第12話 episode.5 戦争の街(1)
土曜日、ルカと待ち合わせたのは、目抜き通りのカフェテリアだった。
歩く時間の目算を誤ったらしくて、エドがそこに到着したのは、待ち合わせた十一時よりも十五分ほど早かった。
きっとルカはまだ来ていないだろうと思いながらも、エドはカフェテリアの中を見回す。昼前の店は、思いのほか混んでいて、埋まっていないテーブルが見つからないほどだ。
エドには聞き取れない早口のクロアチア語、濃いトルココーヒーの匂い。カップや皿がふれ合うときにたてる音、笑い声、紙タバコの紫煙。それらのものが混ざり合い、生き生きとしたざわめきになって、店の中の空気を満たしていて――ああ、ここには確かに人々の生活がある、とエドは思う。
戦争がある国でも、昨日、人が何人も死んでしまっても、こんなふうに、人間は、一日を愛おしみながら生きていくのだ、と。
ブコバルは今日もよく晴れていて、夏の日差しを浴びながら歩いてきたエドの目には、店の中は暗く見えた。屋外との明暗の差のせいで、とっさには人の顔を探し出せない。第一、待ち合わせの時刻よりもずいぶん早いから、ルカはおそらくまだ来ていないに違いない。……
けれど、エドの目は、白い夏の服を着たルカの姿を見出した。
二人がけの小さな丸テーブルで、ルカは頬杖をついていた。
彼は白い開襟シャツを着ていて、薄暗い店の中で、その白さがエドの目を引いたのだ。どうやら彼は、ペーパーバックを読んでいて、エドの存在に気づいていないらしい。
拳の形にした左手で顎の重さを支えて、右手でテーブルの上の本の背を押さえている。彼の手のひらはとても大きいから、その片手にすっぽりと背表紙が収まってしまいそうだ。
硬そうな黒い髪が額にかかり、本を読んでいるために伏せられたまなざしのせいで、睫が濃い影を作っている。……
そのとき、ルカが本から目を上げた。
エドに気づいたらしい。頬杖をついていた手を顎から離して、彼はエドに向けて、ぱっと手のひらを見せて合図をした。
「やあ、エド」
ルカの唇がふっと動いて、大きく笑みの形になる。
荒々しい塑像のように男性的な顔立ちのくせに、いったん笑うと、子供のように純真な表情になる。
それと、何より、この瞳。
どんな言葉による形容も拒むような、不思議な淡い色の瞳が、エドを見つめていた。長い睫にふちどられた双眸には、意外なほどあまやかなニュアンスがあって、エドの胸をせつなくする。
――この瞳の色は、いったい何色なんだろう?
だが、通訳の彼に、恋愛感情を抱いてはならないことなど、最初からわかりきったことだった。
仕事上の知り合いに好意以上の感情を抱くのは、状況を厄介にする。自分の場合はそれが同性に向けられてしまうのだから、なおのこと。普通の男は、自分が別の男から性的な対象に見られることを、激しく嫌悪するものだ。
第一、戦争の街で、彼を好きになってはいけない。
そんなふうに、何度も自分に言い聞かせた。そしてこの呪文は、これまでのように、ちゃんと自分の感情を制御してくれている――と思う。
――彼ヲ好キニナルナ。
「僕もちょっと早目に来ちゃったけど、きみも早く来てたんだね。何を読んでいたの?」
――普通ニ話セ。……ソウ、ソンナ感ジダ。
ルカはぱたんと本をひっくり返して、背表紙をエドに示す。
「サリンジャー。クロアチア語の翻訳だけどね」
「え、見せて? ……へえ、クロアチア語バージョンのサリンジャー? どの作品?」
――彼ヲ好キニナルナ。
「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。……俺は、英語のオリジナルしか読んだことがなかったから。これはマリヤの持ち物なんだ」
ルカがそう答えた。
――彼ヲ好キニナルナ。好キニナルナ。絶対ニ。
「英語で書かれた小説も、結構、持っていたんだけどな。ノビサドを出るとき、本なんて、ぜんぜん持ち出せなかったからね。俺の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も、もう二度と手にできないだろうなあ」
「……残念だったね」
「いや、俺には命があるんだから、まだラッキーなほうさ。――でも、ノビサドで俺が住んでたアパート、どうなってるんだろうと思うときもある。家具とか、電化製品とか、描きかけの絵とか、全部そのままで出てきたからね。逃げるための荷造りなんて、したことがなかったから、何を鞄に詰めたらいいかわからなくて、余計なものを持ってきてたり、必要なものを残してきてしまったり。――行こうか?」
ルカはそう言うと、本を片手で持って席を立った。
「マリヤが朝から張り切っている。アメリカ人の友達を家に連れて来るって言ったら、すごく楽しそうにしてたよ」
ルカはそう言って少し笑い、二人は連れ立ってカフェテリアを出た。
夏の日ざしがまぶしい。
白く敷きつめられた石畳に反射して、瞳を射るようだ。
「ノビサドを出ようと思ったきっかけは、何だったの?」
ルカと並んで歩きながら、エドは尋ねた。
