第11話 episode.4 若い樹木(2)



 絵を描く人間の常で、ルカの認識はすぐれて視覚的だったが、ときに彼は、他人が見ないものまで見ることがあった。


 九歳くらいまで、墓地にある墓標の十字架を見ると、その下に眠る死者が、男女どちらであるのかを識別できた。ことに、幼くして亡くなった子供の墓は、すぐにそれと知れた。墓標の字を読んだからわかるのではない。墓標を見ることで、彼にはその判別が容易についたのだ。


 自分にとってはあまりにも自明のことであったので、他人もそうであると幼い彼は考えていた。が、そういうことを誰しもができるわけではない――というよりむしろ、普通の人間はそんなことができないのだ、と知るより先に、ルカはそのことを母方の祖母に話してしまった。


 信心深かった祖母は、悪魔の所為かもしれないとひどく怯えて、ルカの手を引いて彼女の敬愛する司教のところへ連れて行った。


 礼拝堂の片隅で、おろおろした祖母の訴えを聞いた「司教さま」に、いろいろ尋ねられた記憶が、今でも少しだけルカに残っている。七歳の頃のことだ。


(――男の人の墓か、女の人の墓か、わかる……というのは、どういうことなのかな? ルカ、君の言葉で、私にわかるように説明してくれないかな?)


(僕には「見える」んです、司教さま。それが見えるから、わかる)


(じゃあ、他に何か見えるものはあるかな、ルカ?)


(音の色が見えるときとか……)


(音の色?)


(はい。楽器の音の色。特によく見えるのは、教会のオルガンの音。見えないときもあるけど、見えるときには、赤とかピンクとか、青とか緑とか。細いリボンみたいに。重なりあって、ひらひらしているのが)


(他には?)


(他には……人が出している光とか)


(人が出している光、ねえ……)


(でも、いつもじゃありません、司教様。人が出す光は、見えないときのほうが多いです。だけど、人が出している光は、金色で、とても綺麗で……)


(ルカ! ふざけた話を司教様の前でしないでちょうだい! 人間は光なんか出したりしませんよ!)


 ルカは一生懸命に答えたのに、横で聞いていた祖母は、うろたえたようすでルカを叱りつけた。


 黒い僧服を着た司教は、優しげな声で笑うと、祖母のことを名前で呼んだ。


(ヤスナ、そんなに叱らなくてもいい、彼は真面目に答えているだけですよ。……ルカ、君は絵を描くのが得意ではないかな?)


(はい、司教様)


(そう。それはいい。絵が好きなら、それをぜひ伸ばしなさい、ルカ。天分というものは、天におられる私たちのお父様からいただいた宝物だからね。無駄にしない努力をしたほうがいい。……私は今までに、一人だけ、きみのように普通の人が見えないものを見る少年に会ったことがある。彼も教会のパイプオルガンの音色が、リボンみたいに見えると言っていた。きみのように、純粋で感じやすい魂を持った子供で、彼は長じて、すばらしい絵を描いたよ)


 そう言うと、胸のロザリオを繰りながら、司教は祖母のほうを向いた。


(ヤスナ……ときどき、幼い子供は、普通には見えないものを見るときがある。それは、穢れない魂は、それだけ神の御心に近い場所にあるというだけのこと。心配しなくても、この子だったらきっと、まっすぐに健やかに育っていくはずです)


 静かな声で司教はそう言い、ロザリオを繰りながら、祈りの言葉を口にした。

 ルカは慌てて、ひざまずいて手を組んだ。司教はルカの頭に手でふれて、祝福の言葉を唱えてくれた。……


 九歳を過ぎると、墓標を見てその下の死者の性別を知ることなど、ぱったりとできなくなった。できなくなってみると、なぜ自分にそれができていたのか、わからなくなった。それと同じ時期に、パイプオルガンの音色のリボンがあざやかに空中に舞うさまも、見えることがなくなった。


