第14話 episode.5 戦争の街(3)
「エドは? 子供は好き? アメリカに残してきた恋人と、結婚の予定は?」
マリヤにそう問われて、エドは笑い声をあげた。
ステディな恋人の存在を前提にして、そんなことを尋ねられるのはしょっちゅうだったから、エドはいつも繰り返している返答を口にする。
「子供は大好きだけど、結婚なんて、まだまだ、ですよ。前の仕事をやめて、ロンドンでGBNに入社したばかりなんです。自分自身の生活の面倒をみるのに手一杯なのに、結婚なんて、とても考えられない」
そうやって通り一遍の答えを返したエドを見て、ルカはからかうように言った。
「エド、きみは酒に弱いんだな。見事に首まで真っ赤になってる」
そう言うルカは、目のふちが少し赤く染まっているだけで、あれほどグラスを空にしてきたのに、ほとんど顔色が変わっていない。
「そんなに酔っぱらってはいないけど。僕はすぐに顔に出るタイプなんだよ」
エドが弁解するように言うと、ルカは笑った。
「俺はね、今、結構、酔っぱらっているかも。でも、顔色には全然出ていないだろう? そういう性質みたいだ。俺の父もそうだった」
「『そうだった』って――きみのご両親は、今、どうしているの? ルカの家のことを聞かせてよ」
父親に関する言及に、ルカが過去形を使ったことが気になって、エドはそう尋ねた。
「今はね、両親ともいない。母は俺が高校生の頃に病気で亡くなって……父が亡くなったのは二年前、俺がイギリスから帰ってきてすぐのころだ。俺は、両親が年を取ってからできた子供だったからね」
「そう。……お父さんは、どんな人だったの? 職業は?」
「俺と同業者だった。――高校の美術教師。画家になりたかったのに、それでは生活ができなくて、夢やぶれて、仕方なく教える仕事についたのも同じ。自分では仕方なく教師になったつもりでいて、実はその仕事を愛していたところまで、嫌になるくらい同じだね」
ルカの口調は皮肉っぽいけれど、その表情には、何か幸福なことを思い出したように、やわらかな笑みが広がっている。
「息子が同じように絵を描くのを、とても誇りに思っていてくれた。イギリスの大学に絵の勉強に行くのを俺が決めたときも、すごく理解を示してくれた。留学は、経済的にギリギリだったけど、父が力になってくれたから、実現できた。――絵を描くプロフェッショナルにならなくても、若い年齢のうちに世界を見ておくことは、とても意味のあることだからって言ってくれていたよ」
ルカがそう言うと、隣に座っていたマリヤが何かをクロアチア語で言った。彼女は英語をあまり話せないけれど、エドやルカが話していることはほぼ理解できるらしい。
「マリヤが、俺は最近、父親に顔が似てきたって言ったんだけど」
姉の言葉を英語に直してエドに伝えながら、ルカは自分で自分の顔を確かめるように手で撫でた。
「……そうかな? 小さいときから、俺は、母に似ているってよく言われたものだけれど」
強い酒がルカの舌を滑らかにしたのだろうか。今日の彼はひどくよく喋る。
「両親は、ユーゴスラヴィアがこんなふうになっていくのを知らずに亡くなったけれど、それでよかったのかもしれないなってときどき考えたりする」
その言葉がきっかけになったように、ルカは話しはじめた。
彼の国と、戦争について。
溜まっていた胸の澱を吐き出すように。
――エド、この街はね。
俺が育ったこのブコバルは、クロアチアの中でも特にセルビア人の多い地域だ。
同級生にもたくさんいるし、両親のどちらかがセルビア人だっていう家の奴だって多い。
この街では、民族が対立していたわけじゃない。俺たちは、普通に隣人として暮らしていたんだ。
だってそうだろ、顔だって見分けがつかないし、住んでいるのは隣近所、話している言葉も同じ。
だとすれば、何を持って線引きする必要がある? 信仰は確かに違うけれど――クロアチアはローマカトリックが主で、セルビアは東方正教だけれど、信じている神様が違うことぐらいで、友達を殺そうとは思わないだろう?
