今晩は店屋物でもいいかもしれないな。


「じゃあ今日はもういっそ、店屋物にしようか。私帰ってくる前に好きなもの頼んでていいから」

「んー……そういえば、あそこのお寿司屋さん、秋の限定メニューがあるっぽいんですよねえ」

「じゃあそれで。私もそろそろ出るから」

「あっ、行ってらっしゃい」


 春陽さんにそう挨拶してから、私は車を走らせた。

 健康診断と所用だから、そこまで時間は取らないと思うけど。海を眺めながら、会社へと出かけていったのだった。


****


 都会は本当に、ごみごみしている。

 人が多いし、なによりも無遠慮な人が多いっていうのが苦手。


「あれ、兼平さん。お久し振りー。いきなり引っ越したって聞いてびっくりしちゃった。田舎暮らし満喫してるー?」


 健康診断で並んでいる中、早速無遠慮に大声で呼び止められて、内心サリッとした。人の噂が趣味な人は、これだから苦手なのだ。私は適当に答える。


「楽しいですよ、ご飯はおいしいし、夜は静かだし」

「いいなあ……駅チカでコンビニもスーパーも徒歩圏内にないと生活できない私からは想像できなあい」


 それはあなたの趣味でしょ。私はそういう趣味じゃないし。イライライラッとしたものの、「お待たせしました兼平さん!」と呼ばれたことで、ほっとした。


「呼ばれたから。それじゃあ」

「あー、今度お茶しませんか?」

「機会があれば」


 多分そんな日は来ないだろうな。つくづく、自分にとって居心地のいい場所に家を買えてよかったと思う。

 下世話な人と物理的に距離を置ける。

 健康診断は血液検査にレントゲン、問診をされて滞りなく終わり、私は帰ることにした。

 本当にこれだけだったのに、疲れちゃったな。

 私は駐車場に戻る前に、カフェにでも寄ろうかと思ったけれど、辞めた。

 前はカフェでコーヒーを飲んで、適当にBGMを聞きながら本を読むのが好きだったと思うのに、今はそんな趣味がなくなってしまった。

 春陽さんが日頃からつくっているものを味見しながら、ときどき私がお茶を淹れて、潮風を浴びながらのんびりと生活する。

 本当に今の程よい田舎暮らしが、私の性に合ってしまったみたいだ。早く帰りたい。

 お土産になにか買って帰ろうと思ったけれど、いいものが思い浮かばなかった。結局は行きつけだったお菓子屋でフランス風のクリームをたっぷり挟んだマカロンを買って、車を走らせることにした。

 私が家に着いたときは、まだ日も高く、「ただいまー」と言いながら家に入ったときは、カリカリというペンの音だけが響いていた。しばらくしたら停まり、ひょっこりと「お帰りなさい」と春陽さんが顔を覗かせた。


「ただいま。原稿どう?」

「朝から粘りましたので、なんとか出版社に遅れそうです。もうちょっとしたら宅配便呼びますね」

「そう、お疲れ様」


 やっぱり春陽さんは一緒にいると、楽なんだ。適度に距離を保って、下世話な会話がない。人間関係が趣味じゃない私は、人のどうでもいい情報を大量に聞かされ続けると、いまいち具合が悪い。

 そう思うと、基本的に自分の好きなことしかしていない春陽さんが、仕事の話をしているのを聞いているほうが、私にとっては楽なんだ。知らない人の噂話を聞くよりも、知らない仕事内容を聞く方が、私の性には合っている。