 が、人間が発する光は、その後も数回だけ、目にすることがあった。


 十三歳のころ、同級の少年にセルビア人のベイカリーの息子がいた。赤みがかった金髪の少年で、頬にはそばかすが薄く散らばっていた。同じ少年サッカーチームに属していて、明るいまっすぐな性格の持ち主で、彼と一緒にいるのは本当に楽しかった。


 あるとき、ルカは、彼の体が光に包まれているのを見た。


 比喩ではない。その少年の体のまわりが、光に満ちているのを実際の視覚でとらえた、という意味だ。


 何かきらきらしたものが自分に近づいたな、と思ってあたりを見回すと、彼が近くに来ていた。金色の光の帯が幾重にも彼の体を取り巻いている。それはとても綺麗だった。


 本当に、息をのむほど綺麗だった。……


 そのときルカは、同性である彼に、自分がせつないくらいに恋をしていることに、ようやく気がついたのだ。


 それまで、自分の性的な指向が、他の男と違うらしいという自覚がないわけではなかった。が、たぶん、ルカがそのことを最初にはっきりと意識したのは、あのセルビア人の少年が、光の帯に包まれているのを見たそのときだ。


 思春期になって、未分化だった自分の体の欲求が、だんだん具体的な形をとりはじめていって、ルカは混乱していった。周囲の少年たちが、クラスメイトの少女たちを性的な冗談の対象にして、さまざまなことを言うとき、自分はまったくそんな欲求を異性に対して抱かないことを思い知らされた。


 そんな自分が不安だった。不安でたまらなかった。


 だから、最初に異性とベッドを共にしたのはとても遅くて、二十代になってからのことだ。その体験は、イギリスで留学していたときに起こったけれど、歓喜や陶酔を、彼はまったく感じなかった。


 女性の裸体を見ても、それにふれても、興奮するどころか、どんどん心が冷えていく。歓びもなく、義務感に満ちて行ったその行為は、うまくいくはずもなく、相手の女性との関係も、ただ、気まずくなって立ち消えた。


 今年二十五歳になるルカは、まだその混乱の途中にいる。あきらめきれないでいる、と言ったほうがいいかもしれない。


 もしかしたら、ある日、ちゃんと自分の欲望が異性に対して向けられるのではないか、という願いが捨てきれない。自分の体の欲求が、同性に向かってしまうことを否定し続けたあまり、何がなんだか、彼自身よくわからなくなっているのだ。

 

 エドワード・パーカーの存在は、ルカのその混乱をますます強めた。彼のことを考えると必ず混乱してしまうのに、ルカはしじゅう彼のことを考えてしまうのだ。


 ようやく手にしたアメリカドルの仕事を、うまくやってのければならないようなときに、そんな混乱は無用なだけだった。だがエドは、ルカのその混乱を知ってか知らずか、英語が外国語である自分に対して、さまざまな場面で手を差し伸べてくれようとする。


 実を言うと、オカザキのアジア系独特の発音はわかりづらいことがあるし、クレアは、インテリらしいもって回った言い方をする。ルカがほぼ完全に英語を話せるといったん知るや、たいていの人間が手加減なしで英語を話すのだが、エドだけは、ルカがちゃんと理解できているのか、いつもこまやかに配慮を見せてくれていた。


 職業的な通訳としての訓練を受けたことのないルカにとって、そのエドの気くばりは、外国人四人のクルーと渡り合う上で、大きな助けになった。Does it make sense to you? ──と、時折、理解を確認してくれるだけで、通訳の仕事は停滞することなくうまく運ぶ。


 エドと最初に会ってからまだ二週間たらずなのに、彼はルカにとって、もうはっきりと「特別な」存在だった。自分の体の欲望について、裁定を下したくないのに、自分がエドに対してどんなことをしたいと望んでいるのか、しだいに欲求が具体的な形をとりはじめていくのが不安でたまらなかった。


 エドがクロアチア語を教えてほしいと言い出したのは、そんな頃だ。


「簡単なフレーズを、英語と対照させて教えてくれるだけでいい。とりあえずよく使いそうな表現を、棒暗記してみようかと思って。そんなに時間は取らせないようにするから、お願いできないかな」