民族籍が取沙汰されるようになったのは、こんなふうに戦争がひどくなってからで、自分で自分のことを「ユーゴスラヴィア人」だと名乗る人間もいまだに多い。死んでしまった義兄もそうだった。
だけどダニエラはそうじゃない。もう、俺たちの美しい祖国、一つだったユーゴスラヴィアは存在しないから。
去年の五月、自由選挙でクロアチア民主同盟が大勝して、クロアチア人による国家を創設しようという主張が声高になっていって――それに不安を感じたセルビア系住民に、自治区を形成しようとする動きが生まれた。そのムーブメントを、クロアチアは銃の力で無理におさえこもうとしたんだ。
双方に血が流れた。それは誰かの家族、誰かの兄弟、誰かの子供の血だった。
残されたものは、悲しみを乗り越えるために、彼らの死と流された血に意味を求めようとする。死者を悼む嗚咽は、怒りの慟哭へ、憎しみの叫びへとたちかわっていく。
その数がどんどん膨れあがっていって、もっと多くの死を呼び込んで、収拾がつかなくなっている。もう平和だったユーゴスラヴィアへの戻り方なんて、誰にもわからない。
なあ、エド――この国は、とても美しかった。
豊かな緑の丘陵地帯に田園が広がり、明るいアドリア海から地中海文明の風が吹き込み、中世のたたずまいを残した城壁都市には、教会がその鐘の音を響かせる。
俺はこの美しい国が大好きだったのに。
俺の育った美しい祖国が、とても誇らしかったのに。……
ルカはそこまで話すと、突然、左手の手のひらで目元を覆ってしまった。
そしてしばらくそのまま動かない。
ルカの膝の上で周りの大人たちの顔を見回していたダニエラが、突然黙りこくってしまった叔父の異変を感じて、居心地悪そうにルカの名前を呼ぶ。
涙ぐんだマリヤがダニエラを抱き上げようとすると、ルカは顔を覆っていた自分の手をほどいた。
「――ごめん、俺、やっぱり酔っぱらってる。ラキヤをこんなに飲んだの、久しぶりなんだ」
そう言った彼の声はかすれていた。やっぱり泣いていたみたいだった。
エドはそれについては言及せず、黙ってルカの目を見つめて微笑んだ。
「俺一人で食べて、俺一人で飲んで、酔っぱらって、さんざん喋って――ごめん、馬鹿みたいだったね」
「馬鹿みたいじゃないよ、ルカ」
エドはテーブルの上のルカの手に、拳をぶつける仕草をした。アメリカ人の彼は、そんな仕草で親愛の情を表す。
「きみは、ぜんぜん馬鹿みたいじゃないよ、ルカ」
そう言って、ルカに向かって微笑みかけた。
*
緯度の高いブコバルは、夏は闇が遅くやってくるけれど、夕暮れが始まる前にエドは帰らなければならない。太陽が傾きかけた時刻、エドはルカの家を辞した。
帰りがけに、マリヤがエドを呼び止めて言った。つたない英語で、けれど、これだけはエドに伝えておきたい、というような表情で。
「今日は本当に、ここへ来てくださってありがとう。弟が、あんなに楽しそうだったのは、久しぶりのことなの。あんなに話したのも、あんなに笑ったのも。まるで、戦争が始まる前みたいだった。私も楽しかった。ありがとう」
マリヤはやわらかな微笑を浮かべてそう言った。ほほえんだ顔は、どことなくルカに似ている。やはり姉弟なのだ。
いったんは断ったけれど、ルカはエドを送っていくと言ってきかない。じゃあ、待ち合わせたカフェテリアまで一緒に歩くことにしようと言って、二人は並んで夏の夕暮れの道を歩きだした。
一緒に歩くと言い張ったくせに、帰り道、ルカは黙りこくってしまった。さっきエドの目の前で涙ぐんだのが照れくさいのかもしれない。
明日は日曜日だね。
そうだね。
そんなどうでもいいことぐらいしか、二人は口をひらかなかった。
午前中に砲弾の落とされた、目抜き通りにやってきた。
火は消し止められていたけれど、案の定、一つの店舗がごっそりと消失していた。黒く焼け焦げた建物の内部が、無残に晒されている。二人の男と、一人の中年の女性が、煤で顔を汚しながら、散乱したものを取り片づけている。
片づけの作業をしている女性は、大きな声で泣いていた。……
ルカとエドは互いに言葉を交わさずに、そこを通り過ぎた。
そのまま無言で、一緒に歩いた。
別れることになっていたカフェテリアは、もうすぐだ。
「エドワード」
ふいにルカに名前を呼ばれた。
何だろう?――と思う間もなくルカの体が動いた。
ルカはエドの腕を強くつかんで、目抜き通りから外れた暗い路地裏にひっぱりこんだ。
ほとんど考える時間も与えられず、ルカに両肩をつかまれた。そのまま強い力で、背後の建物の石壁に押さえつけられる。
二人は向かい合ったまま、少しの間、見つめあった。
――戦争のブコバルで、恋をしたくはなかったから。
だから、そんなはずはない、とこれまでずっと打ち消していたけれど。
ルカはやはり、僕と同じタイプの人間だった。彼がときおり、僕の体を奇妙に熱っぽい目で見ていることに、少し前から気づいていた。僕がルカを好きなように、彼も僕を好きだということを、僕はちゃんとわかっていた。
ただ、気づいてしまいたくなかったから、気づかないふりをしていただけだ。
……けれどもう、いい。そんなことはどうでもいい。
彼の腕の中で、この不思議な色の瞳で見つめられたら、彼が同性であることも、ここが戦争の街であることも――もう、いい。どうでもいい。
目を閉じる瞬間、激しくなっている自分の鼓動を、エドは、どこか遠いもののように聴いた。
――そんなふうにして、二人は最初の口づけを重ねた。
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