第7話 episode.3 ジャーナリストたち(1)
「なんだか、無意味に大きな体をした男ねえ」
クレアが紅茶のカップに唇をつけながら、ポールに言った。
起きぬけの朝食の席でも、彼女の唇は、いつもどおり魅惑的な薔薇色をしている。
どこへ海外取材に行くにも、クレアは気に入りの紅茶のティーバッグを持っていく。
「ブレックファーストには紅茶を飲まないと一日が始まらない」というのが彼女の信条なのを、長年の友人であるポールはよく知っている。クレアとは、何度も一緒に戦地取材をこなした仲だからだ。
「無意味に大きいって──誰のことを言ってんだ、クレア?」
「あの通訳の男のこと。ルカ・ミリッチ、だっけ?」
そう言って、クレアは皿の上のトーストを齧った。
昨日、そのルカを通訳に採用することを決めて、昼食の席でオカザキとクレアに引き合わせた。
オカザキに紹介されたときには、ルカがその頬を上気させていたことを、ポールは微笑ましく思い出す。高名なカメラマンの前で、あの若いクロアチアの青年は、ひどく緊張していたのだ。
「ああ、ルカね。いい通訳が見つかって、ラッキーだったな。英語もうまいし、頭もいい」
これまでにもポールは、各国の色々な現地ガイドと行動を共にしてきたから、一口に通訳といっても、ピンからキリまで、本当にさまざまな人間がいるのを知っている。が、ルカは、そのポールの経験に照らし合わせてみても、確実にピンの部類に属している。
通訳として専門的な経験がないにも関わらず、レスポンスが正確で、しかもすばやい。英語力だけの問題ではない。あの応答の的確さは、周囲の状況を常に読み取ろうとする人間だけが持てる種類のものだ。
午後は、ルカにバンを運転させて、ブコバル入りしてから最初の取材に行った。目的地は、ブコバル市内の西端に位置する、カトリックの孤児院だった。
ブコバルには尖塔を持つ古い教会が多いが、その一つを、急ごしらえの孤児院にした場所だ。戦火で親を失った子供達の数が急増したせいで、急遽、礼拝堂を孤児たちが寝泊りする所にあてただけの、そんな孤児院だった。
そこで働く四人の女性は、尼僧服を着ていなかったので、最初は、シスターではないのか、とポールは思った。ルカに頼んで、彼らが尼僧ではないのかどうかを尋ねてもらうと、年かさの一人が沈痛な顔をしてクロアチア語で答えた。
「この四人の女性たちは、全員、シスターだそうです。でも、二十二人の子供の面倒を、たった四人で見ているために、神に身を捧げた象徴を身にまとう余裕など、とてもないのだ、と言っています。飢えさせず、寝床を与えてやることだけで、精一杯なのだそうです」
シスターたちの話を聞いたルカは、そんなふうに英語に直してポールに伝えたあと、今度は何事かをクロアチア語でシスターたちに話しかけた。
すると、その言葉がよほど嬉しかったのか、彼女たちは笑みをもらし、口々にルカに祝福の言葉を唱えて、十字を切った。
「あんた、今、シスターたちに何て言ったんだ?」
ルカの投げかけたクロアチア語が、どうしてシスターたちにそんな反応を取らせたのかを知りたくて、ポールはそう尋ねた。
「ああ、彼らのお母さんやお祖母さんたちは、尼僧服を着ていなかったはずだから、そのほうがいいと思う、と言ったんです。ここにはうんと小さな子供や赤ん坊も多いですから、あの黒い尼僧服を着た胸で抱っこされたら、彼らは怯えてしまうでしょうから、と言いました」
暗い表情をしたシスターたちを、そんなふうにとっさに慰めたルカを、ちょっと見直したような顔でクレアが見ていた。
「ずいぶん小さな子供の生態に詳しいわね、ルカ。あなたには子供がいるの?」
クレアはそんなことを尋ねた。
「いえ、僕はまだ結婚したことがありません。ですが、実は今、ちょっと事情があって、姉と姪っ子と三人で一緒に暮らしているんです。姪はまだ四歳になったばかりなので」
ルカは少しぎこちない笑顔で答えた。どうやら彼は、この勝気で美しいイギリス女性に気圧されているらしい。
「何ていう名前? その姪っ子って?」
ポールが尋ねると、ダニエラといいます、とルカは微笑みながら答えた。
彼がその名を呼ぶとき、ひどく幸せそうな顔をすることにポールは気づいた。
そして反射的に、ロンドンに残してきた、二人の息子のことを考えた。──ジェイクとウィリアム。九歳のジェイクはサッカーに夢中で、ブコバルから戻ったら、スタジアムにサッカーの試合を見に行くことになっている。三歳七ヶ月のウィリアムの方は、そのダニエラというルカの姪と、ちょうど同じくらいの年齢だ。
……もし、ウィリアムがこのクロアチアにいたら? 空襲警報がいつ鳴り響くかわからないこの街に、あの小さなウィルがいたとしたら?
自分にとっては仮定法での話だが、ルカにとって、それは現実なのだ。このブコバルで、守らなければならない愛しい命を持っているということは、どれほどはりつめた毎日であることだろうか?
