第1章 サトル、悟る

1-1  森の小さな家


     1


 初めに、暗闇があった。

 なにもない穏やかな夜の中をただよう意識が、ゆっくりと目覚めていく。

 最初に現れたのは白い光。まるで魂の中まで照らすような清浄な光だった。

 それがオーロラのように闇の中を広がり、長い帯を下ろして揺れ、やがて広大な大地を形作った。

 そこにそれぞれ美しい姿をした四柱の女神が降ろされて……それから?

 ぱっと目が開いた瞬間、世界が弾けた。

 声の限りに泣く。

 ここは真っ暗だ。寒い。怖い。

 誰か。誰か!


『こんなところになぜ赤子が……。かわいそうに』


 しゃがれた声。しわくちゃの温かい手が俺を抱く。

 目まぐるしく風景が流れて、意識が飛びそうだ!

 待って、追いつけない。

 待ってくれ、ここはどこだ?

 俺はどうなって…俺は…!

 顔を覆って縮こまろうとしたところで、ふっと意識がはっきりした。

 髪がふわっと動く。

 風が気持ちいい……。

 なんだこれ。すっごく深呼吸したい気持ちになるっていうか。

 俺が最後に嗅いだ空気は、埃っぽい混んだホームの上のものだった。

 それが今は清々しい緑と、なにかの花…少し湿った土。こーゆうのをマイナスイオンっていうの? 魂まで洗われそうだ。

 香しい空気を思いっきり吸って、思いっきり吐いて。

 全身の細胞が凄い勢いで取り込んでるのを感じる。

 ああ、俺は、生きてる。生きてるんだ……!

 何回か深呼吸を繰り返して、俺は恐る恐る目を開いた。


「…!」


 言葉が出ない。

 いや、だってなんかもう…マジか。マジだ! マジだった!!

 そこは深い森の、ぽっかりと開かれた小さな場所だった。

 木の一本一本が大きい。世界遺産登録された巨大な杉に似た木がずらっと並ぶさまが壮観で、俺はしばらく馬鹿みたいに目の前に広がった光景を眺めてた。

 うわあ……。伝説のレバノン杉ってこんな感じかな? 樹齢千年越えの木が並ぶ森とか、圧巻過ぎる…!

 いや、実際の樹齢は知らないけど、とにかくこんなでかい木の森ってすごい!

 それに、なにもかもはっきり見える。今俺、眼鏡をかけてないのに。

 唖然と見回した自分の肩越しに見えたのは、まるで木こり小屋のように小さな家と、収穫の終わった小さな畑。あちこちに咲いた白やピンクや黄色の薬草の花。

 正面に顔を戻して、少し俯いて…視界にそれが入ったとたん、一気に目頭が熱くなった。


「オウルばあちゃん……」


 無意識に呟いて、がくりと膝をつく。

 ああ、これは墓標だ。

 木を十字にして組んだだけの、簡素な墓標。「Solomon of worth」の二周目から選べる、みなし子の主人公の育ての親。

 ゲームでは旅立った後からスタートで、この育ての親に関しての描写はほとんどなかった。

 でもそうだよな。

 生きた人なら、一人ぼっちで大きくなれるはずがない。

 これはゲームには登場しなかった、この身体を、俺を育ててくれた、偏屈で気難しいばかりで……。でもたまたま拾った乳飲み子を見捨てられずに養うような、そんな優しい老魔女、オウルさんの墓なんだ。


「俺、なにもできなかった…!」


 浮かんだ涙はあっという間に熱い玉になって転がり落ちて、ぼたぼたと滴った。

 墓が十字の形なのは、こうして輪にした花を掛けるためだろう。だって地面に置いたらすぐにだめになってしまうから。

 そっと供えたばかりの白い花に触れて、まだ柔らかい地面を撫でた。

 どっと俺の中に記憶が浮かぶ。

 赤ん坊のころのこと、あまり笑わないばあちゃんだったけど、いつでもその目が俺を見ていてくれたこと。

 手伝いを申し出たら迷惑がって、でもちゃんとさせてくれた。薬草の見分け方、下ごしらえ、ポーションとエリクシールの作り方、虫と獣避け、そしてこの森の歩き方や魔物について……。


