第38話 怪物
「…どうしたんですか…?」
「教授?」
タカルもロイムも状況が飲み込めず、ぽかーんとしていた。ボアツキ教授は催眠をかけようとしたまま、アルスと向き合い続けている。外部からの音が完全にシャットダウンされた部屋の中で静寂だけが飽和している。
「…うぁ!」
ボアツキ教授が突然、声を上げ、後ろに仰け反った。
「大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫だ…だが…こいつは大丈夫じゃない」
ボアツキ教授の言葉はパラドックスと化していた。いつの間にやら彼の肌には汗の粒が幾つも流れている。
「…私が催眠をかけようとしたら…それを返された。そっくりそのまま。危うく私が心の深層を弄られるところだったわい」
「で、でも教授。続けていただかないと…」
と、タカルはアルスに視線を移した。アルスが目を開けている。だがその瞳はタカルの知るアルスではなかった。ロイムにとってもそれは同じだった。瞳…まるで気が抜けたとか、うつせみだとでも言うべきか。全く生気のない目をしている。
「ア、アルス!?大丈夫なの?」
ロイムは思わず駆け寄った。アルスの肩を掴んで揺さぶるが、全く反応が見られない。
「教授!ボアツキ教授!なんとかしてくださいよ!」
「…わかった…と、とりあえずは」
そう言ってアルスに近づいた瞬間だった。まるで獣が咆哮を立てて飛びかかったかのような音が響いた。アルスがまるで飢えに飢えた肉食動物のように…ボアツキ教授の上にのしかかり、喉笛を噛みちぎろうとしているのだ!
「ぐわぁ!?た、たすけ…」
何も言えず、タカルとロイムはアルスの後ろに周り、全身の筋肉をフル稼働させて引き剥がそうとした。アルスが暴れる。椅子が倒れ、派手な音が立つ。部屋は先ほどまでの静寂から、騒然が急激に駆け上がっていく。
「ど、どういうことよこれ!?」
「し、知るか!!アルス!!正気を取り戻せ!!お前はいったい…」
固い物が比較的柔らかい物に速度を伴ってぶつかった音がした。ビークが分厚い辞典を持ち、足を開いて佇んでいる。
「???…??」
「全く、何かと思えば。これは重大な問題がまた増えましたね」
「ああ、もうわかったわよ。私達はまたそれを背負って行かなければならないんでしょ、ねえ!?」
ロイムはぜえぜえと息を荒くして吐き捨てるように言った。一方のタカルは全くわけがわからない。
「ボアツキ教授。さっきのは…」
「自分も迂闊な判断はできんが…多重人格の一種か、もしくは獣の霊にでも憑かれてるんじゃないか。うむ、それしか言えん」
「…」
「もし二重人格だとしたら、我々が彼女に接し方の面で工夫をする必要があるのは当然です。しかし問題は後者だ。私は霊的な物はほとんど信じませんが、もしアルスさんに獣の霊が取り憑いているのなら、それを祓える…」
「細かい話はもういいわ。タカル、帰ろう!」
ロイムはパッと立って、ドアを開けて出て行ってしまった。部屋にはタカル、ビーク、ボアツキ教授、そして床に突っ伏したままのアルスが残された。
「どうすればいいんですか、結局」
「…催眠は一旦、保留だ。彼女を医務室へ戻し、意識が戻るまで待ってなさい。何かあったらまた来てくれ。…はあ。なんて怪物だ」
ボアツキ教授がさらに痩せたように見え、大きなストレスをぶつけられたようになっていた。
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