「いろんなことが二日間くらいのあいだに、立て続けに起こったんだ。……まず、仕事を失った。何の前触れもなく郵便受けに封書が来て、その封を切って、初めて自分が馘首されたことを知った。クロアチアでセルビア人の公職追放が起こったのと同時期のことで、自分にはその逆が起こったんだとわかった。途方に暮れたけど、とりあえず飯でも食べて考えようと思って、よく行っていたレストランに行ったら、誰もいなくて、すでにめちゃめちゃにされていた。クロアチア人が経営していたレストランで、オーナーとは顔見知りだったんだけど、窓ガラスがすべて割られていて、テーブルや椅子は壊されたり、ひっくり返されていて……」
ルカはそこで言葉を切って、沈黙した。
エドは黙ったまま、自分より少し高いところにあるルカの顔を見る。彼の目は前に向けられていて、自分に見せている横顔はあくまでも淡々としているけれど。
「ドアが壊されていたから、店の中に入った。――足元にレジスターの機械が転がっていた。叩き壊されて、中に入っているはずの現金はなくなっていて、コインが少し散らばっているだけだった。……それを見て初めて、この街にいるのはまずいって思った。……アパートに戻ったら、同僚の教師から電話があって、明日にでも、セルビア人の民兵組織が、このあたりのクロアチア人を引っ張っていくっていうんだ。成人の男は必ず捕捉されるから、今夜じゅうに逃げろって言われて……その電話を切って、すぐに義兄に連絡を取った。ブコバルで厄介にならせてくれ、と頼んで、トランク一つだけ持って、とりあえず列車に乗ったよ。……後から考えれば、ノビサドを逃げ出す、それが最後のチャンスだった。だって、その後すぐに、ノビサドからブコバルへの公共の交通機関は封鎖されたし、義兄があっけなく死んだのは――」
ルカが言葉を続けていたそのときだ。
二人の背後のごく近くで、耳をつんざくような轟音が鳴り響いた。
エドが反射的に振り向こうとしたとき、誰かに背中から体を強く抱き寄せられた。
ルカだ。
彼がとっさにエドの体を守ろうとして、抱きすくめたのだ。
背後にあったすぐそばの建物から、炎と濃い煙が、あっという間に空を突き刺すように上がっていくのが見えた。
砲弾が落とされたのだ。ひどく近い。
状況に体を反応させたのは、ルカのほうが数秒早かった。彼はエドの手首をつかむと、近くに停められていた車の陰へと走りこんだ。
「エド! ――!」
ルカはエドの名前を呼び、クロアチア語で何かを言った。
悲鳴が聞こえる。周囲の他の人間も、いっせいに走り出している。
続いて銃の音が上がった。前方? それとも後ろか?
とっさのことで、どこから弾の音がするのか判断できない。けれど、とても近くで上がったことだけはわかる。
「――!」
ルカはエドに向かってクロアチア語で叫んだ。が、エドには理解できない。
次の瞬間、ルカがエドの手を奪うように握った。
そのまま、彼に手を取られて、二人で走った。
心臓が苦しい。
死は、あまりにも近くにある。
建物の中へと走りこむ。雑貨商だ。他にも何人かが走りこんできた。
「地下へ行くんだ、エド! 急いで!」
ようやく英語に切り替えて、ルカが怒鳴った。
その頃になって、空襲警報が鳴り響く。街じゅうにサイレンの音があふれだす。
地下へ続く階段を走って下りた。他に二、三人の男女が、ルカとエドに続いて避難してきた。みんな一様に恐怖に凍りついた顔をしている。
雑貨商の地下室はかすかに黴くさい。誰かが電灯をつけてくれた。ぼんやりとした裸電球がひとつ、灯っただけだけれど。
地上で鳴り響いているサイレンの音が、地下にまで聞こえてくる。
エドの隣にいた背の低い口髭の男がクロアチア語で何か話し、ルカがそれに答えた。
「なんて言ったの?」
エドが尋ねると、ルカが英語で教えてくれた。
「ここの主人が、警報が鳴りやむまでここにいてもいいって言ってくれたんだ。あと二十分ぐらいじゃないかって」
その段になって、ルカはエドの手を握りしめたままだったことに気づいたらしい。ごめん、と小さな声で言って、手を放した。
――握ってくれていた手は、硬くて大きな手のひらだった。
「危ないところだった、もうちょっと俺たちが遅くあのカフェテリアを出ていたら、砲弾が落ちた場所を歩いていただろうから、今頃は――」
ルカの頬から血の気が引いていた。
一瞬の差の生。
好きになってはいけない彼がつないでくれた手。
鼓動が苦しいくらいに速まる。
これほど近くで砲弾を落とされたのは初めてだった。耳がおかしい。エドは思わず両手で耳をおさえた。
「……大丈夫? 怪我はない?」
ルカが尋ねてくれた。
「大丈夫。……ただ、耳がちょっとおかしい。……ちゃんと聞こえるけれど、耳鳴りがするような――」
近くで砲弾が落ちたせいで、鼓膜がショックを受けて、聴覚がおかしくなっているのだろう。
あの建物の中にいた人間は、どうなっているだろう?
一瞬にして上がったあの激しい炎と黒い煙。目抜き通りのごく一般の店舗。
あの建物には、軍事的な意味なんてまったくないのに。誰かの生活のよりどころ、誰かの思い出の拠点なのに。
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