『そう、そう。ちゃんと手を見るんだよ。薬草の中には毒草に分類されるようなものもある。この森でないところで触る時は特にね、手に傷がないか、見すぎるぐらいに見るのがいい』


 ……うん、ちゃんと覚えてる。


『おまえはこの森に育てられた子だ。森が教えてくれる道を、逸れないように歩きなさい』


 オウルばあちゃん、俺…教えてくれたこと、ぜんぶ覚えてるからな。

 ばあちゃんの墓を前に泣いて、初めて自分の家族を思い出した。父さんと母さん、兄貴も、俺が死んじゃったことを悲しんでくれただろうな……。

 誰にもなにも返せなかったことが心残りだ。でも、がんばって生きていかないと。

 ぐいっと涙を拭って、改めて考える。

 ここが本当にあの世界だとしたら……。


「ステータスは見られるのかな?」


 目をつぶっても浮かばないな。目を開けても見えるのは風景だけか。

 ええと…呪文とか? いやでも、特に魔力がある感じがしないって言うか、いやいや。

 そもそも俺、魔法とか使ったことないしわかんないな!


「ステータスオープン! 違うか。…あ、もしかして」


 あったじゃないか。敵にも味方にも地図にも使える万能魔法スペル


「『サーチ・オリジン』」


 ヴンっと目の前に半透明なパネルが開いた。あれ、経験値は持ち込めないって言ってたけど…これって記憶があるから使えたってことか?

 確か主人公だけの魔法スキルだったな。

 これは索敵ローバー鑑定アナライズとアイテムなんかの捜索スルースが三点セットになった便利な魔法スペルだ。ほら、ゲームでいうところの話すとか調べるのコマンドがぜんぶAボタンで済むみたいな感じ。

 この系統の上級の魔法スペル偵察サルートだったかな。俺は最後まで覚えなかったから詳しくないけど、あっちは装備とかスキルとかさらにいろいろわかるらしい。まあその分MPの消費も多いだろうけど。

 俺の「サーチ・オリジン」は消費MPがほぼないから、持ってて重宝間違いなしだ。


「こんなとこだけゲーム感が残ってるんだなあ」


 名前はサトル・ウィステリアか。オウルばあちゃんの苗字だ。

 そして十五歳になりたて! 若い!!

 声変わりもしてないし、改めて手を見たら、確かに元の俺よりかなり小さくなってるし、なんか皮膚が白くて若い! 健康な十代の肌ってこんな血色よくてぱつっとしてるんだな!!

 体型は普通…よりやせ型かな。あばらがちょい浮いてるし。

 身長はわかんないな。ばあちゃんは小柄だったし、俺以外ここには誰もいないから比較対象が欲しい。

 能力値は…数字じゃなくて、バーの長さで見るらしい。

 レベルのとこが年齢になってて、ほかのステータスで表示されるのはHPとMP……これだけ?

 どっちも短いなあ。もしかして強かったらこのバーが、どーんとはしっこに届いたりするんだろうか?

 本物のゲーム画面みたいに技や素早さ、守備力とか幸運の項目はないっぽい。まあそうだよね。

 とりあえず、HPは体力、MPは魔力を鍛えたら伸びる感じかな?

 自分の今の体力と魔力が確認できるだけでもありがたいよ。努力なんて柄じゃないけど、魔物がいる世界ならがんばらないとまたすぐ死んじゃいそうだから、気合い入れないとだ。

 ええと、じゃああとはスキルだな。

 パネルをスライドして、俺はびっくりした!


「……うわ」


 いやだって、なんだこの量!?


「そうか…身体能力って意味での経験値は無理でも、こういうのは記憶にカウントされるのか…!」


 一周目で取った魔法スペルとスキルがぜんぶある。あるだけで、九割使えない状態だけど!

