第3話
やる気のない様子で立ち上がったぼさぼさ頭の人は、なんの予備動作もなく俺の顔を殴りつけ、勢いよく後ろに倒れていく俺を見て「ヒッ」と声を漏らした木場の顔にも一発入れた。
たった一度殴られただけなのに『死』という概念が頭を埋め尽くす。脳が掻きまわされたように揺れる強烈なパンチ。口もきけず床に転がり泣きながら痛がる俺たちに、ぼさぼさ頭の人は淡々と告げた。
「お前ら入部決定な。役に立ったらちょっとはいい思いさせてやっから」
いい思いってなんだ!? そんなのどうでもいいから殴んないでくれ! ていうかなんで殴られたんだ今? すげぇ痛い。怖い。もしかして歯折れてる? 怖い。わけがわからない。怖い。家に帰りたい。誰か助けて!
混乱し恐怖に支配された俺たちは、とにかくぼさぼさ頭の人の言葉に従順に従った。言われるまま生徒手帳を差し出し、震える手で入部届けを書き、煙草を吸わされて咳き込み、細い棒を左耳に刺されて穴を開けられた。
密室で自分より遥かに体格のいい何人もの先輩たちに囲まれて見下ろされている状況は本当に怖くて、本気で殺されると思った。木場は耳に穴を開けられる寸前に気絶してしまい、残された俺はより心細さが増したし意識を飛ばすことができたあいつに羨ましさすら感じた。
「はは、ダッセェ」
「いーじゃん、一年なんてこんなもんだろ。ま、これから鍛えてやっからさ」
一人の先輩が木場の頭を掴んで別の先輩に押しやると、もう一人も押し返す。二人は笑いながら木場の頭でラリーをしていたが、唐突に片方が「ダリィ」と言って放り投げたので木場は床に頭をぶつけて動かなくなった。
――もしかして、し、死んだ……?
ぞっとして木場の様子を見に行こうと腰を浮かせると、俺の耳の穴を開けた青い髪の先輩が「てめぇふざけんな消毒液ケツに突っ込むぞあぁ!?」と凄んできて耐えられなくなり更に泣いた。どうやら傷口を手当てしようとしてくれていたらしかった。俺はあまりにテンパっていてそれに気づいていなかったのだ。でもそもそも傷つけた奴がわざわざそんなことしてくれるなんて思わないだろ……。
俺は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら亀のように縮こまり、ひたすらこの恐ろしい集団の気が済むのを待った。
幸いそこからはたいして嫌なことはされず、耳の穴に何かを嵌めこまれたあと、気を失っている木場を連れて部室を出るよう指示された。その時になってようやく気づいたんだけど、どうやらこれはピアス穴で、つけられたのはピアスらしい。生徒手帳ちゃんと見てないけど校則違反なんじゃないか? なんでこんなことされたの俺ら?
「明日も来いよ」
闇の奥からすっと顔を上げたぼさぼさ頭の人が、俺と初めて目を合わせ当然のように命令をくだす。光の浮かばぬ濃い灰色の目が、全てを捩じ伏せるような圧力を纏わせてそこにあった。絶望で体は急速に冷えていくのに、頭はじんわりと熱を持ちだし脳みそが溶けていくような感覚に襲われる。
なん――なんだこれ。なんか、こわい、今までの怖さと違う、何かされそうな怖さじゃなくて、どうにかなりそうな怖さだ。自分そのものが芯から変わってしまうような、思考がぐにゃりと歪む違和感。これは――これは絶対に触れちゃいけない……離れなきゃ、すぐ離れなきゃ駄目だ、でも足が全然動かねぇ……!
