第13話 episode.5 戦争の街(2)


 出迎えてくれたルカの姉は、ドアをあけるなりクロアチア語でルカに何か言い、ルカもそれに応えて彼女を抱擁した。


 彼らの言葉はエドにはわからないけれど、先刻の爆撃の音がここでも聞こえて、マリヤはルカの帰りを心配していたのだろう。夫を失ったばかりの彼女は、もうこれ以上、家族を誰も失えないのだ。


「彼がエドワード・パーカーだよ。こっちが俺の姉のマリヤ。それから姪のダニエラ」

 ルカは英語でエドを紹介してくれた。


 お会いできてうれしい、とマリヤは英語で答えて頬に笑みを上らせた。黒い長い髪をひとつに結い上げて、背がすらりとしている。


 スラヴ系の彫りの深い顔立ちは、やはりどことなくルカに似ている。小さなダニエラは、不思議そうな顔でマリヤのスカートにしがみついていた。


 エドは体をかがめて、ダニエラの顔に、自分の顔を近づけた。


 幼い子供独特の丸い頬、小さな手。栗色のくるくるした巻き毛に、母親そっくりの明るい茶色の目をしている。クリーム色の夏物のワンピースを着て、ポニーテールに結い上げた髪には、ワンピースと同じ色のリボンが結ばれていた。


 Dobar dan. Ja sam Ed.

 とりあえず、ルカから習ったばかりのクロアチア語を口にしてみた。


 小さなダニエラは、面食らったような顔をしたあと、クロアチア語で何かを言って、ぷいっと頬をふくらませた。それを聞いて、ルカとマリヤが笑う。

「いま、ダニエラ、何て言ったの?」

 笑っているルカにエドは尋ねた。


「ああ、ごめん、気を悪くしないでくれよ――へんな話し方、へんな人!って言ったんだ」

 ルカはまだ笑っている。


 招き入れられたルカの姉の家は、整頓はされていたものの、小さな子供がいる家独特のごちゃごちゃに満ちていた。若い夫の収入で賄っていたらしい二寝室にダイニングキッチンのついた簡易アパート。さほど広くない居間に、買い置きされた小麦、油、砂糖、塩の袋が積みあげられ、水をためておく白いポリタンクが並べられている。

 戦争というものは、こうやって普通の生活に侵食していくのだ。


 テーブルにはたくさんの料理の皿が並んでいた。この非常事態のブコバルで、マリヤは本当に張り切ってくれたらしい。この街の店頭からさまざまなものが姿を消し始めた今、こんなふうに食卓を整えてくれたことに、エドは胸が熱くなる。


「エド、こっちにきてからラキヤを飲んでみた?」


「ラキヤ?」


  エドが鸚鵡返しにそう尋ねると、ルカが笑った。なんだか家にいる彼はとても楽しそうだ。


「あ、その分だと飲んだことがないな? プラムから作るブランデーだよ。売られてもいるけど、ホームメイドで作ったりもする」


 そう言いながら、ルカはショットグラスを手際よく三つ並べて、透明な液体の入ったガラス瓶を取り上げると、その杯を満たしてしまった。


「えっと……まだ昼すぎだけど、いきなりアルコールから始めるの?」

 エドも笑いながら尋ねた。


「いや、ラキヤは、この時間帯にこそ飲むべきものなんだよ。こっちでは、昼食が一日のメインの食事だからね。ラキヤは……ええっと、英語を忘れた、何だっけ、メシの前に飲む酒」


「アペリティフ?」


「そう、それだ。食前にまず飲む酒だから、今、まさにラキヤを飲むべき時間なんだよ」


 そんなふうに話しながら、ルカはエドと自分とマリヤの前に、酒で満たしたグラスを置いた。俺の酒を断るなよ? ルカの目は、悪戯っぽく笑っている。


「……じゃ、何に乾杯しようか?」

 ルカが尋ねた。


「マリヤに。こんなふうにご馳走をありがとう」

 エドがそう言うと、マリヤがにっこり笑った。


「じゃあ、マリヤに」

「マリヤに」


 ルカとエドがそう言って、三人の大人がグラスを上にあげて乾杯のしぐさをするのを、ダニエラが丸い目でじっと見ていた。


「うわ――なに、これ。ものすごく強いね」

 飲み干したエドが思わず咳き込みそうになりながらそう言うと、ルカはますます嬉しそうに、エドの空になったグラスをもう一度ラキヤで満たしてしまった。


「蒸留酒だからね。たいていは四十度以上ある」


「あの濃いトルココーヒーといい、このラキヤといい……僕はクロアチアに一年いたら、胃に穴が開きそうだな」


 エドがそう言うと、ルカは笑った。


「だから、ラキヤを飲むにはルールがあってね。強い酒だから、絶対に他の食べ物を腹に入れなくちゃいけない。……ほら、料理に手をつけて。君が食べてくれるのを、マリヤが楽しみに待っているんだから」


 食卓で、ルカはとても饒舌だった。よく笑い、よく喋り、早いピッチでどんどん酒盃を空にしたのも、若い男のものらしい旺盛な食欲を見せて、料理をたいらげていったのも彼だった。


「こっちのがチェバプチチ。ピタパンの中に入れて食べるのが、俺の家の食べ方だけど、そうじゃない家もある。中に入ってるのは、挽肉と玉葱だね。こねて丸めてグリルで焼いてからピタパンに入れてある。こっちの郷土料理で、すごくポピュラーなんだ」


 テーブルを共に囲んで、自分の国の料理をアメリカ人のエドに得意げに説明してみせ、エドがそれを口にしていくのを見るのが、ルカは楽しくてたまらないらしい。


 あれも食べろ、これはどうだ、と皿を盛んに勧める合間に、彼はラキヤを自分で自分のグラスに満たして、次々に飲み干した。


 そんなふうにくつろいで、ひどく快活なルカを見るのは初めてだった。健康そうな食欲、食べ物を勢いよく咀嚼していく口元、ほがらかに笑う声、強い酒を嚥下する喉の動き。


 小さなダニエラがルカのそばにやってきた。彼女はテーブルの下にもぐりこむと、お気に入りの席についた。若い叔父の膝の上に、いつものように座ったのだ。


 物慣れたようすでルカに抱きかかえられて、ダニエラはルカの皿の上に手を伸ばす。マリヤがクロアチア語でそれをたしなめる。叱られて機嫌を損じたダニエラは、いつも自分を甘やかしてくれる叔父に抱きついて、母親からそっぽを向いた。


 幼い命を愛おしそうに抱きしめるルカの顔も、エドが初めて見るもので、何となくエドの胸をせつなくした。


 ルカも、いつかはこの国の誰かと結婚して、こんなふうに彼自身の娘や息子を抱きしめるのだろう。


 ――同性しか愛さない自分とは、交差することのないルカの人生。同性しか好きになれない自分には、おそらくそんなことは生じない未来。


 異性愛者なら、結婚という祝福された方法で、老いてゆくまで一人の人と寄り添うことが可能なのに、性的なマイノリティである自分には、どう考えても、困難な未来しか待ち受けていない気がする。


「可愛いね、ダニエラ。……そんなふうにしてると、ルカはいっぱしの父親みたいだ」


 胸にわきあがってしまいそうだった暗い雲を振り払おうとして、エドがそう口にすると、ルカは少し照れた。

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