 大急ぎでも一応クリアしといてよかったなあ。

 ないのは二周目のラスボス戦直前に入手できるアルティメットスキルと、近接系や最上位ジョブのなんかすごいやつだな。

 どうせ今の俺は最大MPも僅かしかないし、魔力も足りないからそんなすごい魔法スペルは使えない。それに近接系ジョブの強力なスキルだって、どれも必要なステータスが高くないと発動できないから、やっぱり使えない。

 スキルの方は、MPだったり力とかなにか特定のステータスの高さを要求されるもの以外は大丈夫そうだな。

 入手ジョブは「森の子フォレストゲイン」「薬師見習いメディクアプティス」と「吟遊詩人バルドラー」ね。つまりほぼ一般人だけど、「吟遊詩人バルドラー」が最初にもらえたのは音痴じゃないのが約束されたみたいでうれしい。

 装備できるものは杖と短剣と弓、楽器も大丈夫そうだ。

 そもそも前も取らなかった剣、斧、槍は無理というか、そこ自体が空白になってる。一周目で戦士系のジョブに就いてなかったからかも知れない。

 取っておけばよかったと後悔したけど、ないものはしょうがない。

 値切ったり情報を聞き出しやすくなる「交渉」とか魔物に会敵しにくい「猫歩き」と「隠蔽ハイド」なんかはそのまま使えそうだから、そっちでがんばろう。

 ……割とコミュ症だったのに、本当に生身で「交渉」スキルが使えるのかわかんないけど。

 持ち物欄は…よかった! ちゃんと「アイテムボックス」になってる!!

 どんな仕事を選んで暮らすにしろ、これがあるのとないのとじゃ大違いだから、有り難い。

 大事なもの欄に「ソロモン・コア」だけ。一回エンディングを見たら手に入る証だな。俺専用装備で、「盗む」「強奪」完全無効。万が一手放しても必ず手元に戻ってくる。

 見た目は革ひもに通した古めかしいデザインの鍵だ。ちなみにこの家と、アイテムボックスの鍵も兼ねてるらしい。

 これで布の服が持ち物欄に出てなくてよかったよ。

 だって、裸でうろつくやつなんかいないだろ!? って怒るとこだ。

 ゲーム内で手に入れた武器や防具は残念ながらなかった。武器と防具だけでもあれば一気に楽になったんだけど、さすがに甘かったな。

 使用可能なステータスも満たしてないし、スタート地点でラスダンの秘宝に匹敵するような装備で歩くのもおかしいから、これはしょうがない。

 現実にこの世界を生きるなら魔王討伐なんて恐ろしいことはしたくないから、見る機会はなさそうだ。

 そんなのは伝説級の冒険者たちに任せて、俺は堅実な人生を生きよう!

 改めてそう決意して、俺は小さな家のドアを開けた。

 中に入ったらすぐ台所だ。大きな水がめの中身は、近くの川からせっせと俺が毎日汲んできてた。

 井戸がないのは不便だったけど、俺が大きくなってからはあの作業をばあちゃんにさせずに済んだだけでもよかったな……。

 体が弱ってからは、そんな魔法スペルを使うのも大変っぽかったし。

 思えば、ばあちゃんはもう自分の最期がわかってたんだろう。

 戸棚にいろんなポーションを作ったまま売らずに残してくれたし、ほかにも干し肉とかドライフルーツ、下ごしらえした薬草の束を見たらそう思った。

 ごく稀にばあちゃんの知り合いが訪ねてくる以外はずっと二人だったから、小さなテーブルと椅子が二脚、食器と調薬道具、素材を入れる棚でここはもういっぱいだ。

 隣は寝室で、簡素で小さなベッドが二台。

 最初は一台だけで、俺は籠に寝かされていたと思う。でも物心ついたころにはこうして俺の寝床も用意してくれてたんだよな……。

 ベッドの横の壁にかかったカバンを取って、いよいよ旅立ちを決意した。

 火蜥蜴の革でできたこのカバンは、ばあちゃんが若いころに装備してたマントの一部を使って作ってくれたものらしい。

 落ち着いたえんじ色で、丁寧に手入れされて長く使い込まれたからかしっくり馴染んでいい風合いだ。

 カバンを開けると、そこには折りたたまれた古めかしい地図と、色褪せて生地の端っこがほつれかけた赤い小袋が入ってた。

 ばあちゃんがいつも肩から掛けてたショールだ…!