「きみに俺がクロアチア語を教えるの? ……それは楽しみだね。すごく楽しみだね」


 ルカがそう答えると、エドは、どうして?とルカの顔を見上げた。明るい茶色の眼が、素直な光を放っている。


 この頃のルカは、エドのそんな表情の一つ一つに、もうはっきりとした情動を感じる。自分のことを見つめる瞳を好きだと思い、その感情が、セクシュアルな欲求に裏打ちされていることにも気づいている。


「どうしてルカは、そう言うの?」


「どうしてかって? きみが俺の国の言葉で苦しんでるのが、見られるからさ。……俺もね、英語を勉強するのは大変だったよ。きみがその逆を体験するってわけだ。それはそれは楽しみだよ」

 

 ルカがそう答えると、嫌なことを言う奴だな、とエドが言い返して笑った。


 その拍子に、ふわり、と何かの匂いがルカの鼻をかすめた。


 清潔でやわらかな――みずみずしい匂い。


 ああ、これは春の緑の匂いだ。

 エドは、芽吹きはじめた緑のような、優しい匂いがする。……


 ……思わず、自分の喉がごくっと鳴ってしまったような気がして、慌ててルカはエドの様子をうかがう。


「そのくらいのことだったら――」

 ルカは、必死に普通の声を取り戻そうとしながら言った。


 ──エドは、気づいたりするだろうか。

 彼のそばにいるとき、俺が息を詰めて、彼の体を見てしまうことを。普通の男が決して抱かない欲求を持って、その体を見てしまうことを。


「英語に対照させた表現を教えるだけなら、お安い御用だから。……実を言うと、エドには感謝しているんだ。そんなことでお返しができるなら、俺も嬉しい」


 ルカはそう続けた。


「――感謝? 僕に、どうして?」

 

 エドが不思議そうな顔をしたので、ルカはその先を続けるのが照れくさかったけれど、口をひらいた。


「きみはいつも、俺の仕事がちゃんと運ぶように、英語の理解を手助けしてくれるから。──本当のことを言って、きみの配慮のおかげで、とても助かっている。特に、ミスター・オカザキの英語は、癖があってわかりづらいけれど、きみが言い添えてくれるから、彼の指示が理解できる場面も多い」


「ああ、彼のアクセントは独特だし、それに言葉数が多い人じゃないからね」

ルカの言葉を聞いて、エドはそんなふうに笑った。


 身長に少し差があるから、エドはルカに笑いかけるとき、見上げるようにする。その仕草を好きだ、と感じる。


 そして、そのエドの体を腕の中に閉じ込めて、自分を見上げさせたら、どんな気持ちがするだろう、と勝手に心が走り出してしまう。


 綺麗な樹木みたいなこの体を腕で抱いて、彼が動けないくらいに強く、強く抱きしめてしまって、そして、俺は――


 くそ。落ち着け。


 速くなってしまった鼓動を静めようとして、ルカはエドに言うつもりで用意していた言葉を口にした。


 「今度の土曜日に、時間があったら、家へ来るといい。……クロアチアの普通の家はどんなかなって昨日、言っていただろう? 姉に話したら、ぜひきみを連れて来いって。昼飯でも一緒に食べないか」


「うわ、それ、本当? いいの、僕が行っても?」


 エドの茶色の目にぱっと光がさした。彼は感情がすぐにまなざしに映し出される。


「お姉さん、名前、何て言うんだっけ? 英語は話せる?」


「マリヤっていう名前だよ。英語に関しては、だいたい話せるって感じかな。きみが話すことを、理解することはできると思う。……姪っ子はね――」


 そうルカが言いかけたとき、エドが笑ってさえぎった。


 「姪っ子はダニエラ、この間、四歳になったばっかり、だろう? 君は自分じゃ気づいていないかもしれないけど、ダニエラのこと、しょっちゅう口にしてるよ」

きみの天使、くるくる巻き毛のダニエラのことをね。


 エドはそんなふうに言い足して微笑んだ。

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