第9話 episode.3 ジャーナリストたち(3)
「エド」
取材を終えて、帰り着いたホテルのロビーで、ルカに呼び止められた。
振り返って背の高い彼を見上げる。
傾きかけた夏の日差しが、その姿を少しオレンジ色に染めている。
がっしりとした幅広の肩と、意志の強そうな眉、ふれたらきっと、硬いだろう黒い髪。
ギリシャ神話に出てくる美しい若者をデッサンしたら、こんな感じだろう、と思う。
「エド、ガソリンを補給しておいたほうがいいと思うんだけど」
こんなふうに、ちょっとした用事があるとき、ルカはいつも自分を選んで話しかける。そのことに、エドは気づいている。
英語が母語ではないルカにとって、年齢が近くて同性のエドは、些細な事柄を聞き返したり、確かめたりするのに都合がいい存在なのだ。
それはごく常識的な成りゆきで、それを、自分に対して特別な好意を抱いている、などとは、決して誤解してはいけないと思う。
「だけど、いつものガソリンステーションは、閉鎖されてしまっててさ」
「閉鎖? それっていつ?」
エドは思わず尋ね返した。
いろいろなものが品薄になりはじめたブコバルでは、ガソリンの値段も急騰していた。長期におよぶ非常事態のせいで、閉鎖を余儀なくされたスタンドも出はじめている。
「一昨日。でも、まだ営業しているスタンドを知ってるんだ。知り合いに確かめといたから、今日も開いているのは確実だよ」
自分に対して話すときには、ルカの口調が、友達に対する親しげなものになっていることにも気づいている。――けれどそれも、年齢が近くて、同性同士なのだから、当たり前のことだ。
当たり前すぎるくらい当たり前のことで、そこに特別な意味を見出そうとするのは、愚かな間違いだ、と思う。
相手も、自分に対してきっと特別な好意を抱いている、と間違えてしまうのは――恋に陥っている人間がよくやる、自分勝手な誤解。
でも僕は、ルカに恋愛感情など抱いていないから、きちんと客観視できる。客観視できているということが、僕が恋などしていない証拠だ。……
「明日までには、給油しておいたほうがいい。そのスタンドは、俺の家の近くだから、案内するよ。そこで俺を下ろして、きみがここまで運転して帰ってくれると、俺も助かるんだけど」
ルカはそんなふうに笑った。
笑顔になると、少し幼い印象になる。夏の太陽のような明るい笑み。こんな笑顔を女の子が見たら、きっと、たまらないだろう。
「いいよ、そうしよう。ポールに断ってくるから、先に車へ行って、少し待っていて」
エドはそう答えながら、自分がさりげない口調になるように、努力していることに気づく。
馬鹿な。どうしてこんなことに努力が必要なんだ、僕は?
けれど、車の中でルカと二人きりになることを予想して、自分の鼓動が速くなってしまうのも感じる。
――同性にしか性的な魅力を感じないタイプの人間だと自覚したのは、エドが十一歳のときだ。二級上の少年に、最初のせつない恋をした。
少年は陸上が得意で、短距離走の選手をしていた。ランニングシャツとショートパンツのユニフォームから伸びた四肢には、バランスの取れた綺麗な筋肉がついていた。
エドは意味のよくわからないまま、彼の素裸を見たいと思い、その裸にふれること、彼に自分の裸をふれられることを、何度も何度も夢想した。
大人になるにつれ、自分の体の欲求の意味と、それが何と呼ばれるものか、他人にはどう評されるものかを知っていった。ゲイやレズビアンを揶揄する、心ないジョークや卑猥な蔑み、汚い俗語。そんなもので自分を形容されてしまうのが怖くて、自分が同性愛者であることを、他人に知られない努力を重ねた。
自分と同じタイプの人間が集まる場所では、体の関係を取り結ぶだけの相手は、いつも容易に見つかったから、そのときどきに適当にセックスをした。だが、長くつき合う関係は作らなかった。誰かと固定した関係を持ってしまうと、自分の生活がおびやかされると思った。
いつも自分の感情をコントロールしなければ、と思っていた。このくらいまでなら、友達としての好意の範疇。この段階までだったら、周囲に気づかれない。だけど、これ以上、好きになっては駄目だ。引き返さないと、傷を負うのは自分だ。――そんなふうに自分の感情を押し殺すとき、エドはいらいらして、体の欲求のはけ口を求めた。
適当な誰かと物理的にセックスをしてしまえば、感情を押し殺すことも、そんなに難しくはないことにも気づいた。……
自室へ戻ろうとしていたポールに、給油に行くことを断って、エドは足早にルカの待つ場所へ歩いた。
ホテルのエントランスを出て、夕暮れの外へ出る。
ルカの姿が見えた。
白いバンにもたれるようにして、背の高いルカが、どこか遠くを見つめて立っている。彼はまだ、エドが近寄っていくことに気づいていない。
