第10話 episode.4 若い樹木(1)
シャッターを切るつもりがなくても、カメラを手にしているとき、オカザキは、ことあるごとにファインダーを覗く。
自分の目で見たあとに、カメラを通して世界を見る。それはもうオカザキの習い性になっていて、考えたりするより先に、呼吸をするように行ってしまうことだった。
レンズの向こうには、エドとルカが立ったまま話を続けている。
この二人は年が近いからなのか、よく行動を共にしている。クロアチアの青年が帰路につく前に、仕事を終えたあとの二人が、ロビーで笑い声を交わしている姿を見かけることも多かった。
「また、カメラで何かを『見て』いるのね」
背後から声をかけられた。クレアだ。
振り返ってオカザキは、彼女の姿に一応の儀礼的な視線を向けた。が、特に話したいこともないので、また黙って姿勢を元に戻す。
一日の取材が終わって、オカザキは疲れてロビーのソファにもたれていたところだった。自分の部屋に戻って、今日撮り終えたものの整理をしようとも思うが、体が重い。もう少しこのままここで、腰を落ち着けていようと思う。
「思っていたより、ブコバルは深刻な状況ね。……生活の困窮はひどくなっているし、難民となって街を離れていく人の数も増え続ける一方だわ。スロヴェニアは、一応の停戦を迎えているけれど、クロアチアは……」
そこまで言うと、クレアは大きなため息をついた。言いかけた言葉を空中に失ったらしい。
セルビアとの国境に近いブコバルは、もともとクロアチア領の中でも、セルビア人とクロアチア人の混在率の高い地域だ。カトリック教会とセルビア正教会が当たり前のようにして肩を並べる街で、銃撃はどちらの側をも、縦横無尽に蝕み始めていた。
「もう、僕の祖国が一つに戻ることはないんですね。スロヴェニアは、外国になってしまったし、僕の生まれ育ったブコバルもこんなふうになってしまった。もう取り返しがつかない……」
あまり個人的に口をきくことのないルカが、今日の午後、独り言のようにしてそうつぶやいた。
スロヴェニアがほぼその独立を果たし、ECもそれを承認した。ユーゴスラヴィアという国は、今までの形を完全に失ったのだ。
そこまで考えて、オカザキはもう一度、ファインダーを覗く。
カメラが捉える四角の視野には、二人の若い男が立っているだけだ。それをわかっていて、なぜか自分はファインダーを覗いてしまう。何がおかしいのか、エドが笑い、背の高いルカの胸を拳で小突く動作を繰り返す。
まるでハイスクールの少年たちが、じゃれあっているみたいだ、とぼんやりと思う。
「なあに? さっきからルカとエドをカメラで狙っているの?」
からかうような声でクレアにそう言われた。
「いや。……別にそういうわけじゃない」
そう答えながら、自分の奇妙な衝動を、自分でも不思議に感じた。
四角に切り取られた視野には、向かい合った若い青年が二人いるだけなのに――どうして僕はこんなに、今この瞬間の彼らの写真を撮りたい、と思ってしまうのだろう。
隣に座っているクレアの視線を感じて、シャッターを切るのは止めておいた。が、彼女がいなかったら、自分はあの二人を、今、確実に写真におさめていただろう、とオカザキは思う。
この光景を、撮らなければならないような気がする……写真家としての本能のようなものだが、カメラを手にしているとき、そういう感覚にオカザキは襲われることがあった。たびたびあることではない。
「エドは、きみと長い知り合いなのか?」
手の中のカメラが訴えてくるような、奇妙な衝動をやり過ごそうとして、オカザキはそんな問いを口にした。
「いいえ、彼はポールの直属の部下なの。エドはまだ入社して半年だし、一緒に仕事をするのはこれが初めてよ。でも、ポールは、なぜかエドのことをすごく買っていてね――」
クレアの話を耳にしながら、オカザキは再度、カメラを持ち上げて、二人の若い男の姿をファインダー越しに覗いた。
今度は、思わずシャッターを切った。
この二人の青年を写真に残したい、という強い衝動に抗しきれなかった。
カメラは、クレアの声をさえぎってしまうほど、無遠慮な大きな音をたてた。
写真を撮り終えて、クレアのほうに目をむけると、彼女は肩をすくめてみせてから、言葉を続けた。
「このブコバルの仕事にエドを抜擢したのも、ポールなの。……最初は、なんでこんな新米を連れてきたのかって思ったけど。一緒に仕事をしてみて、ポールの意図がわかったわ。エドって、基本的にとてもクレバーね。やるべきことを学ぼうとする謙虚さもあるし」
クレアはそんなことを言った。
「ポールが、彼を買う理由、僕にはよくわかるよ。……エドは他者に対して、共感能力が高い。ポールは、世界に対して働きかけようとするが、エドは、世界に寄り添おうとするタイプだ。資質が異なるから、エドのよさが、ポールにははっきりと見えるんだろう」
オカザキが言うと、クレアは片方の眉を上げて、諧謔を口にする表情になった。
「世界に対して働きかけると、寄り添おうとする、ねえ……なんだか、よくわかるような、わからないような比喩。あなたの言葉使いって、いつもそうだけど」
「そうかな?」
そう口にしたオカザキを、クレアは、少しの間、見つめた。視線がかちあうと、クレアは嫣然と彼に向かって微笑んだ。
「そうよ、ミスター・オカザキ」
おかしそうに、綺麗な声をたてて笑っているクレアの髪が、傾きかけた夏の日差しに色づいている。
何となく沈黙がおりて、もう一度オカザキは、ロビーで立ち話を続ける二人の青年の姿に視線を向けた。エドがおかしそうに笑い、彼より少し背の高いルカは、そんなエドを微笑しながら見つめている。
特に深い目的もなく、今度はそのルカの顔だけをファインダーでとらえた。
自分の顔に当たっている西日がまぶしいのか、淡い色の瞳をしたルカは、少し目をすがめている。
すがめた瞳で、目の前のアメリカ人の青年を見つめている。……
はっとした。
ああ――そうか。そうなのか。
カメラのファインダーは、ときにオカザキ自身が気づかないものを、この写真家に教えてくれることがある。
機械のくせに――あるいは機械だからこそ、カメラは、生き物のようにオカザキの手の中で反応する。
今も、もしかしたらルカ自身さえ気づいていないルカの情動に、カメラのレンズは敏感に反応したのだ。
この青年は、目の前の同性に、恋をしている。
恋をしている瞳で、彼の目の前の存在を見つめている。
カメラから目を離すと、急にまた黙り込んだオカザキを見ている、クレアの不思議そうな瞳があった。
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