二人目

「...なんか怖いものを見た気がするんだけどなぁ〜。なんにも覚えてないや」


「そ、そうなんだ。疲れて眠っちゃったんじゃない?」


「そうかなぁ?」


時刻は朝の七時。トーストにマーガリンを塗り、アリスが作った目玉焼きとサラダの軽い朝食を食べながらの母との談笑。昨夜バベルに連れ去られた母は記憶が曖昧になっているらしく、何も覚えていないらしい。アリスにとってもそちらの方が都合が良いのでそのまま忘れておいて欲しい。トーストをかじりながらいつもと変わらない会話を楽しむ。まるで昨日命のやり取りがあったのが嘘のように平和だ。だが、昨日起こったことは間違いなく現実だとアリスの手の中で消えた命が明確に教える。起きた時も自分がバベルを殺したという事実がアリスの表情を曇らせた。

朝食を食べ終え食器を流しに母が置いていく、中学生にもなって自分で食べた食器をアリスが持っていかないのはシンクに映るバベルを怖がっていたアリスのためだ。


バベルを殺したアリスだが、だからといってバベルへの恐怖心が無くなることは無い。男に襲われた女性が、加害者が逮捕されても男性恐怖症が残り続けるように、バベルを殺してもアリスの中にはバベルに対しての恐怖感は拭えない。寧ろ、幻覚ではなく実在している化け物であること、命を狙われることを知った今、恐怖は増幅したと言っても過言では無い。


「じゃあ、洗い物してるから部屋戻ってていいよ」


「分かった...」


バベルを殺す力を手に入れてもなお母には苦労をかけている。そんな自分に自己嫌悪しながらアリスは自分の部屋へ戻ると、誕生日に買って貰った白い猫のぬいぐるみのチシャがベッドの上に座りこちらを見ている。プラスチックで出来た黒い目から表情は読み取ることが出来ず、何を考えているか分からないぬいぐるみの顔でこちらへ語りかける。


「来たよ、行こうか」


「....分かった」


短い言葉でやり取りし、アリスは今まで遠ざけて生きてきた窓ガラスに手を伸ばす。窓ガラスはアリスの手を拒むこと無くその体を受け入れる。そのまま吸い込まれるように腕からどんどんと身体全てが入り込んでいく。一瞬の眩しさに目を瞑る。

目を開けると家の近所の公園と呼ぶには不相応な程の森林。樹齢100年はゆうに超えている木々がズラズラと並び、見た事ない赤色の花が青い蜜を流している。植物学者が来たら涙を流すほど新種の植物が並んでいるアリスの住む世界とは違うもう1つの異世界『失楽園』だ。


「こっちだよ、武器は出しておいて」


「....うん」


チシャの指示に従いアリスは自身の武器である三又の槍トライデントを出す。燃えるような真紅一色でカラーリングされた槍は悪魔的な印象を受ける。チシャが言うにはこの槍はアリスが失楽園で戦うことを選択した代物、らしい。槍を手に持って出現したバベルの所へ向かう。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「あれか...」


「....」


5分ほど走っただろうか。アリスとチシャの前には全身を赤の羽毛に包み、巨大な翼に鋭い爪を持ちながら、顔はやはり人間の顔だ。ムカデの様なバベルは男が笑っていた様な顔だったが、今回のバベルは怒った女の顔がついている。白目である場所がまるで穴が空いたような黒で染められており、奇声を上げながら太い鉤爪に人を挟み振り回していた。


もう力尽きた後なのだろうか、力は入っておらず振り回されている間もされるがままになっている。『遅かった』そう思ったアリスは周りに視線を配る。掴まれている人だけでは無い。森林の鋭い枝に貫かれた人間が吊るされている。目や鼻、腹部から出た枝は鮮血で染められており、その異質な光景に逆流して来る胃液をグッと堪える。


「..保存...してるの?」


「それか、趣味だね」


チシャは趣味の可能性もあると思っているが、アリスはこれが食料の保存だと知っていた。アリスがまだ小学生低学年の頃に図鑑で見た事があるからだ。自分が手に入れた餌を木に吊るして保存する鳥がいると、恐らくこのバベルがその鳥と同じ性質を持っているのだろう。しかし、図鑑で見た爬虫類や虫が吊るされているのとは違い人間が吊るされているだけでこうも目を背けたくなるのかと驚愕する。


