第38話 キキョウの過去
★
「はぁはぁはぁ……」
呼吸をするたび喉と鼻に痛みが走る。
氷点下を下回る気温の中、私は麻でできた服一枚で外に放り出されていた。
『ガルルルルッ』
目の前には氷狼と呼ばれている大型の獣がいて涎を垂らして私を見ている。その瞳は獲物を嬲るもので、事実互いの身体の大きさからして、私は狩られる側だった。
右手に持っている短刀は頼りなく、たとえこれを突き立てようとしても氷狼の硬い毛に阻まれてしまった。このままでは遠からず、私は喉を噛み切られ、苦しみにのたうち回ることになるだろう……。
「ち、父上……た、助けて……」
幼い私は、視線を逸らすと父上に助けを求めた。
本能でこの獣に勝てないと察し、情けない声ですがるしかない。
それ以外に自分の身を守る方法はなかった。
だけど、父は腕を組んだまま何ら行動することもなく……。
「桔梗よ、お前はまだ自分の力をわかっていない。この父の娘であるからにはこの程度の氷狼に負けるはずがないのだ。私はお前くらいのころには氷狼を討伐した経験がある。逃げることばかり考えているからこの程度の獣に怯えるのだ。私を失望させるな」
その時、私は恐怖した。目の前の氷狼にではない。このままでは父上に見捨てられてしまうという事実に……。
私はおそれながらも、氷狼を睨みつけ、短剣を構える。ここでもし何もしなければ確実な死が待っていると悟ったからだ。
「うわああああああああああああああああああああ」
涙で視界がはっきりしない中、私は死に物狂いで戦った。
◇
「うっ……朝……でしょうか?」
身体を起こすと、迷宮ではなく小屋の中だった。
「そういえば、私は……」
ライアスに抱き着いて、彼の匂いと心臓の鼓動を聞いている最中に安心したのか、そのまま意識を失ってしまったようだ。
「汗が気持ち悪い……」
布団に横たわっていたことから、ライアスが寝かせてくれたのだろうことがわかる。彼のことだから、不必要に身体に触れることはしなかったはず。
その証拠に、衣服に一切の乱れがない。
「お風呂の用意……いえ、水浴びにしましょう」
どうにも頭がぼーっとするので、スッキリさせるためにも私は水浴びをすることにした。
近くの川まで走ると衣服を脱ぎ棄て水に全身を浸す。
熱と共に思考がはっきりしてきた。
「どうして、今頃あのような夢をみたのでしょうか?」
胸元に手をやると、心臓がトクントクンと音を立てる。それだけ、あの夢が私の心に不安を落とし込んで来た。
「私はもう、あのころの臆病なままではありませんのに」
父上の失望したかのような顔が浮かぶ。彼は自分の期待に添わなければ、たとえ実の子といえでも見捨てる人間だった。
「強くなったはずなんです……」
水面に浮かぶ父の顔を振り払うと、私はそう呟く。
今の自分は幼き頃、氷狼と戦った時よりも、このユグドラシル迷宮に転移させられてきた時よりも格段に強くなっている。
今更、父の幻影に怯える必要はまったくないのだ。
「だけど……」
昨日の光景が思い浮かんだ。
見たこともないような巨体と、鋭い牙に爪。射殺されるではないかと思った金色の瞳に身体が震え縮こまった。
あの時、ライアスが叫ばなければ、自分は脱出石を使うことなくドラゴンの攻撃に身を曝してしまったに違いない。
「あんなのがいるなんて……」
チャプンと水音が立ち、私は身体を抱く。思い出すだけで恐怖が浮かび耳から尻尾まで震えが止まらなくなった。
これまで、私が上手く立ち回ってこられたのは運が良かっただけだった。
ライアスという先駆者に知識を分け与えてもらい、共に行動することで力を引きあげてもらった結果に過ぎない。
彼にも予想外な場面であれば、あっさりと死の危険に首を突っ込むことになると、今回の件で知ってしまった。
「彼はどこにいるのでしょうか?」
今までならば意識を取り戻すまで傍にいてくれたはずなのだ。
もしかすると、強敵を前に気絶した自分に見切りをつけたのではないかと不安が頭をもたげた。
水面に自分の顔が映る。その表情は自分で思っていたよりも弱弱しく情けない姿をしていた。
これでは、彼に会った時に本当に想像通りになりかねない。
「大丈夫、私はやれる……やらなきゃならないんです」
例え、どのようなモンスターが相手だとしても戦って倒さなければならない。もし、ここでライアスにすら見捨てられてしまったら……。
私は悲痛な覚悟を決めると、水浴びを済ませ、衣服を身に着ける小屋へともどった。
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