今なら。
今なら、彼の姿を見つめてもいい。
そう思った瞬間、エドの心臓の近くで、何かが弾けたような気がした。
――ああ、駄目だ。
相手に気づかれないように、こっそりその姿を見つめたくなるなんて、僕は、やっぱり、ルカにかなり惹かれている……。
「あ、エド」
ルカが気づいた。ふわりと微笑む。
駄目だ。
戦争の街で、恋なんかしてはいけない。
「待たせたね。ポールからOKを貰ったよ。行こうか、ルカ?」
戦争の街に取材に来て、やがては帰る場所のある自分と、戦争の街でこれから生きていくルカと。
彼とは、あまりにも住む世界が違う。
好きになるな。
好キニナルナ。絶対ニ。
ポールから受け取った車のキーをルカに渡した。彼が運転席に乗り込み、エドは助手席に乗る。バックで発車させるとき、ルカは大きな手のひらを助手席の後部に回して、リアウインドウを振り返った。
たったそれだけのことに、彼の大きな手のひらに自分が抱かれているような気がして、愚かしいほどどきどきしてしまう。
――彼ヲ好キニナルナ。
「エドは、アメリカのどこで育ったんだ?」
ハンドルを握りながら、ルカはそんなことを尋ねてきた。
二人きりになるのは、もしかしたら、これが初めてだ。
「カリフォルニア州のサンノゼってところ。サンフランシスコより、少し南に下ったところさ」
「ああ、カリフォルニアか。太陽とオレンジの街だね」
ルカは横顔だけを見せて笑った。
「そう。アジア系とヒスパニック系が多くて、彼らのカルチャーが混淆してるから、ヨーロピアンの君が来たら、きっと珍しいものがいろいろあって、面白いだろうね」
そんなふうに話しながら、エドは、ルカがカリフォルニアに来ることなど、あるのだろうか、と思う。
ロンドンで就職して以来、久しく帰っていない自分のホームタウン。あきれるほど豊かで、すべてにおいて大量に消費するアメリカ。
日に日に困窮していくブコバルで、カリフォルニアのことを考えるのは、すごく奇妙な気がした。ブコバルにとってアメリカは遠く、アメリカにとってもブコバルは遠い。
「家族はどうしてる? きみには確か、妹がいるって言ってなかったっけ?」
ルカの声はひどく低い。低くてしゃがれているけれど、明瞭に響く。スラヴ訛りとあいまって――彼の声は、すごく、魅力的だと思う。
「うん、二歳年下のね。ケイトっていうんだ。小さな子供が好きで、去年、学校を出た後、キンダーガーテンのティーチャーをしているよ。――両親は二人とも元気で、父はまだ仕事をしている。父はね、アメリカで最も憎まれている職業なんだけど。……こういう言い方で、何の仕事かわかるかな?」
エドが冗談めかしてそう言うと、何だろう、とルカはちょっと真剣な顔で考え込んだ。
「アメリカで最も憎まれている職業……? ……歯医者?」
「歯医者ときたか! 興味深い答えだね、きっとルカは、歯医者に個人的な恨みがあるんだね?」
エドは声をたてて笑った。
「歯医者は、残念ながら、二番目に憎まれている職業だよ。……アメリカで最も憎まれている職業はね、覚えておくといい、弁護士さ」
「ああ――アメリカは訴訟社会だから?」
運転しているルカは、前を向いたまま笑う。
「そう。……いろんな人種が寄り集まった若い歴史の国で、考え方がばらばらの人間同士が、自分の権利を主張しあうから、訴訟ごとが絶えなくて、弁護士はどんどん儲けるって仕組みだね。父が十分に儲けているから、母は職業にはついていない。専業主婦という優雅なご身分だ」
自分が同性愛者であることを自覚した幼い頃に、エドは両親との間に心理的な壁を作ってしまった。そのとき彼は十一歳だったけれど、パパやママに、自分が同性しか好きにならない種類の人間だと知られてしまうのは、恐ろしいことのように思えた。
あの保守的な両親に、自分がゲイであることなんか、理解してもらえないに違いない。――特に、職業を持たず、家庭を守ることに長い時間を費やした母のサラ。彼女が、息子がゲイであることを認められるとは、とても考えられない。
そのことと、今、まさに隣にいるルカにどうしようもなく惹かれている自分のことを考え合わせて、エドの口調は、辛辣になってしまう。
横顔を見せているルカは、いけないことを訊いてしまったのだろうか、と危ぶんだ顔をしている。
エドはそれに気づかないそぶりで、車窓に目を向けた。
石造りのカトリック教会の向こうに、ぼってりとした夕日が落ちていくのが見えた。オレンジ色の光が、戦争の傷跡が目立ち始めた街並を染め上げてゆく。
ルカを好きになるな。
好キニナッタリスルナ。絶対ニ。
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