「まだこっちに気づいてない。やるなら今かな」


「分かった」


槍を握る右手に力が入る。それは吊るされている人がこちらへ語りかけているように感じたからだ。『助けてくれ』『苦しい』『仇を打ってくれ』そうアリスへ懇願しているように光無き眼で見つめてくる。それに応えるようにアリスは槍を構え鳥型のバベルへ突撃する。


アリスが動いた事による空気の流れを大量の体毛で事前に察知したバベルは巨大な翼を羽ばたかせ、宙へと舞う。しかし、アリスは止まらない。バベルが空へ上がったタイミングでアリスは足に力を込め地面を蹴り込む。人間の限界を遥かに超えた跳躍力はアリスを容易にバベルへと導いた。高度が重なったアリスはバベルへ槍を刺突しようとするが、それは叶わない。


「アアアアアアァァァ!!!」


「あ....」


高度が重なった事によりバベルと目が合ってしまった。黒目で塗り固まれた女の顔がこちらを覗き込み、奇声を発して威嚇してくる。その声にすくんでしまい動けなくなってしまったのだ。前回の戦いでは母を守るということが鮮明にイメージ出来たが、今回は違う。


目の前に守る母はおらず、その代わりに無惨な死体が突き刺さっていることで自分の死が想像しやすい状況になっていた。『自分もああなるのではないか?』そう考えてしまうだけで手足は震えて上手く動かない。それに相手は長年自分を家の中に閉じ込めていた化け物。昨日今日殺したからと言って易々と克服できるものでは無い。恐怖で頭を支配され、心はトラウマで冷めていく。視界から色が消えていき、頭も真っ白になっていく。


「アリス!」


「くっ!」


チシャの言葉で意識をバベルへ持っていくも、空中で留まり身動きの取れないアリスに容赦なくバベルは襲いかかる。身体を回転させ、長い尾でアリスを地面へ叩きつける。背中から落ちたアリスは上手く呼吸が出来ず、苦しさに悶える。


「カッ!ハァ...ハッ!ゴホゴホ!!」


息が吸えず空になった肺の中にどうにか空気を入れようと身体が模索する。手っ取り早い解決策として肺の中の空気を一度全部抜き切る事にしたアリスの体は数秒の無酸素の後、正常に酸素を取り込もうとする。しかし、そんな悠長な行為をバベルが許す訳もなく追撃をしに上空から攻め入る。


バベルの戦闘方法は至ってシンプルだ、巨体を利用した物量作戦。上空から落ちてくる巨体を間一髪で躱し、反撃しようと槍を握りしめ振りかざす。


「あ...」


「何やってるんだアリス!早く攻撃しないと!」


しかし、すんでのところでアリス自身がそれを止めてしまう。チシャに助言されるが、アリスには届いていない。アリスの中にあるのは克服出来ていないバベルへの恐怖感と『罪悪感』だった。

バベルに対して恐怖を感じていることは分かっていた。それを克服しなければならないと思っていたし、恐怖を感じていなければ引きこもることなんて無かったからだ。しかし、罪悪感を持っている事に気づいたのは今この瞬間だった。


生き物を殺す事には罪悪感が伴う。小さい羽虫には対して湧かないが、犬や猫、大型の哺乳類である人間を殺すのは精神的に容易ではない。大きい生き物を殺すことに罪悪感が湧いてしまう大部分を占めているのは『ある程度の感情が理解出来てしまう』からだろう。人間は言わずもがな犬や猫も視線や行動でどのような感情を持っているかをある程度理解することが出来る。アリスが自身の中に罪悪感があると分かったのもバベルと目が合ってしまったからだ。鳥型バベルの黒目の中に見えた感情を知ってしまった。


『恐怖』を。このバベルは恐怖していた。何故それがアリスに分かったのかは分からない。自身も同じくバベルに対して恐怖を覚えているからだろうか?理由は分からないがバベルがアリスに恐怖している事は分かった。


「アアアアアアァァァ!!!!!」


「ぐっ!?腕!?」


呆然と立ち尽くすアリスは突如人間の腕に掴まれた。伸びてきた腕の出場所を見ると鳥型バベルの背中からだった。巨大な翼に隠れて良く見えていなかったが、鳥型バベルの背中には長い人間の腕が折り畳まれていたのだ。鳥型だから腕がないので、鉤爪に気おつけていれば捕まらないと考えていたアリスの考えが甘かった。ギリギリと万力の様に力がどんどんと込められていく事にアリスの体が悲鳴をあげ始める。


