第5話

 美化委員の先輩のありがたい忠告を聴いてから三カ月。

 結局、目立たないようにしていなくなるって案は、全く通用しなかった。俺と木場含めて新入部員が五人しかいないって時点で無理があるし、不良の人達は何故か人間関係においては物凄く記憶力がいいのだ。でも、あのどうしていいかわからなくてパニックになりかけていた時に話しかけてくれた美化委員の先輩には心から感謝している。できれば先輩ともっと仲良くなりたかったけど、迷惑をかけるわけにはいかないから、こちらから絡みにいったりはしていない。

 俺と木場は、あの日サッカー部部室で起こったことを親に言わなかった。それどころかどうにかしてバレないように必死で過ごした。

 言ってはいけないことのような気がしていた。だって俺たちは煙草も吸ったし酒も飲んでしまった。暴力を振るわれたことを打ち明けるのも気が重かったし、そもそも衝撃的すぎて自分の中でまったく消化できていなかった。単純な暴力に完全に打ち負かされた敗北感、いいなりになった情けなさ、あんな怖い人たちとのやりとりに巻き込みたくない。理由を挙げればいろいろあるけど、どれも正解ではない気がする。なんでかわからないけど、ずっと後ろめたさがつきまとっていた。親の前でぐらい普通の中学生のふりをしていたかった。

 怪我は転んじゃっただけだってごまかして、ピアス穴は髪を伸ばして隠して、学校楽しいって笑いながら登校して。その実俺たちは神経をすり減らしながらユーヒさんたちのパシリをやらされていた。

 といっても、多分そんなに悪い立場ではないと思う。最初みたいな、問答無用で殴られるとかはそこまでなかった。たまに機嫌が悪い先輩に八つ当たりされたり、ノリで川に突き飛ばされたり、指示をミスって根性焼きされたりとかはあったけど、いじめられっ子の扱いとは違う。いや、限りなくいじめに近いというか、俺もユーヒさんたちを知る前なら確実にそれはいじめだって言っただろうけど、あの人達が誰かをいじめるならもっと容赦なくえげつないことをするはずだ。

 俺と木場は、ギリギリ、仲間だった。下っ端も下っ端とはいえ、グループの一員として左耳に紅いピアスをはめるのを許されて(というか強制されて)いたし、『分け前』も貰えた。

 『分け前』っていうのは、例えば盗んだお菓子だったり、自販機を壊して取り出した煙草だったり、パチンコの戦利品だったり、女の子だったりした。

 人間は麻痺する。自分の常識では信じられないほどの悪事を聞かされて死にそうな顔で震えていた木場は、今ではすっかりユーヒさんの信者になり、進んで先輩たちのあとにくっついて万引きもするし喧嘩もするようになった。

 元々は明るくてお調子者でちょっとやんちゃだけどみんなに好かれる、そういう奴だった。今だって多分根っこの性格は変わってない。ただ、あいつの空気読みスキルは正常に作動した。つまり、一番自分が傷つかない道を無意識に選んだんだろう。あの怖い先輩たちに逆らうなんて不可能だ。それなら素直に従ってできるだけ気に入られるのがいい。

 俺は木場ほどは適応できなかった。でも、やっぱり麻痺していた。当たり前のように寄こされた盗品のお菓子をかじったし、酒も飲んだし、煙草も吸った。先輩たちには絶対服従で、しかも次第にそれを苦痛とも思わなくなった。より強くてより賢くてより自由に生きている先輩たち、特にユーヒさんに憧れた。

 ユーヒさんは、マジでかっこよくて強くて人を人とも思わなくて犯罪に躊躇がなくて孤高で気まぐれでヤベー奴だった。

 寄ってくる女の子を食い散らかし、寄ってこない女の子も無理矢理食い散らかし、強姦で訴えられそうになったのを脅迫してもみ消したという噂がやたら具体的に囁かれていた。果てはその女子に売春させただとか美人局やらせたとか、優等生に万引きさせてそれをネタにカツアゲしたとか、酒屋を襲撃して商品を強奪したとか敵対グループを半殺しにしたとか隣町に遠征して集団空き巣を指揮したとか、掃いて捨てるほどの悪評がたってるのに何故か人望があるという意味不明の存在だ。

 俺はそういう話を聞くたび、なんでこの人捕まってないんだ?と呆れとも畏敬の念ともつかないような気持ちを抱き、そういう現場に居合わせる度に罪悪感と昂揚感に悩まされた。

 悪い奴はすげぇ迷惑だけど、すげぇかっこいいのだ。俺はユーヒさんの傍にいてそれを思い知らされた。

 長い手足を悠然と振りまわし抉るように拳をふるうユーヒさんには異様なカリスマ性があり、欲しい物を思うままぶんどりながらもそれらに執着しない態度も王様然としていて滅茶苦茶スマートに見えた。ユーヒさんは不良の神様だった。俺たちはほとんど彼を崇めていた。

