第8話

 しんと静まり返った深夜零時、月も見えない橋の下の川べりで、俺はポケットの中に手を突っ込んだ体勢で浜田先輩の後ろに立っていた。向かい合っているのは緑のパーカーを着た男。フードを深く被って俯いているので、顔は見えない。

 橋が影になり、土手の上から降り注ぐ街灯の光もここには届かない。こんな時間にこんなところで密会するなんて、後ろ暗いことしてますって言ってるようなものだ。

 実際、こいつは後ろ暗いことを俺らに頼んでいる。

 浜田先輩はパーカー男から封筒を受け取り中身を確かめると、俺に押し付けた。俺はそれをデイバックにしまい、パーカー男を観察する。

 声が若かった。多分歳は俺達とそんなに違わない。身長も同じくらいな気がするけど、目線がずっと下に向いてるから小さく見える。おどおどしてて、定期的に周囲を見回している。心配しなくてもこんな夜更けに橋の下なんて誰もこねぇよ。

「こ、これで、あいつをやってくれるんだよな」

 パーカー男は声を潜めて聞いてきた。

「おう、任せとけや」

 浜田先輩は何の配慮もせず普通の声で言った。

「金貰った分の仕事はすっからよ。ま、楽しみに待っててくれや、三谷航大くん」

「ちょ、ちょっと……! 名前なんか呼ぶなよ! っていうか、あれ? 俺名前言ったっけ?」

「言った言った、さすがお坊ちゃん、礼儀正しいよな。ライバル潰すための依頼で名乗るなんて。じゃ、テスト後までに後金用意しとけよ」

 にやりと笑い、踵を返す。俺も浜田さんの後について、土手を一気に駆け上がった。少しだけ振り返ると、パーカー男が不安げにこちらを見上げている。直接不良に会って怖くなったんかな。今さら後悔したって遅いよ。お前は既に世界一の馬鹿に成り下がってる。

「あ~、マジだる。俺あーいう奴大っ嫌い」

 パーカー男から完全に離れた場所までくると、浜田先輩は忌々しそうに吐き捨てた。

「くそくだんねぇ生き方してっくせに俺らンこと見下してさぁ、てめぇだけは安全な場所で楽して勝とうとしやがって。西山さんだったらぜってぇ耐えらんなくて殴ってるわ。ま、だから俺らなんだけど」

 うーん、と伸びをして、浜田先輩は冴えない夜空を見上げた。

「腹減ったな。コンビニで肉まんでも買うか。お前も食う? 奢るぜ」

「あ、じゃあごちになります」

 頭を下げる。浜田先輩は意外と面倒見がいい。最初に会った時だって、俺のピアス穴開けたあと手当てしようとしてくれてた。あの時は俺がビビりすぎて、それが善意だなんてちっとも気づかなかったけど。

 近くのコンビニで肉まんを一つずつ買って、店の外の壁に寄りかかりながら頬張る。じゅわっと溢れた肉汁が手に垂れてきたのを慌てて拭いていると、浜田先輩はスマホを取り出して先ほどの会話を再生しだした。

『こ、これで、あいつをやってくれるんだよな』

『おう、任せとけや』

 さすが有名メーカーの最新機種、パーカー男の小さい声もばっちり録音されている。

『金貰った分の仕事はすっからよ。ま、楽しみに待っててくれや、三谷航大くん』

 わざわざ名前を言ったのは、録音に入れるためか。この仕事の詳細は知らされてなかったけど、なんとなくこれからどうなるのかわかった。

「あいつ、何依頼してきたんですか?」

 浜田先輩に聞くと、先輩は馬鹿にしたように笑いながら、「ライバルボコってくれってさ」と答えた。

「あいつ、明校生なんだよ。親が厳しくて、次のテストでどうしても一位取りたいんだと。でもいっつも一位は山内って奴がなってて、三谷は勝てたことがない。だから山内がテストを受けられん状態にしてくれ、ってのが依頼内容」

「へー……」

 マジでくだらなかった。そりゃ浜田先輩がうんざりしてるわけだ。

 明校とは、近くにある私立明翔高校という進学校のことだ。偏差値も高いが学費も高い。そこに通える程度に金持ちで頭もいい奴が、一回のテストのために人生台無しにしようとしてるなんて、なんだか不思議な気がする。

「山内は誰がやるんすか?」

「俺と古賀さんと屋島。お前も来る?」

 横目で俺を見る浜田先輩の顔が、駐車場から発進する車のライトに照らされて一瞬光る。伏見先輩と違って変な圧はない。何が行われるかはちゃんと話してくれたし、行かないと言っても怒られはしない雰囲気だ。

 突然選択肢を与えられて、俺は焦った。どうしよう。行きたくない。人ボコるなんて嫌だ。しかも何も悪くない人間を。でも先輩に誘われてる。断る理由も思いつかない。調子が悪くて? 予定があって? でもいつ決行するかもわかってないのにそんなこと言えるか? どうせ今までだって言われるまま喧嘩に参加したり万引きしたりしてきたんだから、今さらじゃないか?

 頭の中を高速でいろんな考えが飛び交う。時間がない。早く決めないと。

 浜田先輩の目が急かしてる気がする。とりあえず口を開く。

「行きます」

 ……言っちまった。

 失望されるのが怖かった。線を引かれるのが怖かった。お前は違うと言われるのが怖かった。

 こんな奴らの仲間になんかなりたくないと思いながら、今の居場所を捨てられもしない。目の前の人の期待に逆らえない。

 浜田先輩は、にっと笑って俺の頭を軽く撫でた。

 ――合ってた。

 ほっとして肩の力が抜ける。へへ、と小さく笑い返した俺に、浜田先輩は肉まんのゴミを渡してきた。俺はそれを自分のとまとめてコンビニのゴミ箱にシュートする。勢い余って狙いを大きく外れたゴミの塊は、てんてんと転がって地面に落ち、暗闇に紛れて見えなくなった。

 ちょっと気まずい気持ちで浜田先輩に向き直ると、先輩はもう帰るつもりのようで、数歩先でだらっと歩く背中が見えた。

 俺は急いで落ちたゴミを探してゴミ箱に押し込み、先輩の横に駆け付けた。

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