「うぅ!痛っ!」


「アリス!君の能力を使うしかない!」


「能力って..何?」


「君達は武器を発現させるだけじゃなくて武器特有の異能力があるはずだ!」


「でも、どうやって...いっ!」


「使おうとする意思があれば使える!」


「お願い!」


槍を振ろうにも固く握り締められてるため振るうことが叶わない状況にチシャが言う異能力に賭けるしかなくなった。身体が音を立てながら潰されていく痛みに耐えながら必死に能力を使おうと考える。その意思に反応する様に槍は赤く光るが、何も起こらない。どれだけ考えても、使おうと思っても槍は光る以外の反応を示さない。


「どうして発動しない!?」


その状況にチシャが理解出来ず大声を出す。アリスの意思が弱いのか、能力に何かしらの条件があるのか分からないが、今は使えない絶望的な状況なのは誰が見ても明らかだった。


手の中に収めたアリスを持ち上げ更に力を込めるバベル。握られる痛みに顔を歪めどうにかならないかと必死に思考する。しかし、思考するアリスの下では大きな口を開けて待機しているバベルの姿を見てしまった。獣のような鋭い牙ではなく、人間と同じくすり潰す為の平たい歯が見える。反撃されるのを恐れているバベルはそのままアリスを握り殺し、その血や内蔵を食すつもりなのだと悟った。


「い、嫌だ!辞めて!離して!」


自身の『死』というものがもう目の前まで来ているという事実に耐えきれなくなったアリスはバベルの手の中で意味の無い抵抗を始める。しかし、相手は自分より数倍も大きく、込められた力が緩むことは無い。バベルもアリスに対して恐怖を感じているため、その恐怖を取り除こうと必死になっている。握られている手の力が更に強くなり、いよいよ声も出せなくなってきたアリスは堪らず涙を流し始める。


「コッチよ」


小さな、しかし確かに聞こえた声だった。アリスとチシャ、それとバベルしか居ないこの空間から聞こえた女の声。その声と同時に発せられた二発の銃声がバベルを貫く。一発目はアリスを掴んでいる腕に、もう一発はアリスの下で待機していた顔へ。顔を貫かれたバベルは大きく体を仰け反らせる。顔を抑えるように腕で覆ったため、アリスは解放され尻もちを着く。落下による痛みは無く、解放されたという安堵の方が強いアリスは恐怖で乱れた呼吸を整えずに銃声の方を見る。


そこには一人の女が立っていた。身長はアリスよりも数段高く、百七十近いのだろうか、身長が高いだけではなく手足もかなり長い。長い足をジーンズに包み、上は白のパーカー一枚の楽な服装をしているのにモデルの人と見間違うほどスタイルが良い。顔つきも幼さが残っているアリスとは違い、シャープでハッキリとした輪郭に高い鼻にキリッとした目で知的な大人らしさを感じさせていた。明るいクリーム色の髪を縛りポニーテールにしているその女は見た目にそぐわない銃を構えていた。


「とりあえず、大丈夫そうね」


「危ない!」


アリスに目をやり外傷がないのを見て優しく微笑む女。その女が危険だと判断したのか、バベルはアリスではなく銃を持った女目掛けて鉤爪を構える。それを見たアリスが危険を知らせるが、意に返さないように女はアリスの方へ歩き出す。悠々と歩いている女に鉤爪が当たる瞬間、バベルの首を人間の腕が締め付ける。


その腕はバベルの背中から生えているバベルの腕であり、バベルは文字通り自分の首を自分で締めていた。何が起きているか分からないアリスはただそれを眺めている。アリスだけでは無い。自分の首を絞めているバベル本人でさえ、この状況に理解が出来ていなかった。地べたで制御が効かなくなった腕に困惑して転げ回っているバベルはなんとか逃げ出そうとするも自分の腕がそれを許してくれない。


「....さよなら」


女が一言言うと、締め上げていたバベルの腕はさらに力を込めて自身の首を折ってしまう。絞り出したような悲鳴をあげながらバベルはその場で崩れ、自殺という形で死んだ。


女はバベルの死体を横通りアリスへ近づく。

まだ整理が追い付いていないアリスに対してそれでも構わないという風貌で自己紹介を始める。


「私の名前は『山岸 カオリ』貴方と同じ鏡の国のアリス症候群よ」

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