第44話 酩酊の後
宴もすっかり収束し、酒と食べ物で満たされた乗組員達は次第に眠りに誘われて各自の部屋に戻っていった。ダイニングにはたくさんの食器が残された。しかしまだそこで酒に浸っている者がいた。ナオコ・カンとガーディアンだ。
「どうするんです。月には行けませんし、火星も想定していない。かと言って永久に宇宙空間で生きるのはとても…」
「問題はまさにそこだ。結局行き先を決めないとならない、というのが人間の性だからな」
ナオコ・カンはそう言って髪をかき上げ、グラスを取って酒を流し込んだ。
「…月の連中はあの事、まだ覚えてると思うか?」
「いえ、それは分かりませんが…少なくとも、報復を受けるとは考えにくいでしょう。なんにせよ地球が無くなり月の面々も慌てているはずです」
ガーディアンは普段は高圧的で粗雑に振る舞っているが、ナオコ・カンの前ではすっかり小さな存在になっている。敬語を使い、礼儀正しい。
「うーん…だが、月には地底都市がある。あそこは地球を一部コピーして丸ごと移設したような場所だ。というかもう月の人々はそこで永住する覚悟でいるんだろう」
「では、月も選択肢の一つに?」
「いや…まだだ。それは一旦保留にしておく」
乗組員達が宴を楽しんですっかり疲れ果て、眠りについた頃。個室の一つから何やら会話が聞こえてきた。
「そう、これは1。じゃあこれは?」
「えっと…ふたつ?」
「そうそう、つまり2ね」
ロイムとボニーが寝巻き姿で話している。ロイムの膝の上には薄い本があり、それには複数の果物や動物などが描かれている。
「このリンゴは二つ。じゃあ、このバナナはいくつあるかな?」
「バナナはたくさんある」
「うーん、ちょっと違うかなぁ。二つよりももっと多いものを表す数字があるのよ」
「ほんと?教えて教えて」
ボニーは興味津々に本とロイムを見た。一方、ドアの向こうでは一人の青年がそれを立ち聞きしていた。タカルである。
「何やってんだ…数を数えている?ボニーのためか」
「おそらくまともな教育を受けたことがなかったんでしょう」
背後から声がしたが、タカルは驚く事はなかった。ビークはいつも神出鬼没だ。
「まあ、普通の子には見えなかったけど。しかし思い出すなぁ、俺らがガキだった頃を」
「幼い子供は幸せです。彼らは世界で最も権力があって周囲を支配しているのですからね」
「何、支配?」
「わかりやすい例は赤ん坊でしょう。彼らは大人の世話がないと生きていけません。弱いからこそ最も強く周囲を支配しているのです」
「なるほど…」
妙な哲学、いや頓知か?ビークはそういった理論を持ち出すのが好きだ。タカルはそれに昔から付き合わされてきた。
「三つ、四つ、五つ。どんどん大きくなっていくの」
「へえ。じゃあこの馬は三つ?」
「そういうこと。わかりやすい例だと…そうね、信号機の色はいくつあるかな?」
「赤色、青色、黄色。三つ?」
「正解!じゃあ次は…」
まるで小学校の教師のようだ。とてもじゃないが、タカルには小さな児童に教える事などできる自信はない。それはビークにでも任せておけばいい事だろう。
『ナバマーン』は眠りに包まれ、静寂が辺りを彷徨っている。だが彷徨っているのはそれだけではなかった。壁に張り付くようにして進み、素早く過ぎ去っていった。乗組員達ではない。それの存在に気づいた者は誰もいなかった。
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