遠いクロアチアの朝食の席で、二人の息子のことを思い出していたポールに、向かいの席に座ったクレアが、うふふふ、と意味ありげに笑った。
何がおかしいんだ?と尋ねたら、紅茶のカップから唇を離したクレアが、つやっぽい口調で言った。
「ルカは、結婚してないって言ってたわよね……?」
「ああ、昨日、あいつはそう言ってたな。……おい、ちょっと待てよ、クレア?」
「なあに?」
悪びれずにそう言って目をあげた彼女の顔を見て、ポールは大仰にため息をついてみせた。
「クレア、ちょっかいなんか出すなよ、こっちの男に。……また一悶着あって、面倒な事態になるのは御免だぜ、俺は」
「あら、私はそのことであなたに迷惑かけたこと、ないでしょ?」
「よく言うぜ、まったく! あのな、クロアチアみたいなカトリック国で、お前さんみたいに男をなめてかかると、痛い目にあうぞ? あんたのほうは、楽しかったわ、じゃあね、ですむかもしれないけど、相手のほうは一回でもセックスしたりすると、真剣になっちまうんだから。特にああいう、真面目そうな男はな――」
ポールがそう言うと、クレアは顔にかかっていた豊かな髪を払って少し笑った。
「そう、ああいう真面目そうな東欧系の美青年って、いいのよねえ……ベッドでは情熱的でね。ルカは顔立ちもセクシーだわ。綺麗な眼をしているじゃない?」
「クレア……あのなあ。お前、せっかくいい通訳が見つかったっていうのに、台なしにすんなよ? そういうのは、ロンドンで適当にやってなよ。ほら、イエール大で、経済だか哲学だかの博士号を取ろうとしていた、若いアメリカ人の彼がいたじゃないか? あいつはどうしたんだよ、最近?」
「デイヴのこと? 彼の専攻は社会哲学よ」
「そうそう、そのデイヴ。一時期は、結構いい感じだったみたいじゃないか」
「あんなの百万年前に終わってるわよ。彼、博士号とって、コロラド大学で助教授になったのよ。そしたら結婚して一緒に来てほしい、ですって。バカにしてるわ。アメリカのコロラドくんだりで、私に何をどうしろっていうのかしらね?」
ポールはもう一度大袈裟にため息をついて見せた。
「クレア。……俺は、お前さんの『お友達』でよかった。お前の恋愛の対象『外』で、本当によかったよ」
「私もあなたの友達で、本当によかったと思ってるの。あなたは頭も切れるし、仕事もできるし、一緒にいるととても楽しい。もしあなたと寝てしまっていたら、私は素晴らしい友人を失うところだったわ、ポール・エヴァンス」
そう言って、クレアは美しい微笑を浮かべた形の唇を、白い紅茶のカップに押しあてた。
そうやって一口紅茶をすすってから、彼女は深いため息をついた。
「思っていたより、ブコバルの壊され方は、ひどいわ。……朝食の席でぐらい、不謹慎な笑い話をしていないと、仕事をする元気が保てないくらい」
クレアの青い瞳が暗い色になった。ポールの目の裏に、昨日、孤児院まで行く道のりで目にした、爆撃によって無残に破壊された街並みが浮かんだ。
「一年前のザグレブはどんな感じだった?」
ポールがクレアに尋ねた。
「トゥジマン政権が自由選挙で誕生した頃ね。あのときは、クロアチアの誰もが、民族自決による国家の創設を、素晴らしいことのように感じていたみたいだった。……でも、民族の純粋性という言葉は、容易に全体主義を呼び起こす。クロアチアに住むセルビア系の住民の反発は、必至だった」
クレアは苦いものを嚥下するように、そこでいったん言葉を切った。
「もともと、独自の社会主義国であることを維持するために、ユーゴスラヴィアは軍事力に資金を割いてきたわ。自衛のために、一般の市民が躊躇なく武装するこの国の風潮が、ここまで戦いを泥沼化させてしまった。……殺戮は、次の世代に大きな憎しみを作り出してしまう。たとえば、昨日会った孤児たちが大人になったとき、セルビアには憎しみ以外の感情を持てないと思う。そうじゃない?」
まだ化粧で色取られていないクレアの頬が、やりきれなさを浮かべて、とても白く見えた。
「大量の殺人に、国家が大義名分を与えてしまったら、憎しみは簡単に育っていく。そして、憎しみを抱いた人間がたくさん集まると、いつだって人間の総和以上の力が生まれてしまうものだわ。……ポール、ねえ、これは予感だけれど」
クレアは、ポールの顔を覗き込むようにして続けた。彼女の青い瞳は、またたかずに、ただ真剣な光をたたえている。
「これは予感だけれど、二ヵ月の取材予定を、切り上げて帰国した方がいい事態になるかもしれない。逃げなければならないときには、ためらわずに撤退しましょう。GBNの上層部の判断なんか、クソ食らえっていうときもあるじゃない?」
彼女らしからぬダーティな言葉を使って、クレアはそんなふうに言った。
そうだな、とうなずきながら、ポールも、このブコバルの惨状が自分の予想以上だったことをしみじみ考えていた。
銃撃と砲火で、むごたらしく引き裂かれたこの街並みを、戦地取材が初めてのエドは、どんなふうに感じているのだろう?
豊かなアメリカで育ったあの若い男の魂は、何を感じ取っただろう?
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