 ――ただ、俺は、女の子の扱いに関してだけはどうしても染まれなかった。だから木場と違ってまだ童貞だ。だって盗みなら、そりゃ盗みだって悪いけど、直接人間を痛めつけるわけじゃないじゃん。でも好きでもないし好かれてもいない女の子を、一時的な欲のためだけに利用するのって、さすがにキツい。そんなことしても多分全然楽しくない。先輩たちがやってるの見てても辛い。可哀想だ。ウリやらせて上前ハネるのとか、もう売上数えてるだけで気が滅入ってくる。先輩の命令だからやらなきゃいけないんだけどさ。

 俺ももちろん最初は女子の下着姿とか裸とか見る度にどきどきしてた。でもみんなあんまりに雑に扱われてるから、ときめきなんて甘い感情はいつしか消えてしまった。ただ強い人間が弱い人間を支配してるだけの空間で、欲望だけがぱっと場に満ちて散って、あとには噛まれたおっぱいから血を流してる女の子がぐったり横たわったりしている。そういうのを見ると、エロへの興味とか興奮なんてものは全然湧いてこなくて、ただ、辛いなぁと思ってしまうのだ。

 誰かが殴られてるところを見てもここまで辛くはないんだけど、なんでなんだろう。相手が女子だからなのか、いや、なんとなくいいものだと思ってた性的なことが、人を壊す手段にもなるとわかってショックだったのかもしれない。

 三年の女子で、リリカ先輩っていう凄い美人がいて、一見普通のモテ女子なんだけど、この人は誘われたら絶対セックスする。しかも初めて会う男でもぐいぐい胸押し付けていく。元々はこんな感じじゃなくて、お洒落でイケてるけど恋愛には奥手、っていう純情タイプだったらしい。それを、ユーヒさんがぶっ壊した。リリカ先輩の親には部活の合宿って嘘ついて、二週間ぐらい監禁して洗脳した。リリカ先輩の友達も脅して遠ざけて、もうユーヒさんの駒になってる女子と仲良くさせて、ユーヒさんの言う事は絶対だと思い込ませて。

 それから半年、リリカ先輩はユーヒさんが命令するままにウリやったりハニトラ仕掛けたりしていたのだが、ある日ホテルからおじさんと出てくるところを親に見られ、なし崩し的にバレた。

 そこからはもう大変だったらしい。当時のことを知る先輩たちは完全におもしろトークとして話してくるので正直どこまでが本当なのかわからないんだけど、リリカ先輩のお母さんが心労のあまり鬱になったとか、お父さんが包丁持って学校に乗りこんで来たとか、とにかく凄い騒ぎになったようだ。

 で、まぁ当然の如くユーヒさんはその騒動に全く影響を受けずに悠々と鎮圧し、どんな手を使ったのかリリカ先輩の親を黙らせた。そして、同時にリリカ先輩を手放した。これは別にリリカ先輩の親に配慮してとかさすがに可哀想になったとかそんな殊勝な理由では一切なく、ただ面倒臭くなったのである。

 ユーヒさんの気まぐれは理不尽で残酷だ。突然「もういーわお前、うぜぇ」と言われて放りだされたリリカ先輩はどうしたらいいのかわからず、以来、一番わかりやすく自分が求められる性を投げ出し始めた。お金も貰わず目的もなく誰とでも寝る。

 リリカ先輩はもうほかに何も持っていないのだ。自信も自我も誇りも意欲も何もかも。あの人は自分が無価値だと思っていて、多分自分の体すらも自分のものだという意識がない。あの状態でなんで生きていられるのかわからない。にこにこした綺麗な顔の内側は、ぞっとするほど空っぽだ。

 にやつく青髪の浜田先輩に連れられてリリカ先輩と引き合わされたとき、何か物凄く悍ましいものに触れてしまったような気がして、俺は思わず後ずさった。

 すり寄ってきて俺の腕に絡みつき胸を押し付けたリリカ先輩の、甘えるような上目遣い、その虚ろな色に耐えられなかった。軽くて楽しい誘惑をしてくれているはずなのに、裏に滲むのは余裕じゃなくて懇願だった。俺はその瞬間、リリカ先輩の精神の深いところを覗き見てしまったのだ。ぐちゃぐちゃに潰れてすえた匂いをさせる心臓を。

 ――人間って、こんなに弱くなれるのか。

 恐怖と嫌悪に頭をぶん殴られたような気がした。俺はリリカ先輩を力任せで振りほどいてその場から逃げ出し、サッカー部の部室に駆け込んだ。

 そこには思った通りユーヒさんがいた。いつもの定位置のベンチ真ん中に座り、絶対に人に左右されなさそうなどっしりした姿勢で、誰よりも強い存在感を放ち、生きとし生けるもの全てを従わせるような圧力を感じさせる瞳で俺を見た。

 俺は何故かその時、凄くほっとしてしまったのだ。この人についていきたい、この人の傍にいたい、永遠にこの人に魅入られていたいと思った。


 あとで冷静になって考えると馬鹿としか思えないんだけど、でもユーヒさんにはそういうよくわからない魅力があった。悪いことの原因といったらたいていはユーヒさんなのに、どうしてもユーヒさんを嫌いになれないのだ。ユーヒさんだから仕方ない、どころか、さすがユーヒさん、ユーヒさんかっこいい、となってしまう。これも一つの洗脳なんだろうか。わからない。当時は自分の思考が変だと自覚すらできなかった。閉鎖的な地獄の中で、俺は簡単に邪悪に染まった。


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