第1話


 そもそもの始まりは中学の入学式――いや、違う。小学四年生だ。今から六年ほど前の小四の冬。

 俺は、後々何度も思い返すことになる人物に遭遇した。

 雪国である故郷は冬休みが長い。宿題早くやりなさいよというお母さんの小言を聞き流して、俺は毎日友達とスキーだのかまくら作りだの雪合戦だのと遊びまくっていた。体をめいっぱい動かしてくたくたになったころにちょうど日が暮れだすので、そこで解散して家に帰る。そんな子供らしい日々を過ごしていた。

 ところがある日の帰り道、雪まみれになった手袋をはずして雪を払いながら歩いていたら、道路脇の薄暗い電灯の下で女の人が蹲っているのが目に入ったのだ。灰色のスーツに白いブラウス、会社帰りなのかなって感じの格好。よく見ると近くに黒いパンプスが転がっている。この寒い中、靴を脱いでしまったらしい。

 嘘だろ、と俺は青ざめて駆け寄った。いくらこの辺の道路は道の下に雪を溶かす設備があって雪が積もらないとはいえ、零下の気温で裸足はキツい。

「だ、大丈夫ですか!? 具合悪いんですか!?」

 女の人はゆっくりと顔を上げた。歳は多分二十代ぐらい。綺麗なんだけど、目元にちょっと皺がよってて、そのせいかファンデーションが浮いて見えた。後ろに結わえた髪の毛はほつれてるし、剥がれた口紅の下からは青紫色の唇が覗いている。なんかもう明らかにしんどそうな様子だった。

「……気にしないで」

 おねえさんは掠れた声で言った。

「え……」

 そんなこと言われても、と俺は途方に暮れた。こんな今にも死にそうな人を放っておけるわけがなかった。ていうかこの軽装でここにずっといたら確実に死ぬ。雪国の冬ってそういうことだ。近所の中学校に通う女子中学生だって、スカートの下にジャージを着こんでいる。それなのに目の前のこの人はコートも羽織らず、スカートにストッキング、靴は履いていない。無謀にもほどがある。

 とはいえ相手は大人のおねえさん。子供の自分が口を出していいものかわからない。もしかしたら、どうしてもこうしてなくちゃいけない理由があるのかもしれない。

「あ、う……」

 困って手をわたわたと動かしていると、お姉さんは光の消えた暗い眼で俺を見つめ、右手を差し出してきた。あ、と気づいた俺はおそるおそるその手を掴み、持ちあげるように引っ張る。それに合わせてお姉さんはゆっくり立ち上がった。氷のように冷たい手と弱い力に恐ろしくなる。この人、いったいいつからここにいたんだろうか。

「ありがとう。いい子だね」

 お姉さんはふっと寂しげに笑い、震える足で靴を引き寄せて、寒そうなストッキング一枚の足を滑り込ませた。

「……お礼に一つだけ、忠告をあげる」

「え?」

「あなたが大きくなって、誰かのことを物凄く好きになったとしても、その人が自分を滅ぼすと知ったらすぐに離れなきゃ駄目だよ。あなたが一番大事にしなきゃいけないのはあなたの未来で、一瞬の情熱じゃないの。わかった?」

 電灯を背に、おねえさんの顔に影が落ちる。俺にはおねえさんの言ったことの意味がよくわからなかった。滅ぼすってどういうことなんだろう。駄目にする? 傷つける? 自分を傷つける人を好きになるなんて、そんなことありえるんだろうか。

 でも、疲れ果てて辛そうなおねえさんに否定の言葉なんか返せるわけなかった。だからおねえさんと目を合わせたまま、こくりと頷いた。おねえさんは微かに微笑むと俺の頭をくしゃりと撫で、ふらついた足取りで歩き出すと、やがて歩道の端に寄せられた雪の壁の向こうに消えて行った。




 この出来事は、強烈に俺の脳裏に刻み込まれた。

 呑気に冬休みを満喫していた小学生にとって、何か尋常じゃない事情を抱えていたらしい憔悴したおねえさんの姿は、忘れようにも忘れられなかったのだ。

 おねえさんが何故あんなことを言ったのか、おねえさんに何があったのか、もちろん気になったけど、親に話すのは躊躇われた。おねえさんは、なんというか、異質だった。暗いものを背負ってたし、あからさまに傷ついていた。俺はそういうおねえさんの様子を正確に伝えられる自信がなかった。「そんな危ない人に近づいちゃ駄目」って心配されたり、あるいは「おぉ事件の香りだな」っておもしろいゴシップのような反応をされたりするのは嫌だった。

 ただ、おねえさんが俺に言ってくれたことの意味がどうしても知りたくて、一度友達に聞いてみたことがある。「自分を傷つける人を好きになるってある?」って。友達はきょとんとして、「いやヤな奴じゃん。嫌いんなるわ普通」と言った。「だよなぁ」。

 それで話は終わった。当時の俺らにはぴんとこない世界だった。

 しかし、俺は理解できないながらも、適当なことを言われたとは思わなかった。あんなに大変そうな人がわざわざ伝えてくれたことなのだ。きっとそのうち役に立つこともあるだろう。

 まぁ、とはいえ知り合いでも何でもない人との偶然の出会いで、その後再会することもなかったから段々記憶が薄くなっていったんだけど。たまに思い出して、あれなんだったんかなーって思うくらい。

 俺がおねえさんの忠告を身に染みて理解したのは、中学一年生の秋。人生で一番、目の前が真っ暗になるような絶望を味わった時期だった。

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