 春陽さんはようやく赤ペンの蓋をして「終わったぁ……!」と叫んだ。


「お疲れ様。じゃあ宅配便呼ぼうか。ついでに店屋物頼むけど、どれにする?」

「ええっと、限定メニューを……」

「どれどれ……限定メニュー、海鮮丼? 今ってなにが新鮮なんだろう」

「そうですねえ。戻り鰹とか、サンマでしょうか」

「サンマ。私、サンマの刺身って食べたことない」

「あれも本当に新鮮じゃなかったら、途端に生臭さが際立ちますからねえ。サンマの脂はおいしいんですけど、ちょっと劣化したら途端に臭みに替わってしまいますから」

「うん……じゃあこれにしようか」


 とりあえず封筒の準備をして、宅配便の手配をしている春陽さんを眺めながら、私は寿司屋で季節の海鮮丼をふたつと、赤だしをふたつ注文した。

 先に宅配便が春陽さんの原稿を回収していったあとに、寿司屋が届けてくれた。

 久し振りの寿司屋のメニューにわくわくしていたら、相変わらず新鮮な魚をぎっしりと使った海鮮丼がやってきた。

 この背が銀の奴がサンマで、この赤いのが戻り鰹だとして、残りはなんだろう。

 私は「おいしそう」と言いながら、乗っているのをひとつ摘まんで、醤油をかけていただいた。身がぷりんぷりんと弾力があって、歯ごたえがしておいしい。これ本当になんだろう。


「わあ……ウメイロですね。この辺りだったら獲れるんだ」

「ウメイロ……なに?」


 聞いたことがない魚で、いまいちピンと来なかった。


「元々は日本でも南のほういる魚なんですよ。味がいいんですけど、大量には獲れませんからちょっと値段は高めなんですよね」

「へえ……じゃあスーパーで出回ってないだけで、結構あるのかな」

「どうでしょうね。この辺りじゃ一本釣りが主流だったと思いますけど」

「……お寿司屋さん、まさか一本釣りしてないよね」

「あはははは……まさか、そんなことはさすがにしてないと思いますよ」

「う、うん。そうだよね。ああ、おいしい」


 甘鯛も歯ごたえがよくておいしく、戻り鰹は脂肪の乗り具合が絶妙で、いくらでも食べられる。そうこうしながらも、赤だしも飲んでしまおうと口にする。


「寿司屋って大概赤だしだけれど、寿司の邪魔しないこの味ってなんなんだろうね」

「そうですねえ。だいたいお寿司に使った魚のあらでだしを取っているので、味が魚同士で落ち着くんでしょうね。あと赤味噌を使っているのは、生臭さが出ないからかなと」

「なるほどなあ……」


 私がすすっていると、春陽さんがまじまじとこちらを見てきた。なんかあったっけ。そう思っていたら、彼女が尋ねてきた。


「落ち着きましたか?」

「ええ?」

「今日、美奈穂さんずいぶんと無駄口が多いなと思いまして。普段から用事がないときは落ち着いているのに、自分からたくさん話をしているので、なにか嫌なことでもなったのかなと」

「あー……」


 わかりやすいのかな。自分ではそのつもりはなかったんだけれど。赤だしをすすってから、私は答える。


「会社でちょっとね。別に仕事のミスを責められたりとかではなく、ただ人の噂話が嫌いなだけ。私が家を買って引っ越したことを、娯楽として消費されたのよ」

「別にいいじゃないですか。美奈穂さんのお金でしょ」

「そういうのを面白がる人っているからね」

「わたしは、もし美奈穂さんが家を買ってくれなかったら、根無し草のままでした。このまま都会のコンクリートジャングルで死んでたかも」

「いや、死なないと思う。春陽さん意外と生活能力あるし」

「死にますよ。多分死んでました。だから、美奈穂さんには感謝してるんです」


 そう言われるとくすぐったい。

 自分でもあんまり愚痴は吐きたくないし、人の愚痴を聞かされ続けて嫌になったのはある。だから自分でも口にしたくなくって自己中毒に陥りかけたとき、春陽さんにどれだけ助けられたのかがわからない。


「ありがとう」

「海鮮丼おいしいですよ、食べましょうか」

「そうね」


 ふたりで食卓を囲めることが、どれだけ大事なのか。

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