第4話「湯の郷」

 公用の自転車を署に戻し、ベクターフィールドが指定したショッピングモールへ向かう。有給休暇の申請は必要になるが、ベクターフィールドを協力させた場合、必ずあっさりと通る。魔王らしくない風貌と行動ばかりのベクターフィールドであるが、人の意識を変える事――特に有給休暇の決裁くらいは朝飯前なのだろう。


 走らせている愛車は、憧れていた刑事ドラマで主役が駆っていたような特別色の高級車ではないが、新車で買った真っ白い軽自動車のスポーツカー。トランスミッションはマニュアルを選び、ちょっと気取ってホイールは鍛造マグネシウムに、タイヤはスポーツタイヤに取り替えている拘りの愛車だ。


「あれね」


 それでもベクターフィールドの愛車と並べると、同系統の色である事も相まって、うらやましさが込み上げてくるが。


 ショッピングモールへはしょっちゅう来るのだから、アイスクリーム屋の場所は分かる。


 エスカレータで3階へと上がれば、愛車と同じくベクターフィールドの長身は目立つ。嘘か真か、日本人とカナダ人のハーフを名乗るベクターフィールドは189センチあるのだから、座っていても頭が見えるくらいだ。


 しかし近づいていく亜紀は、途中で足を止めさせられた。

「え?」


 ベクターフィールドの向かいに座っている子供の顔を見たからだ。

興津おきつくん?」


 亜紀あきは自分が補導してきた子供の顔は覚えている。それが今、自分が追おうとしている対象ならば尚の事だ。


「!」


 興津少年も覚えていた。


 こちらは警察官という事を覚えていただけに、走った環状は緊張であり、興津少年の緊張と軽い恐怖感を感じ取ったベクターフィールドは座る位置を変え、亜紀を遮る位置へ移る。


「で、俺の協力が必要な仕事は何だ?」


 興津少年との契約は、亜紀であっても邪魔はさせない。一般的な感覚として、興津少年がやってきた万引きは許されない事だが、ベクターフィールドの価値観に、その善悪は不在だ。


 147センチしか身長がない亜紀は、背伸びしてベクターフィールド越しに興津少年へ顔を向け、


「興津くん。捜索願が出てます」


 しかし興津少年を連れ戻しても解決するとは思っていないのだから、この話の進め方は間違いだ。


 興津氏幼年は益々、緊張と恐怖を増させてしまう。それは虐待と育児放棄を予想していた亜紀にも想像は易かったはずだ。


「こいつは熊本のお祖父ちゃんの家に連れてくぜ」


 ベクターフィールドはもう一度、亜紀を遮った。


「そういう契約を交わした」


 ただ苦い顔をさせられているが。


 ――コンフリクトか?


 興津少年との契約は、彼を熊本の祖父宅まで連れて行く事。


 亜紀との契約は、亜紀が必要と思った事件の解決に全力で協力する事。



 亜紀に協力すれば興津少年を母親の元に戻す事になるし、熊本まで連れて行くならば母親の元へは戻せない。



 しかし亜紀にとっても、この契約は渡りに舟ともいえる。


「熊本のお祖父ちゃん?」


「母方の祖父がいる。そこまで連れていくぜ」


 親権者の身内だ!


「あァ、それなら丁度いいの……かも?」


 興津少年の祖父がどんな相手かは知らないが、あの荒れ果てた母親のアパートを見ているだけに、それ以下は想像が及びにくい。


「何だ? いいのか?」


 一度は疑問を挟むベクターフィールドだったが、亜紀の返答は待たない。契約に於いて、心変わりする間を与えて良い事はないと骨身に染みている。亜紀はそういうタイプでないにしても。


「なら、まず服がいるぜ。この格好だと、色々と問題があるだろ。下に安いとこあるだろ」


 席を立つベクターフィールドは、興津少年に「行くぜ」とあごをしゃくった。



 ***



 服に関してはベクターフィールドは無頓着であるから、亜紀のセンスが頼みであったが、それは成功したといってよかった。


「トップスはクルーネック。ボトムスは七分丈にしてみた。足下は脹ら脛まで覆うロングホーズと、靴は軽めのスニーカー。荷物が運びやすいようにナップサック……どう?」


 全部で一万円程度のコーディネートは、薄汚れた印象のあった興津少年を、年相応――ハッキリと興津少年がいったわけではないが、小学校低学年くらい――の印象に変えたのである。