棒立ちで固まっていると、ふ、と視線がはずれ、ぼさぼさ頭の人はまたスマホをいじりだす。
その途端俺は勢いよく息を吸い込み、自分が緊張しすぎて呼吸もできなくなっていたことを知った。
はぁはぁと息を荒げる俺に青髪の先輩が近づいてきて、肩を抱きこみながら出口のドアに誘導する。
「ユーヒさんすげぇだろ、あの人イキらねぇけどマジつえーんだよ、わかる? お前ら偶然でもうちに入れてもらえて良かったなぁ。参堂中のユーヒさんの下にいるっつったらここらの奴誰も手ぇ出せねぇぞ。その分ちゃんと俺らに尽くせよ。おし、じゃ出ろや」
青髪の先輩はドアを開け、俺の背中を押す。
「あ、先公にチクっても意味ねぇから」
その言葉を最後に、俺と木場はサッカー部の部室から放り出された。
日の光が眩しい。温かい日差しが降り注ぐ昼間のグラウンドは、さっきまでの出来事が夢かなにかに思えてくるぐらい健全で爽やかだ。現実逃避をしかけた俺を、耳と頬から伝わるじんじんという痛みが引き戻す。
「……なぁ、起きろよ。もうあの人達いないよ」
話しかけるが、木場の意識は戻らなかった。普段元気いっぱいなだけに、静かに目を閉じている様子を見るのは落ち着かない。胸に耳を当てると鼓動は聞こえたので、とりあえず命は無事だろう。
くたりと力の抜けた木場を抱えながら、少しずつ校舎に向けて進む。もっと強く怒鳴ったり叩いたりすれば起きるかなとも考えたけど、これ以上痛い思いをさせるのは可哀想だ。あの圧倒的暴力が支配する空間から逃れられた今、そんなことしたくはなかった。
広いグラウンドでも、校舎に入ってからも、全く人とすれ違わない。昼休みが終わって五時間目が始まっているからだ。そう、あれだけ色々なことをされて、永遠に続く地獄にも思えた『サッカー部体験入部』は、実際のところ三十分ぐらいしかかかっていなかった。濃密にぎゅっと悪徳が詰まった最低の時間だった。もう二度とあんな恐ろしいところに行きたくないけど、明日来いって言われちゃったな……どうすればいいんだろう。入学式で校長先生の長い挨拶を聴いていた時にはこんなことになるなんて全然思わなかった。中学校って怖すぎる。
やっと保健室に辿りついた俺は、息を切らしながら木場を保険医に預けて、近くのソファに座りこんだ。
保険医は五十代ぐらいの白髪の混じるおじいちゃん先生だった。ごましおのあごが俺の爺ちゃんに似ている。小学校の時は若い女の先生だったから、予想していた姿と違ってちょっと驚いたけど、それよりやっと頼れそうな大人の人のそばに来れてほっとした。あの不良っぽいヤバい先輩たちもさすがに先生の前では暴力をふるったりしないだろう。……しないよな? 断言できないのが辛い。
保険医は木場と俺の明らかに暴行を受けた様子を見て、灰色のもじゃついた眉毛を少しひそめた。
「入学早々喧嘩かい? ……まさか、あの愚連隊か」
「あ、あの、喧嘩っていうか、俺たちはなんにもしてないんですけど」
不良だと思われたらまずい、と俺は急いで訂正した。
しかし保険医は妙に硬い表情で手当てを始めようともしない。
「君は、元々実藤くんと繫がりが?」
「実藤くんって誰ですか」
「知らないのか? 実藤雄飛だ、サッカー部の」
「あぁ……」
俺はついさっきサッカー部で見た人達を頭に浮かべ、あの中の誰かだろうと見当をつける。
「サッカー部ならさっきまでいました。あの、見ればわかると思いますけど、酷い目に――」
「耳」
「はい?」
「耳、ピアスをつけてるのか?」
「あっ、いやっ、これは自分でしたんじゃないんです! 無理矢理つけられて――」
「入部したんだね」
また俺の言葉を遮って質問してくる。変な先生だ。最初は優しそうなおじいちゃんに見えたのに、今はなんか目つきがおかしい気がする。じっと食い入るように俺を見てくる。
「……入部届け、書かされました」
答えると、保険医は怯えた顔で頭を抱え、俺から距離を取るようにのけぞった。
「そうか。……そうか」
「な、なんなんですか」
「……悪いが私はこれから用事があるんだ。保健室も置いてある備品も好きに使ってくれ。君たちのものだ」
ガタガタと椅子を揺らしながら慌てて立ち上がり、引き留める間もなく保険医は部屋を出ていった。
「……え?」
なんだあれ。結局何もして貰えなかった。好きに使えって言われても、何がどこにあるのかもわからないし、手当の仕方も知らない。どうすればいいんだ?
ていうか、ていうかさ、もしかして俺……逃げられたのか? あのぼさぼさ頭の人達の仲間だと思われた? そりゃ入部届けは書いたけど、いや、でも普通わかるだろ、新入生でしかも殴られてるんだぞ、どう見ても強制じゃん!
俺はこの時まで、これからまともな学校生活が送れなくなるほど酷い事態に巻き込まれたなんて思ってなかった。うっかりヤバい人たちに関わってしまったけどこれからは慎重に生きよう、絶対にサッカー部には近づかないようにしよう、入部届けは先生に頼んで撤回させてもらおうと思っていた。でもあの保険医の異様な態度を見て、もしかしてその考えは甘過ぎるんじゃないかって、もう何もかも遅いんじゃないかって初めて気づいた。
――先公にチクっても意味ねぇから。
青髪の先輩の言葉が脳裏に蘇る。ただの脅しだと思ってた、あれが本当に文字通りの意味だとしたら。
まだ目を覚まさない木場を抱え、俺は一人保健室の真ん中で立ち竦む。足の底から、じわじわと得体の知れない不安が這い上ってくるような気がした。
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