 震える手で開けたら、中には結構な額のお金が入っていた。こちらの通貨はダルムって言うんだけど、物価から考えて1ダルムがだいたい十円ぐらい。

 ここには大小の銅貨や銀貨で合わせておよそ一万ダルムが入っていた。ゲームでは二周目特権でしかなかったけど、今の俺にとってはばあちゃんが細々と暮らしながら貯めてくれたお金だ。

 大事にしようと思いながら、俺は改めて荷造りをし始めた。

 ここから出たら、たぶんもう当分は帰って来られない。保存食や薬草、ポーションの類はぜんぶ持ち出さないとな。

 まずは武器として腰のベルトのホルダーに使い慣れたナイフを入れる。カバンをアイテムボックスにつないで、弓と矢筒、石を二つ縄で結んだ投げ縄のボーラ、台所の薬草と食料、俺もいっしょに作った各種ポーション、キャンプ用品っぽい野営用の各種道具、革製の水筒と着替えも一式バッグに突っ込んだ。

 水がめは虫が湧くといやだから、外に出して中身を捨てておく。

 最後に外出用の毛織の外套を羽織って、しっかり施錠だ。

 ここが境界なんだな。郵便局があるわけじゃないし、ポストもない門みたいな粗末な木の柵を開けて出る。

 すると、とたんにぶわっと森の気配が濃密になった。

 ああ、そうか。ばあちゃんが作ってくれた「家」から外に出たんだなあって感じだ。


「あ、持ち物が増えた」


 ステータス画面に新着アイコンが点いたのを感じてもう一度開いたら、持ち物欄が「魔法の鞄」になって、所持金と、「オウルの地図」という表記が見えた。

 説明は、「老魔女オウルが養い子サトルに与えた鞄。火や水に強い」と、地図の方は「かつて魔王を倒した勇者が旅の中で訪れたすべての場所が記された地図。オウルの庇護の術がかかっており、サトルが訪れた場所を照らす」か……。

 今はまた新しく始めたところだから地図はぜんぶ灰色。ズームするとこの家のあたりだけが明るくなって、俺のいるところが点で光ってる。

 魔法の鞄も不思議な地図もただのゲームアイテムだと思ってたけど、こうして見たら重みというかありがたみが全然違うなあ。

 ここで生きなくちゃいけないとわかったときは絶望の一言だったのに、俺も現金だな。

 こんなチートアイテムをもらえて、わくわくする余裕ができた。


「あーまた泣きそう」


 ずびっと鼻をすすって、鞄をぎゅっと胸に抱く。

 蔦や宿木にぐるぐるに巻き付かれてもびくともしない巨大な杉っぽい木がずらっと並ぶ森は、どこまでも深い。立派な枝が重なり合う空を見上げたら、緑の向こうに透き通るような青が見えた。森から出たらさぞ解放感があるだろう。

 気候は温暖で、今は花が盛り。春の真っただ中だ。心なしか緑の色も柔らかい。

 俺の知ってるこの世界はゲームだから暦や曜日も少しもじった感じで、今日は火の日とか、水の日なんて表記で時計も知ってるものだった。

 まあ、設定上どこも町の広場に大きいのがどんとあって、庶民はそれを頼りに、富裕層は懐中時計を持ってるって感じだったかな。

 ばあちゃんと住んでた家にはなかったけど、朝昼晩さえわかりゃいいって感じの生活だったから不便はなかった。

 時計が欲しいのはスケジュールに追われる生活をしてる人だけだって実感する。

 ばあちゃんには、「自分が死んだらおまえは町に行って誰かと生きなさい」って言われてたし、この先は欲しくなるかも知れないけど。


「ここから一番近いのは…ナーオットか。よかった、知ってるとこだ」


 ゲームのデータがベースになってるなら、どのルートを選んでも実際に一番最初に入ることになる初心者に優しい街のはずだ。

 豊かな森と、広大な草原が近くて、領内には大きな湖もある。それなりの魔物はいるけど食うに困るような状況は少ない気がする。

 全体図で見たら小さいけど、ズームするとこの森は相当深いことがわかった。

 ゲームなら数分もかからないけど、さすがにそれはないだろうし、数時間…いや、もっとかかるかも知れない。

 でもまあ、初心者には過ぎるほどの装備もあるし、なんとかなるはず!

 ブーツの紐をしっかり締め直して、いざ出発だ!!

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