第37話 傲慢と自制

 『サーリント・ドール』の完全な解体を待つ間、『ナバマーン』のクルー達は暇という人生において最も悔やまれる時間帯に閉じ込められた。イトカワの楽しみはもうほぼ存分に味わった。楽しさで興奮し、心が弾け飛びそうな瞬間はそれがプッツリと終わってしまうと奇妙なやるせなさというか、気後れしたような感覚にしばしば、人間は囚われる。少なくともタカル以外はそうだった。


 ストレッチャーに目を閉じた娘を乗せたまま、タカルとロイムはボアツキ教授の部屋、『フロイトの間』に急行した。ドアを景気よくノックする。

「な、なんだ?」

 ドアが開き、ひょろりと背が高く、しかもひどく痩せている男が現れた。

「ボアツキ教授。先ほどはあの子の事でお世話になりました」

「あ?ああ。今は部屋にいてすっかり落ち着いて、ビーク君と遊んでいるが…どうした?」

 タカルはストレッチャーの上の患者を指し示した。

「我々の友人が発作を起こして、自害しかけたんです。少々手荒な事かもしれませんけど…催眠で調べてもらえないでしょうか」

「お願いします、お金は払います」

 ロイムが深々と頭を下げた。ボアツキ教授はゴーグルをいじると、ふうと息を吐きこう言った。

「わかった。手数料はかかるが、一応診断させてもらうよ」


「そういえばあのオウム、いないですね」

「あ、リカルドならビーク君とあの子と一緒に遊んでるぞ」

「そうでしたか、ていうかあの子、もしかして名前言ったりしました?」

 ボアツキ教授は質問に対して首を横に振った。

「聞いたが、『自分には名前がない』と返された。…私の催眠で心が解れてるはずだから、嘘をつくわけはないんだが」

「…」

「ま、それはそうと。患者を診ようか」

「ああ、はい」

 ロイムはアルス・マグドナーに関して様々な事を話した。もう長い事、10年近くの仲だ。生まれも民族も文化も違えど、長く濃密な時間を共有したという事実に勝るものは無い。

「…こんなところですかね、アルスについては」

「ふうむ。催眠で治るかは五分五分だが、これは精神医学的にも形而上学的にもなかなかの…逸材だな」

「は?」

「いや、なんでも無い。とにかく私がやる事は変わらん、催眠をかけて彼女の心の深層にスポットライトを当てる。そうすりゃ見えてくる物もあろう」

「だといいんですけど…」

 ロイムは頬に手を当てて考え込んだ。タカルはそんな彼女の肩に手を置いた。

「大丈夫だ。すぐ治るかは保証されてないにせよ、地球が無い今イトカワで精神科医に出会えたのが何よりの奇跡じゃないか?」

「それもそうだわ」

 未だに眠ったままのアルスを、ボアツキ教授は部屋に移動させ、椅子に座らせた。アルスは投与された睡眠薬の効果で、ぐっすりと無意識の領域に全身を投げ出している。

「さて、始めるとするか」

「待ってくださいよ、教授。眠ってる人に催眠ってかかるものなんですか?」

「かかるさ。『あなたは眠くなる』の暗示はいらないようなもんだが、それをやらないと催眠療法としてのルーティンから逸脱しちまうんで、やるがね。じゃあ…」

 ボアツキ教授は既に眠っているアルスの前に立った。

「あなたは眠くなる…眠たくなってくる…眠った」

 と、ボアツキ教授の動きが止まった。アルスに面と向かい合ったまま、他の行動をしない。何事だろうか?

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