「ボトムスは裾が汚れやすいから、七分丈にしたらソックスだけ取り替えればいい。足下も、このハイカットスニーカーじゃなくても、夏はサンダルなんかにも合わせられる」


 奥津少年には活発な印象こそないが、子供らしい格好といえばこうだろう、というのが亜紀のセンスだ。


「ポケットにごちゃごちゃ入れずに、ハンカチや着替えはナップサックに入れるの。洗濯した服もね」


「センスがいいか悪いかは置いとくぜ」


 そういってベクターフィールドはククッと薄笑いを浮かべる程度であるが、着替えた興津少年の方は、新しい服に通した両手に視線を行き来させているのだから気に入っている。


 その興津少年の顔が、ベクターフィールドから薄笑いを消した訳ではないだろうが、ベクターフィールドは愛車の鍵を振ってみせる。


「着替えができたんなら、スーパー銭湯にでも行こうぜ」


 食事が終わり、誰に怪しまれる訳でもない着替えを手に入れたのだから、後は入浴を済ませれば祖父宅へ行っても心配される格好ではなくなる。


 そしてスーパー銭湯といえば、亜紀に一つ、思う所がある。


「ベクターフィールド、ひとつ、お願い」


 亜紀が向かわせたのは、水着着用で混浴ができるスーパー銭湯だった。


 ――興津くんの面倒は私が見るから、熊本に行く前に調べてきて欲しい事があるの。


 合法非合法を問わず、あらゆる情報を集められるのがベクターフィールドである。


 そこは安心している亜紀だが、今の自分の格好は、少々、落ち着かない。


 ――水着なんて学生以来……。


 ワンピースを選んだが、ビキニがレンタルにある事も居心地悪く感じてしまう。しかも選んでいる客が目につくというのも、そういう落ち着かない気分に輪をかけている。


 それらは何とか見ない振りをし、エチケットとして湯船へ浸かる前に身体を洗う。


 ――確かに、ネグレクトか。


 興津の身体や頭を洗ってやりながら、亜紀は児相が母親似行った事が守られていない事を確信させられていた。


 奥津少年は自分の身体を洗い慣れていない。


 亜紀も殊更ことさら、風呂好きという訳でもなく、肌の手入れに心を砕くような方でもないのだが、奥津少年の髪や肌が荒れているのは分かる。


「危ないから走ったり、飛び込んだりしないで下さいね」


 洗い終えた奥津少年に一言、釘を刺すのは、ここをプールくらいに思っている風だから。


「お風呂ですから、静かにね」


 亜紀は露天風呂――といっても中央に洞窟のある巨岩を模したオブジェクトと、掛け流しの湯が瀧のように流れている風呂は、確かにプールか何かに見えてしまう――の減りに腰掛け、静かに足から入っていった。


「静かに……」


 しかし奥津少年はというと、ころりと横になると……、


「え?」


 呆気にとられる亜紀の眼前で、そのまま転がって湯船に入る。


「もう」


 怒ったような口調にはなるものの、亜紀も吹き出してしまっていた。


「あっち行っていい?」


 掛け流しの湯が瀧のようになっている方を指差す奥津少年へ、亜紀は「気を付けて」と告げる。


「本当に、ここはお風呂ですから、危なくないようにして下さい」


 些か心配性が過ぎるというものだが、奥津少年も岩に登ってみたいという訳ではなかった。


「修行!」


 瀧のように流れてくる湯の真下に入ると、手を合わせて頭からかぶる。


「もう」


 今度は亜紀も声を出して笑ってしまった。


 ――でも、これが当たり前のはずね。


 笑いの中で、亜紀はそう思う。


 今まで怯えた目をして、空きっ腹を抱えていた方が、子供としてはおかしいのだ。


「ベクターフィールドが来たら、お夕飯もここで食べていきましょうか」


 奥津少年の髪をグシグシと撫でる亜紀。フードコートのメニューも、なかなか美味しそうな品揃えだったことを覚えている。


「はい」


 奥津少年の顔に萌美があった。


 それは亜紀の後ろにベクターフィールドの姿を見つけたからでもある。


「もう来てるぜ。メシ、食ってくの?」


 時間的には夕食の時間が近づいているとはいえ、遅い昼食が唐揚げ一人前半と油淋鶏半人前、大盛りご飯にコーンスープと、なかなかヘビーにものだった興津少年は、まだ腹を空かせていないのではないか、とベクターフィールドの感覚ですら思うのだが、


「うん!」


 興津少年は元気よく返事をするが、その笑顔に亜紀は少し表情を陰らせてしまう。


「食べれるときに詰め込んでおくって特徴のある子も、いるでしょ?」



 虐待児童の特徴に合致してしまうからだ。



「風呂は入ったな。なら、飯にしょうぜ」


 ベクターフィールドは上がろうかと、フードコートへ続く方へ顎をしゃくった。


 奥津少年を連れて行く亜紀へ、嫌味をいうのも忘れいずに。


「色気のねェ水着だな、おい」


「レンタルだし、TPOとか色々とあるの、わかるでしょ?」


「あァ、用事のない服は持ってないな」


 またベクターフィールドが薄笑い。


「……それもあります」


 亜紀は苦笑い。


「行こう?」


 奥津少年が満面の笑みだったのは、よい対比といえたかも知れない。

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