空耳

連喜

第1話

 俺は五十代で童貞のキモメンだ。現役で有名大学に進学したけれど、受験で燃え尽きてしまい、気が付けば朝起きれなくなっていた。出席の厳しい大学だったから、1年で中退しなくてはならなくなった。早々と留年が決まってしまったのだ。


 地方出身だから都内で一人暮らしをしていたものの、中退後も実家には帰らなかった。母親が近所や親せきに息子が有名大学に合格したことを触れ回っていたから、わずか一年でやめましたと言うのは恥ずかしいと言われたからだ。母親は息子を完璧に育てた、私の教育方針は正しかったと自信満々だったが、その鼻を俺が見事にへし折ってしまったのだ。母親はショックのあまり精神的に不安定になっていると聞いていた。郷里は遠いから俺が学校をやめたことを知っている人はいないだろうと思う。そんな田舎から、その大学に行く人は滅多にいなかったからだ。


 そもそも、俺がなぜそんなに勉強していたかというと、九十パーセントは母親のせいだと思う。母はスポーツなんかやらなくていいから、とにかく勉強しろという人だった。母は専業主婦で働いていなくて、一人っ子だったから、俺に対する期待は大きかった。習い事は習字、ピアノ。田舎でピアノを習っている男子はほとんどいなくて、オカマ野郎とからかわれてもいた。女子にちやほやされた記憶もない。


 勉強も同時にやらされた。小学校に入ったら、毎日の宿題にドリルが追加され、常に先取り学習を強いられていた。こんな調子だから学校のテストはほぼ満点だった。俺は天才と呼ばれていて、クラスの嘲笑の的になっていた。これが東京や兵庫県などなら、中学からいい学校に入ったりということもできたかもしれないが、私立の学校などない、ど田舎だったから、ガリ勉=変人という扱いをされていた。こういう人でも、スポーツができるならまだ友達ができたかもしれないが、俺はスポーツをすることを許されなかった。スポーツをやっていると馬鹿になるというのが母の口癖だった。俺もそう思っていたが、その後、進学した県で有数の高校では、スポーツをやりながら勉強もできる人が大勢いた。俺の人生はほぼ勉強だけで、読書以外の趣味はなかった。読書だって好きな本が読めたわけではない。本当に興味のある本は図書館で読むだけで、家で見るテレビ番組や部屋にある書籍なども親がチェックするような環境だった。そのため、男女がどうやって子どもを作るかを高校の保健体育の時間に習うまで知らなかったほどだ。彼女を作って、セックスなんて俺には到底不可能で、別の国の話のようだった。こういう男をかわいいと思ってくれる心の広い女性が日本のどこかにいることを願う。


 さて、こんな風にして大学に進学してみたものの友達はできない。就職のためにサークルに入ってみたものの、同級生と話が合わずまったく楽しくない。大学でもずっと一人だった。家でも一人。特にやりたいことがあったわけでもなく、講義を休むようになった。何回か休んでも大丈夫だと思っていたが、次第に大学自体にも通えなくなってしまった。こうして、ほとんど行かず、単位も全く取れないまま俺は大学を中退した。


 母親は俺に実家に戻って欲しくなかったから、仕送りを送ってくれていた。以前と同様、月十五万が振り込まれていた。俺は東京に誰一人友達がおらず、部屋にいつも一人だった。働く元気もなく何もできない。本一冊読むことができなくなってしまった。同じ個所を何度も何度も読んで、それでも内容が頭に入ってこない。


 暇だから気分転換に夜中散歩に出る。すると、目の前を歩いている女の人が俺のことを何度も振り返る。不審者だと思われているのだ。職質にあったことも数回あった。


 だから早朝に散歩に出るようになった。そうすると、ほとんど怪しまれない。朝日を浴びると体内時計がリセットされて睡眠ホルモン「メラトニン」が抑制される。よるぐっすり眠れるようになり、ホルモンバランスや自律神経の働きも整えられる。


「おはようございます」

 犬を連れた高齢の女性が声をかけてきた。

「おはようございます」

 俺は挨拶した。相手はびっくりしたような顔をしていた。なぜかわからない。


 それからすれ違う人がみな俺に「おはよう」というようになった。俺は恥ずかしいから黙礼する。まるで登山の時に、すれ違った人に「こんにちは」と言うのに似ていた。都内でこんなフレンドリーな土地柄があるのかと思って俺は意外だった。


 ちょっと明るい気持ちになって、俺は人に話しかけるようになっていた。


「かわいいワンチャンですね」

 

 犬が寄って来ると、飼い主にそうやっておべんちゃらを言っていた。変な顔をする人もいたが、そうしているうちに何人も知り合いができて来た。お年寄りなんかは俺を覚えてくれてて、パンやお菓子をくれるようになった。


「朝ごはんに食べて」


 人からそんな風に親切にしてもらった経験がないので、俺はすごく感激した。毎日が充実していた。そのうち、お年寄りのために何かしたいという思いが芽生えて来た。


 ある朝、公園に行くと俺の方に警察官が寄って来た。

「おはようございます」

 俺は笑顔で挨拶した。

「ここで何をしてるんですか?」

「筋トレです」

「そうですか・・・」

「申し訳ないんですけど、あなたが犬の散歩に来た人に絡んでて怖いっていう相談が複数寄せられていまして・・・」

 俺はショックで頭が真っ白になった。

「そうですか。すみません。気が付かなくて」

 俺は謝った。


 警官によると、俺が真冬なのに半袖短パン姿で公園にいて、来る人来る人に声をかけまくっていて気持ちが悪いと、近所で噂になっているということだった。それ以来、俺は外出するのを控えるようになった。恥ずかしいから、その当時住んでいたアパートから引っ越した。


 それからは、人のいないところを求めて暮らしている。

 今はぽつんと一軒家みたいな所にいる。

 それでも時々、人の声が聞こえて来る。


「イケメンですね」

「平野紫耀に似てるって言われませんか?」

「一緒に写真撮ってもらえませんか?」

「サインお願いできますか?」

 

 俺はどこに行っても、常にファンに追いかけられている。

 

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空耳 連喜 @toushikibu

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