第22話 episode.7 恋人(2)


 けれど、人の心は、どうしてこんなに不可思議なのだろう。


 初めての情交を終えて、恋人になったエドの体を自分の胸に抱きしめているのに、ルカはちっとも幸福ではなかった。


 幸福であるかわりに、彼の心を占めていたのは――恐れだった。


 エドのクルーは、あとちょうど一ヶ月でブコバルを離れることが決まっている。


 それはエドとの別離になるのだろうか。今、腕の中で安らいでいる彼は、イギリスへ帰ってしまったら、自分のことなど忘れてしまうだろうか。


 不確かな未来は、ルカの心を喪失の予感で悲しくさせた。


「エド」

  背中から抱きしめたエドに呼びかけた。


「エドは……経験があったんだね?」

 そう問うと、腕の中の彼はかすかに笑った。


「まあね」

 ルカは顔をエドの首の後ろにこすりつける。――さっきの、あんなに乱れていた息。甘えた声。上気した頬。焦れて、せつなそうに身をよじっていた肢体。


 それを、自分以外の人間が見て、ふれて、好きにしたことがあるのかと思うと、ルカは胸が苦しくなるような気がした。


「何人くらい?」


 悪趣味な質問だと自分でも思ったが、どうしても尋ねてしまう。


 エドはもう一度かすかに笑う。ベッドの上には、薄い闇が忍び寄ってきていた。


「忘れたよ」


「いいから。教えろよ」


 過去の経験について詮索するなんて、嫌な奴だな、と自分でも思う。けれど、気になってしまうのだ。今、自分が抱いている体に誰かがふれて、さっきの自分と同じことをしたと思うと、ルカは嫉妬で苦しかった。


 かつて寝た女性たちには、感じなかった感情だった。彼女たちは明らかに、それなりの経験があるようだったが、むしろ自分はそのことに安堵したものだ。


「忘れたよ、そんなの。……忘れてしまいたいようなことだからさ」


 エドはかすかに笑って、ルカの腕の中で寝返りをうつと、キスをくれた。


 エドの温かな舌は、優しく動いた。愚かな独占欲にとらわれているルカを、なだめるかのように。


 エドはとてもキスが上手だ。――と、もう一度思う。


 そしてエドは、自分のキスが上手なことを知っている、とも思う。嫉妬深い相手を黙らせるなら、このキスが最も有効だと、彼は知り抜いている。


「――キスでごまかすなよ」


 せめてもの反撃としてそう言うと、エドが笑う。


「本当に忘れたって。きみと昨日キスした瞬間、それまでのことなんか、全部、忘れちゃったよ」


 そう言って微笑みながら、微笑のかたちの唇で、もう一度甘やかすようなキスをくれた。


 どうやら、俺は。


 すごく深い場所まで、エドに持っていかれてしまったらしい。……


 たった一回、セックスしたぐらいで、自分との関係を、長く続けるものにして欲しいと言うほど、ルカは子供じみた夢想を持ってはいなかった。


 けれど、イギリスに帰ったエドが、別の誰かに上手なキスをしながら、「きみのキスより前のことは、みんな忘れたよ」と言ったりするかと思うと、耐えられない気がした。


「――ルカ?」

 唇を離したエドが笑って言った。


「明日、会うときは、普通の顔をしていてくれよ?」

 エドはそう言うと、ひそやかに笑った。


 言われなくても、自分たちの関係を不用意に洩らさないほうが賢明なのは、ルカにもわかっている。


「わかってる」


 そう答えることが、今のルカには鈍い痛みをもたらした。


 たった一回、体と体を合わせただけなのに、もう失うことの怖さが、ルカを支配しはじめている。


 情交は、ベッドの上で、甘い、甘い秘密の菓子を、二人で与えあっていたようだった。


 初めて味わったその秘密は、とても甘くて、ルカはどうしたらいいか、わからなくなってしまった。彼はもう、次の甘い菓子が欲しくてたまらないのだ。


 最初の交歓の後の、幸福なはずの倦怠のなかにたゆたいながら、ルカの胸は苦しかった。


 苦しく、せつなかった。

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