失楽園

「さぁ、お母さんを助けに行こうか。鏡に手を伸ばしてみて」


「こう?...っきゃあ!なにこれ?」


チシャの言う通りに窓ガラスに手を伸ばし、ガラスに触れる瞬間、アリスの腕はガラスに遮られることなく何処かへ消えてしまった。


いや、消えたのでは無い。まるで水の中に腕を入れた時のように腕が窓ガラスの中に吸い込まれていたのだ。身体に不思議な感覚がまとわりつくが嫌悪感は無い。指を動かしていることも認識出来ているので今のところは何も身体に害はない。


「そのまま進んで、鏡の中に入ろう」


「...分かった」


少しの不安を持ちながら覚悟を決めて足を踏み出し鏡の中へ入るアリス。ドアを開けた時のように爽やかな風が髪をなびかせ、自然独特の匂いが鼻の中に香る。先程まで居たアリスの家の近所ではない、まるで富士の樹海のような深い森の中にアリスは立っている。見た事ない鳥の鳴き声と木々のざわめきが辺りを賑やかし、見覚えの無い場所に困惑する。


「ようこそ『失楽園』へ」


「失楽....園?」


「君が見ていた怪物の住処であり、人間が居る世界とは違うもう1つの異世界さ。色々複雑な話になるからお母さんを助けた後に説明してあげる」


「....分かった」


チシャの先導のもとアリスは母を探しに走る。地面には百足の化け物が這いずったであろう跡があり、それを辿る。普段学校にも行かず、ろくに運動もしていないアリスが全力疾走しても疲れを感じない。それだけではない、身体が羽毛のように軽く自分の体じゃないかのように素早く動けている。普段のアリスならばどれだけ頑張っても50mは17秒くらいかかってしまうが、今は3秒もかからない。自身の身体に何かが起きているのを感じながらアリスはチシャと共に走る。どれほど走っただろうか?チシャが足を止めたのを見てアリスも止めると、母親が木の根に倒れている。


「お母さん!」


「駄目だ!まだ近くに居る!!」


チシャがアリスへ注意喚起を行うと地面から先程の百足の化け物が勢い良く現れる。身体を震わせている化け物はアリスへ視線を向けると、明らかな敵意を露わにして威嚇を始める。


「シュロロロロ!!!」


「っっ!...お母さんを返して!」


細い筒から空気を発したような威嚇音に怯まされるアリスだが、母親を取り戻すのだと自身を鼓舞する。

長い体の側面におびただしい量の人間の手が地団駄を踏み、化け物に付いている中年の男の顔が怒りを露にしてアリスに向かって突進を繰り出してくるがそれを身軽に躱す。頭から突っ込んだ化け物は地面に激突し大きな砂埃が発生する。

それでも構わず何発もアリスへ突進を繰り返し、アリスを追い詰める。


「アリス!武器を出して!」


「武器!?...そんなの持ってないよ!」


「持ってる!君達はこの世界で戦う武器を持っている!君が持っている心を具現化させるんだ!」


「心を...具現化...?」


的を得ないチシャの言葉に頭を悩ませるアリスだが、母親を助ける為に頭を使いイメージする。心を具現化するという事を。

自分の心を問う。今自分は何をしたいのか?

母を助けたい。その為には何が必要なのか?

武器がいる。あの長い体を、硬い甲殻を貫く武器が。


アリスの心にはひとつの信念がある。自分を育てて守ってくれた母を助けたいという曲げられない1つの信念。例えそれが自分が今まで怖がっていた幻覚だと思っていた化け物だろうと。その信念が作った武器は『槍』だった。

熱く燃え上がるような情熱の赤で染められた長い槍。三又のトライデントのような槍がアリスの右手に発現し、それを握る。握りなれたプロ野球選手のバットやテニスプレイヤーのラケットの様に手に馴染む。化け物は変わらず威嚇をしており、男の顔は怒りで更に顔を歪ませる。


「ガァァァァァ!!」


「っっ!!」


口を大きく開けて再度突撃してくる化け物の攻撃を跳躍で躱す。人間離れした跳躍は2mを超える化け物の頭上を飛び越え化け物がアリスを見上げる形になった。アリスを見上げている化け物に付いている男の顔が怒りから哀しみのように見えた。

しかし、敵の表情を見る程の余裕はアリスには無かった。頭上から化け物の頭目掛けて、槍を構えながら突撃する。


「オガァァァァァ!!」


「くっっ!!」


頭部に槍を刺された化け物は悲鳴を上げてもがき苦しむ。頭部からは赤い血が吹き出し、それを体に浴びてもアリスは力を緩めない。暴れ狂う化け物の頭上で振り落とされない様に槍を握りしめ必死にしがみつくアリス。


「もう、終わって!!」


「アアアアアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ!!!」


頭上でしがみついていたアリスが槍を更に奥深くへ刺さるように押し込むと、化け物は大きな叫び声を出し、その巨体を力無く倒れさせる。倒れた衝撃で大地は大きく揺れ、辺りに土埃が舞う。化け物は動くこと無く、目にも光が宿っていない。死んだのだ。初めて自分の手で生き物を殺したという事実がアリスを震えさせるが、それよりも守りたい者がいたのだ。

倒れた化け物の上で返り血で赤く染まったアリスはその守りたい存在の母親へ視線を送り、母が呼吸で身体を揺らして無事なのを確認した時、安堵なのか恐怖なのかは分からないが目からは涙が溢れてきた。

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